李登輝元総統 死去

このことは知りませんでした↓

八田の未亡人は「みあと慕いて我もゆくなり」と書き残して夫が作り上げたダムの放水路に身を投じた

 

中韓を知りすぎた男

李登輝元総統 死去  8月3日(月)

李登輝が亡くなっても彼の「武士道精神」は台湾と日本に生き続けます。彼は本居宣長の和歌『敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花』と、新渡戸稲造の名著『武士道』こそが日本人が最も誇りに思うべき普遍的心理であり、日本社会がいま直面しているために絶対に必要な精神的指針である」と言っています。

李登輝は1923年生まれ、台北高等学校卒業後、京都大学農学部に進学する。52年~56年アメリカに留学 78年~81年台北市長96年台湾初の総統直接選挙の当選、これがアバウトの彼の経歴です。

日本にとって彼の最大の功績は「教育改革」です。それまでの教科書には「大陸中国」のことばかり詳しく書かれていて 肝心要の台湾のことなどほとんど書かれていなかった。そこで彼は日本による統治時代に台湾の社会的基盤が構築されたことを正しく評価する教科書づくり取り組んだ。

台湾統治の難事業は1898年第4代台湾総督児玉源太郎と後藤政局長の時代から台湾が急激に発展し始めた。その頃台湾は風土病の島でした。ペスト,コレラ、赤痢、天然痘,発疹チフス、腸チフス、ジフテリア、マラリアなどが流行り住民の平均寿命は30歳にも満たなかったが、日本人の努力で数年のうちに治安は世界一よくなり泥棒もいなくなり、衛生状態が一変によくなった。

台湾はそれまで道らしい道もなく川に橋もなかった。そこで日本は交通網の整備に着手、南北縦貫鉄道、港湾、道路の建設が直ちに行われた。農業技師 末永仁は「蓬莱米」を生み出した。末永の上司 磯永吉は援助と指導に尽力米の生産量は4倍以上になった。米の増産のために水利灌漑の整備し、八田與一がアジア最大のダムを作った。水路の長さは万里の長城の6倍以上もあった。

その3年後日本は敗れ、八田の未亡人も台湾を去らねばならなくなった。八田の未亡人は「みあと慕いて我もゆくなり」と書き残して夫が作り上げたダムの放水路に身を投じた。今も現地の人々は八田與一の命日に慰霊追悼式を行っている。

そして数年のうちに治安は世界一良くなり泥棒もいなくなった。このような日本人の功績を 教育によって李登輝は台湾人に広めた。だから台湾人は親日である。しかし韓国人はウソの教育によって日本人の功績を消し、最悪の悪人と教えた。だからそれを信じた韓国人は反日にならざるをえなかった。

李登輝は、日本は台湾を植民地にして自分勝手なことをやったしか、おそらく日本の学校の先生は教えない、だから日本人は、ここで大きな仕事をやったんだということを日本の若い人たちに「日本のことを」わからせる必要がある。つまり台湾がもし日本の領土にならなかったら今の台湾は海南島以上にひどい場所になっていた。

韓国も日本が併合しなかったら、あまりにも未開で悲惨の地のままだったという事実を知らねばならない。日本人が勝手に言っているのではない。池満元の著である「反日への最後通告」に朝鮮を現地で長年にわたって観察した外国の知識人たち21人の手記が書かれている。

それによると、一言で言えば阿鼻叫喚の未開の国であった。外国人の誰もが朝鮮人はごく初歩的な衛生観念もない。家には便所がなく道端は垂流された糞尿で避けて歩くほかなかった。21人の外国人がほぼ同じようなことが書かれている。韓国の人々が未だに極めてアンビバレントな対日感情から脱却できないのはウソの教育と大きな関係があると思います。

最後に李登輝氏の言葉です「国際社会全体が不況と不安に晒されているときに、最も頼りになるべき国である日本まで混乱と混沌の中を漂流し続けていたら、人類社会そのものが羅針盤をうしないます。過去を否定する日本人の自虐的価値観に対して私は常に憂慮しています。そしてこの傾向をこのまま放置しておけば、日本だけでなく世界全体が不幸になる、と心の底から危惧しています」といっています

これこそ以て日本人は教訓となすべき事柄なのではあるまいか。

 

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