「革命なき革命」源頼朝が成し遂げた世界史の奇跡 日本の未来を見据えていた12人(第9回)「源頼朝」

歴史の復習もかねて 読んでおきましょう

 

「革命なき革命」源頼朝が成し遂げた世界史の奇跡 日本の未来を見据えていた12人(第9回)「源頼朝」 | JBpress(Japan Business Press)

 政治家に対してレクチャーをするときに慨嘆することが2つある。

 1つは「それをどうやって実現すればよいですか?」と逆質問された時だ。

 平成初頭くらいまでの政治家は「政局はわかるが政策はわからない」「あらゆる政策を政局と絡めてしか判断できない」と批判され、故に政治改革が叫ばれた。

 ところが、今や「政局がわからないので、政策をどう実行すればいいかわからない」政治家だらけなのである。

 2つは、あまりに理解力が低くて、「そこから説明しなければならないのか!?」と絶叫したくなる場合である。

 この2つ、一度や二度ではない。政治家は、すっかり劣化してしまった。

 確かに現実は「よりマシな政治」を求めるしかない。しかし、モノには限度と合格最低点がある。

 かつて自民党は、「日米安保体制と資本主義に賛成ならば、思想もそれ以外の政策も問わない」と豪語しただけあって、他に問題が多々存在したが、日本を平和な経済大国にした。

 その2つも、田中角栄が日中友好を推進したので、いい加減になった。米中友好のうちは良いが、アメリカが共産主義国の中国を敵視するようになり、自民党が政権与党に居座る日本は、国際社会で右往左往するだけの存在となった。

 そして高度経済成長もバブルも終わり、長い慢性的不況が訪れた。8年も総理大臣を務めた男が、景気回復すら成し遂げられなかった。確かに安倍晋三内閣は緩やかな景気回復を実行したが、政権末期にはそれも怪しくなった。それでも阪神大震災や東日本大震災の時のような不手際はなく災害対策だけはできるかと思われたが、コロナ対策の惨状は御覧の通りである。

 日本人は、どこまで政治の劣化に我慢しなければならないのか? とっくに合格最低点を下回り、年を経るごとに進む政治の劣化に対し、いつまで「よりマシな政治」に甘んじなければならないのか?

暗殺の危機のなか先手を打って挙兵

 約850年前も、日本人は同じように思っていた。

「いつまで我慢しなければならないのか?」と。

 そんな時に救世主の如く現れたのが、源頼朝である。

 頼朝の名を聞いたことがない日本人はいないだろう。だが、頼朝がいかに偉大な人物であるかを知っている日本人はどれほどいるだろうか。

 源頼朝は、世界に模範となる日本人である。

 あるべき政治家の姿として、頼朝の生涯を追う。

 久安3年(1147年)、頼朝は中級貴族の源義朝の嫡男として生まれた。三男だったが、母の身分が高かったので、嫡男とされた。

 当時の政界では、実力のある上皇が皇室の家長として権勢を振るった。「治天の君」である。他の上皇や有力貴族は権力に取り入ろうと陰湿な派閥抗争を繰り広げていた。天皇は「皇太子の如し」と扱われ、栄華を誇った藤原摂関家もいかに治天の君に取り入るかに腐心していた。そうした朝廷上層部の最下層に源氏と平氏が存在し、有力貴族に犬のように使われていた。

 保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御し、治天の君の座を巡り崇徳上皇と後白河天皇が争った。結果、源義朝と平清盛がついた後白河陣営が勝利した。だが、義朝の親族はほとんどが崇徳陣営につき、源氏の勢力は衰退する。保元の乱である。

 平治元年(1159年)、義朝は後白河上皇に謀反を起こし破れる。父は逃亡中に家臣に裏切られ、騙し討ちで殺された。既に公家として任官していた13歳の頼朝は初陣として参加したが、何もできずに捕縛された。この時、清盛の慈悲で伊豆への島流しで許された。

 平治の乱以後、中央政界では平清盛の権勢は他を圧し、遂には後白河法皇をも幽閉する。権力と富を独占する平家への不満は全国に広がった。これに真っ先に反旗を翻したのが、以仁王(もちひとおう)である。

 治承4年(1180年)、以仁王は平家打倒の檄文を全国に飛ばし、頼朝にも届く。実は頼朝は、あまり政治に関心が無かったらしい。ところが、頼朝は清盛の宿敵、義朝の遺児であり、武士の中では清盛とともに最も高貴な出である。貴種の頼朝に全国の武士の期待が集まり、平家も警戒する。頼朝は暗殺の危険を感じ取り、先手を打って挙兵した。

 頼朝は関東の武士に檄を飛ばし、悪戦苦闘の末に勢力を結集し、鎌倉に入る。

 頼朝討伐の為に西国から進撃してきた平家軍を、富士川で迎撃。圧勝した。富士川の戦いである。

 頼朝はすぐに進撃しようとしたが、武士団の反対で断念。勢力を整える為に鎌倉に戻る。仮に追撃しても、おそらく補給が続かなかっただろう。これが賢明な選択となった。

 関東で戦力を整えている間に、異母弟の義経をはじめ、兵士に不満な武士が参集してきた。頼朝は侍所を設置するなど、軍事政権の実を整えていく。全国で動乱が勃発し、いつの間にか、中央政権の平家に継ぐ日本第二の実力を保持していた。

 飢饉の間は平家と休戦し関東の地盤を固める頼朝に代わり、京都へ進撃したのが同じ源氏の源義仲である。だが義仲は軍事能力こそ高かったが、政治は無能だった。朝廷は頼朝に義仲追討を命じる始末だった。頼朝は朝廷の上洛要請を断り、義経らを差し向けて義仲を誅殺する。

なぜ武士を組織化できたのか

 さて、なぜ全国の武士は平家に不満を持っていたのか?

 長い藤原氏の摂関政治、ついで院政の時代、武士は貴族の犬として扱われた。それでも、その統治に満足すればそれだけで不満は持たない。

 武士は1つの所領の為に命懸けで戦う。すなわち、「一所懸命」である。一族の所領を守れるならば、むしろ喜んで貴族に犬のように仕える。

 だが、朝廷の裁判が公正を失い、自分の所領が守れないとしたらどうするか。武器を持って戦う。法が頼れない以上、自力救済を行う。

 そこに頼朝は「自分に従えば所領を守る」と公約した。「だから、自分を武家の棟梁として押し立てよ」と命じたのである。関東の武士たちは、貴種の頼朝を自分たちの棟梁として仰いだ。

 頼朝はこうして自分に従う武士を組織化し、強大な平家政権、そして朝廷そのものと戦う態勢を整えたのだ。

政局と社会構造を熟知し、日本一の実力者に

 文治元年(1185年)、義経は平家を一気に滅ぼしてしまう。義経は2つの意味で愚かだった。

 1つは、大失態を犯している。平家が逃亡の際に安徳天皇を連れ三種の神器を持ち出し、一時的に京都の後鳥羽天皇と2人の天皇が存在する事態となった。南北朝ならぬ、「東西朝」である。この事態は2年間続いた。そして事もあろうに安徳天皇は入水、あげくに三種の神器の1つである草薙剣は、遂に壇ノ浦に沈んで浮かんでこなかった。

 もう1つは、義経は頼朝の構想をまったく理解していなかった。頼朝の目的は、朝廷に対し武士の自立を認めさせることである。外国のように朝廷に取って代わるなど考えていない。大昔の平将門は勝手に「新皇」を名乗り日本中の反感を買ったが、頼朝はそのような愚を避けた。

 平家討伐を名目にゆっくり軍を進め、各地の裁判権を掌握する。朝廷も平氏も政権担当能力を失い、公平な裁判を行っていない。だから軍事進駐して占領地に秩序をもたらし、それを日本中に広げる。これが頼朝の構想だったので、何も考えずに平家討伐に邁進する義経は邪魔でしかなかった。頼朝は仕方なく義経を謀反人認定し、全国に追捕の手を伸ばし、勢力を拡大する。

 頼朝は当時の政局と社会構造を熟知し、何をすべきかの現実的政策を実行した。全国に守護地頭を設置した。つまり、頼朝は武士が有事の募兵や納税などの義務を果たす代わりに、所領を安堵し裁判の公正を約束した。千年以上も日本中に根を張る朝廷の勢力はまだまだ侮りがたかったが、頼朝は誰もが認める日本一の実力者となった。

 そして実質を完成させるのは、形式である。頼朝は最も重要な形式にこだわった。

 建久3年(1192年)、頼朝は征夷大将軍に任じられる。

 征夷大将軍は、有事に戦場において天皇に代わり統帥権を行使する職である。これを兵馬の大権と呼ぶ。征夷大将軍のいる場所を「幕府」と呼ぶ。征夷大将軍も幕府も臨時の職である。それを常設にするとは、治天の君に代わり最高権力を保持することを認めたことである。

 以後約700年間、慶応3年(1867年)に徳川慶喜が征夷大将軍を返上し江戸幕府が滅びるまで、武家政治が続く。

無駄な戦乱を回避した「日本の発明品」

 これは世界史の奇跡である。なぜなら「革命なき革命」だからである。

 革命には2つの意味がある。1つは、君主制度を転覆すること。もう1つは、社会構造を根本的に変革すること。頼朝は、皇室を滅ぼすことなく、社会構造を根本的に変革した。

 自分が武力で皇室に取って代われば、力を無くしたときに他の誰かが取って代わる。日本以外のほとんどすべての国で、この意味での革命が発生し、ほぼ例外なく地獄のような苦しみがもたらされた。頼朝は朝廷を武力で脅迫して政治的要求を呑ませることもしばしばだったが、そこに留めた。後世の権力者も頼朝を模範とした。その方が自分や子孫の身が安全であり、秩序が混乱しないと身を以てわからせたのである。

 そして朝廷の秩序を壊さず、天皇の権威の下で別の政府体系を打ち立てた。征夷大将軍のような官職を与えられることは、天皇の権威を前提としている。その後の700年間、多くの混乱が存在したが、そのすべてを朝廷は乗り切った。政治の最終的勝利者を認定する役割が、朝廷に残ったからである。

 我が国の歴史に君主制を廃する革命の悲劇はなく、社会制度の矛盾がゆっくり解決されていった。こうした体系を「幕府」と呼ぶ。ちなみに昔は「Military Government」などと訳していたが、今や定訳は「Bakuhu」である。日本にしか無い概念だからである。

 君主である天皇は権威として君臨し、実質的な最高権力は平時の司法権と有事の統帥権を掌握する征夷大将軍が行使する。もし将軍権力が揺らいだ場合は、政治の決着がついた段階で天皇が勝者を認定する。日本の発明品である。この発明品によって、どれほどの無駄な戦乱が回避されたであろうか。

 幕府を考え出したのは頼朝のブレーン集団であり、その筆頭は大江広元である。当時最高の有識者であった広元の考えを頼朝がどれほど理解できたかはわからない。ただ、少なくとも「そこからか!?」と広元を慨嘆させることはあり得なかった。頼朝自身も十分な識見を持っているからこそ、広元のような人物の提言を採用できるのである。

 そして何より、政治家の最大の仕事は人の心を掴むことである。人心を掴まねば政局には勝てないし、政策は実行できない。

 源頼朝は、日本人が誇るべき偉大な政治家である。

 

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