新型ウイルスでもビクともしない習近平「盤石」政権にはワケがある

習近平は 弱者のために 頑張っていると

じゃどうして 海外に 莫大な金を 移しているのだ?

 

新型ウイルスでもビクともしない習近平「盤石」政権にはワケがある

加藤隆則(中国・汕頭大学長江新聞輿伝播学院教授)
 
 春節(旧正月)休暇で1月上旬、勤務地の広東省・汕頭(スワトウ)大から日本に一時帰国した後、新型コロナウイルス(COVID-19)感染の拡大で新学期の授業が3週間遅れ、休暇が大幅に延長された。3月からオンラインによる在宅授業が始まり、取りあえず大学に戻ろうと思ったが、今度は日本の感染例が増えたことで、逆に出国を足止めされた。教室はまだ空っぽのままだ。
 
 この間、自宅待機で気の滅入っている学生たちを励まし、マスクの足りない学生には郵送し、わずかながらの支援をしてきたが、今は逆に「先生、気を付けてください」と心配をされている。日本では「習近平政権が動揺している」「一党独裁にひびが入った」などの話も聞かされたが、隣人が苦しみ、奮闘しているときに、ためにする政治談議は避けてきた。
 
 ところが、中国での感染拡大に一定のコントロールが効き始め、片や日本でトイレットペーパーやティッシュペーパーが店頭から消える騒ぎが起きた。日本政府の対応には疑問も多い。感染症は国境を越えたリスクだが、隣国の事例を他人事だと思っていたツケではなかろうか。
 
 「しょせんは共産党独裁の弊害」だと決めつけていた思い込みはなかったか。ここで冷静に事態を振り返ることも、隣国を理解し、さらに自分たちを再認識するうえで貴重なことだと思う。
 
 実は大学の指示により、2月16日から毎日午前、携帯のアプリを通じ、その日午前と前日午後の体温、咳(せき)やだるさの有無など、詳細な健康状態の報告を命じられている。1万人以上いる全教師学生が対象だ。各地方、各組織によりバラツキはあるだろうが、全国で似たような施策が行われているとすれば、自主申告であるにせよ、14億人の健康状態が逐一集約されるシステムができ上がっていることになる。
 
 中国の都市部では、外出も家族で1日か2日に1回、しかも3時間だけと限られているエリアも少なくない外出時には警備員から時間を記入したチケットを渡され、それを持たなければ再帰宅はできない徹底ぶりだ。その後緩和されたようだが、「在宅」が常態化していることに変わりはない。
 
 一方、日本では感染例が増加しているにもかかわらず、つい最近まで通勤時間の地下鉄はすし詰め状態で、マスクをしていない乗客も目立った。横浜に寄港したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の感染問題では議論が沸騰したが、官民を含め自分たちの日常生活に対する危機感は極めて薄い。
 
 政府は2月末になってようやく緊急対応を呼びかけ始めたが、国民の健康に対する考慮というよりも、政治的な思惑が色濃く感じられるのは残念である。中国の危機感と徹底した管理は盛んに報道されていたはずだが、奇異な目で他人事の騒動を見物しているだけで、教訓として切実に学ぼうとする姿勢は感じられなかった。「高をくくっていた」と言われても仕方ない。
 
 福岡市の地下鉄では走行中、乗客がマスクをせずに咳をしている他の乗客を見て、非常通報ボタンを押す騒ぎが起きた。やや過剰な反応ではあるが、緊張感のなさに対するいら立ちが爆発した一つの事例だとは言えまいか。
 
 危機感の薄さ、緊張感のなさに加え、日本では個人の人権やプライバシーの尊重、個人情報の保護が優先されるので、中国のような集権的、強権的な対策は採りづらい。憲法によって個人の広範な自由が認められている日本の社会では、一方で、自己責任の原則により、自主性に頼った施策に頼らざるを得ない。とはいえ、プライバシー保護を理由に不十分な情報しか開示されない中、自分たちを守る手だてさえないのが実情である。
 
 両者をバランスよく取り入れるのが理想なのだろうが、どちらのスタンスを取るかは、社会的合意の比重をどこに置くかによる。一方の価値観を持ち出してもう一方を批判しても意味はない。
 
 中国では、言論の自由や個人の人権を犠牲にしても、生活の保障、健康や生命の安全を第一に考える人たちの方が多数派である。肝心なのはその違いを認識し、相手の立場に立ってものを考える視点である。
 
 中国でなにか問題が起きるたび、すぐに共産党政権の動揺、崩壊や一党独裁の危機と結び付けた発想をするのが日本メディア、そして日本世論にしばしば見られるステレオタイプだが、あまりにも短絡的である。そうあってほしいという願望や、そうでなければならないという先入観が生んだ偏見でしかない。
 
 中国の新型肺炎による死亡例は2月末で約2800人だ。一方、米国のインフルエンザによる死者は今年既に1万2千人に達しているが、これをもってトランプ政権の危機を論じるのを見聞きしたことはない。
 
 同じことは日本にも言えるだろう。中国で情報隠しがあると「一党独裁の弊害」と断罪するが、情報隠しはどの国の政治権力でも起きている。権力そのものが持っている体質である。
 
 今回の事例で明らかになったように、こうした偏見や先入見が、隣国の教訓から学ぶ目を曇らせているとしたら、世界の潮流からも取り残されることは肝に銘じておいた方がよい。
 
 バイアスを排し、目を凝らせば、全く違った真相が見えてくる。今回の対応を通じて政治的な側面を観察すれば、習近平政権の盤石ぶりが見て取れる。むしろ基盤が再強化された側面さえ指摘できる。真相は政権の動揺や危機とは裏腹である。
 
 徹底した健康状態の把握、管理については既に触れたが、それを隅々にまで拡大できたのは2012年末に発足した習近平政権7年間の実績にほかならない。徹底した反腐敗キャンペーン、不正幹部の摘発、イデオロギー統制によって、緩んだ官僚機構の綱紀が粛正され、末端にまで習氏の指示、意向が浸透する体制ができ上がった。
 
 権力集中に功罪があることは言うまでもない。だがその前に、独裁の強化を批判する人たちはまず、胡錦濤時代、権力の分散によって腐敗が深刻化し、党指導部内のクーデターさえ計画されていたことに思いを致す必要がある
 
 当時、領土問題で日中関係が極度に悪化した背景にも、こうした熾烈(しれつ)な政治闘争があったことは衆目が一致している。前政権に対する反省から、習氏による権力の掌握、集中がスタートしている。
 
 また、習氏のバックには、共産党政権の正統を担う革命二世代、いわゆる「紅二代」の支持があることも重要だ両親たちの世代が築いた共産党政権が、内部の腐敗によって分裂、崩壊の窮地に追い込まれた、との危機感が共有されている。
 
 個々の政策について立場の違いはあるが、党の支配を堅持するという原則論では一致している。中国社会においては最も発言力のあるグループだ。
 
 中国の憲法改正によって、国家主席について任期2期10年の上限が取り払われたことは記憶に新しい。西側メディアには悪評高いが、権威の強化にとっては極めて大きな意味を持つ。
 
 「あと数年で引退」が自明となった途端、権力が空洞化し、綱紀が緩み始めることは、過去の反腐敗キャンペーンが示している。「独裁=悪」という単純な図式だけでは、中国政治の真相を正しく理解することはできない。
 
 もし、習近平政権が脆弱(ぜいじゃく)だったら、と想像してみるのも頭の体操にはよいだろう。あらゆる問題が政権内の政治闘争とリンクし、例えば、米中貿易摩擦は取り返しのつかない泥沼に入り込んでいたかもしれない。
 
 新型コロナウイルス感染の対策でもより大きな混乱が起きていた可能性がある。今回、日本からの支援が美談としてもてはやされたが、それもかき消され、公式訪日の相談をするどころではなかったに違いない。巨大な隣国の政情が不安定であれば、日本が大きな影響を受けるのは必至である。
 
 習近平政権の一連の対策や対応の中で、注目すべき点は2月13日、湖北省と武漢市のトップが同時に更迭された人事である。同日の党中央発表によれば、蒋超良・湖北省党委員会書記に代えて応勇・上海市長を、馬国強・武漢市党委書記の後任に王忠林・山東省済南市党委書記が就くことになった。応勇氏、王忠林氏ともに公安部門の経験が長い。
 
 危機管理に際し、公安部門出身の指導者を投入するのは時宜にかなった人事である。とはいえ、世界が注視する騒動のただ中で、省市トップ2人の責任を明確にし、更迭するのはかなりの荒療治だ。
 
 だが、習氏は適材適所の人事を断行し、公安人脈を完全にコントロールしていることを示した。軍と並んで権力基盤の源泉である公安部門の掌握は、政権の安定に大きな意味を持っている。
 
 さらに重要なのは、今回の人事が前指導者に対する懲罰として、民意の圧倒的な支持を得た点、つまり世論を読み込んでの臨機応変な宣伝工作である側面だ。この人事には前段がある。
 
 6日前の2月7日、いち早く新型ウイルス拡散の危険を警告していた武漢の医師、李文亮氏が感染で死亡した。自分の命を犠牲にしてまで治療に力を注いだが、武漢市公安当局はそれまで李氏ら8人を「デマを流した」と犯罪者扱いし、反省文への署名まで求めていた。
 
 訃報はインターネットでのトップニュースとなり、「英雄」に対する哀悼、さらにそれを上回る市当局への「罵倒」であふれた。私の教え子たちもそれぞれの会員制交流サイト(SNS)を通じ、一斉に哀悼と抗議を表明した。情報を操作し、初期対応で失態を演じた政府の対応に、庶民の怒りが爆発したのだ。
 
 だが、中央の反応は早かった。共産党機関紙、人民日報が哀悼の記事を発表し、国家監察委員会も同日、武漢市の対応を調査するチームを派遣した。
 
 1週間を待たずに発表された両トップの更迭は、その調査を受けた最高レベルの処分である。庶民の怒りに応える、一応の決着にはなった。
 
 きちんと民意をくんで責任者を処分したのだから、さらに事態を拡大させ、社会不安をあおるような言論は許さない。これが党による情報統制である。自由な言論そのものに価値を置く一部知識人は反発するが、抵抗することの損得をはかりにかける多くの庶民は受け入れている。
 
 ただ、今回の感染についていえば、独立性の高いメディアの的確な調査報道に加え、おびただしい数のSNSによる情報発信があり、デマや誹謗(ひぼう)中傷を含め、日々あふれるほどの情報が流れたという印象だ。画一的な宣伝だけで皆が納得しているわけではない。個人情報の壁が大きく立ちはだかっている日本とは大きく異なる。
 
 庶民は、自信を持ってリーダーシップを発揮する強い指導者を求める。組織を重視する日本社会とは違って、個人の力に頼って問題を解決していこうとする発想がある。緊急事態であればなおさらだ。
 
 感染に関する中国の報道の中で、しばしば登場する人物が国家衛生健康委員会ハイレベル専門家グループ長で、国家呼吸器系統疾病臨床医学研究センター主任の鐘南山氏だ。2002年から03年にかけての重症急性呼吸器症候群(SARS)事件では、感染が拡大した広東省で、広州市呼吸器疾病研究所所長として手腕を発揮し、その名を世界に知らしめた。
 
 鐘氏は、2月27日には広州医科大で感染の予防やコントロール状況について記者会見し、「4月末には感染がほぼ抑制されると信じている」との重要なメッセージを発した。鐘氏の発言は非常に説得力を持つ。個人の権威によって、情報を伝えようとする政権の意向が感じられる。日本では許されない個人的見解だろうが、これがあくまで強い指導者の権威に重きを置く中国社会の一端である。
 
 最後に、習近平政権のアキレス腱(けん)について触れておきたい。民主主義のシステムでは、政治家への評価は選挙によって下される。失策をしても、再選されれば、禊(みそぎ)を済ませたことになる。
 
 だが、官僚機構と人脈を通じた複雑な選抜システムを生き抜いてきた中国の指導者は、失策はすなわち失脚に直結する。敗者復活がないからこそ、政治生命をかけた激しい政治闘争が起きる
 
 2020年、習氏が確約していることがある。16年からの第13次5カ年計画で国民の1人当たり可処分所得を10年比で倍増させ、なお数百万人いる貧困人口を解消することだ。
 
 これは、いわゆる「二つの100年」目標―2021年の中国共産党創立100年までに小康(ややゆとりのある)社会を全面的に築き、49年の建国100年までに近代的社会主義強国となる―を実現させるためのステップとなる最重要課題である。カギを握るのは春の全国人民代表大会で、延期されたものの、何としても責任ある態度を明確に示さなければならない。
 
 分かりやすく言えば、共産党政権の誕生を担った農民が今や社会の最下層に追いやられ、格差社会の中で不当、不公正な扱いを受けている現状を改め、腐りきった党幹部にかつての初心を思い出させ、党支配の正統性を再び取り戻す任務である。習氏が過去の指導者には見られないほど、足しげく農村を視察して回っているのはそのためだ。紅二代から授かった使命でもある。
 
 感染問題が長引き、十分な医療を受けられない貧困層の生活や健康、生命が脅かされる状態になれば、そのときこそ政権の是非が問われる。だからこそ多少の荒療治をしてでも、それを食い止めなければならない。習氏はそこを見ているし、心ある中国ウオッチャーもやはりそこに目を向けなければならない。
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