やっと、投稿する気になれました。
書いたのは1年前です。
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私が藤間流の門を叩いたのは1982年4月。
2011年11月4日。
私とぎりぃの、日本舞踊の母、藤間桂先生が亡くなった。
約30年、私達が尊敬し、愛し、
そして私達を溺愛してくださった先生が亡くなった。
先生との思い出を書いたら、
本が1冊できてしまうくらい、
書きたいことが山ほどある。
絶対に生涯忘れることなんてない。
私の人生のほとんどは、
桂先生から学んだことが基本になっている。
だから、このブログにも、
少しずつ、書き綴っていこうと思う。
常に「愛」を感じる出来事ばかりだったと、
改めて感じる・・・。
本当に、こんな日が来ると思わなかった。
具合が悪くても、私達のことがわからなくなってしまっても、
ずっといてくれると思い込んでいた。
先生は、お母様から譲り受けた幼稚園の園長も兼任していた。
先生には血の繋がった子供は居なかったが、
園児、弟子を自分の子供のように大切にしてくれて、
たっぷりの愛情を注いでくれた。
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桂先生との出会いは、桂先生が園長先生をしていた幼稚園。
私の父(姉弟も)が通っていた幼稚園でもあり、
私達3人弟妹も通った幼稚園だった。
そう考えると、もう、60年以上前からの付き合いになる。
系列幼稚園が3つあったので、
毎日行き来して大変だっただろうと思う。
当時、同じ幼稚園で踊りを習っていたのは3人。
2人は幼稚園卒業と共に辞めてしまった。
忙しい先生だったから、
普段は先生のお弟子さんが代稽古をしてくれた。
(今では兄弟弟子ですが、私達の先輩方。)
桂先生のお稽古日は、
子供心にでもわかるくらいの緊張感。
先輩方も私達も。
・・・怖かったと言う方が近い。
小さい頃はあまりの厳しさに、涙をためながらお稽古をしたこともあった。
でも、お稽古が終わると、
優しい顔に戻る先生。
そして私達の安堵感。
今思うと、あの緊張感は桂先生がいなければ、
4歳児にして味わう事が出来なかったと思う。
礼儀、作法、上下関係、常識などの世間面。
忍耐、辛抱、我慢、愛情などの精神面。
人生で大切なことは、
この頃に、自然と身に付いていた。
たまたまお手伝いさんがいない日だった。
私が小学生低学年の頃、お稽古前に母屋に呼ばれ、
食パンを出され、食べなさいと。
先生の精一杯のおもてなしだったんだと思う。
「あなたの肩の強さは、五年生の時には気付いていたわ。」
「お稽古を頑張る子は、お勉強も頑張るのよね。」
私とぎりぃは、幼少の頃から、毎年母の日に一本だけカーネーションをプレゼントした。
先生は
「私はあなたたちのお母さんみたいなものよね。握手しましょ。」
と毎年嬉しそうにカーネーションを眺めていた。
「白いものも、先生が黒と言ったら黒なんだよ。
今言っている事が、全て真実なんだよ。
失礼のないようにしなさい。」
ご挨拶やお稽古の順番も、年数は関係なく、弟子、孫弟子の順に並ぶのが当たり前だと知った。
お稽古場は、先生の住む母屋と同じ敷地内の建物の三階。
数年前から、先生は足を引きずりながら三階まで登ってくる。
お稽古後は後ろ向きに下っていく。
おみ足悪くされても、私達の格好が違うと、立ち上がって こうするのよ って教えてくれた。
私が学生時代一人暮らしをしたときに、 必要でしょ と言って、先生が裁縫道具を下さった。
先生が、先生のお母様から譲り受けたものだった。
そんな大切なものをいただいた。
ぎりぃが10歳の時、
「あなた挨拶くらいしないとだめよ」
次回挨拶をしたら、
「よく挨拶できたわね」と言ってくださった。
他にも書ききれないくらいの思い出がたくさん。
小学校時代は、幼稚園のお遊戯会、運動会、盆踊りで、
必ず踊らさせてくださった。
お稽古中にあくびはしない。
お稽古中は姉弟同士は指示出さない。
体調を崩され、市原の施設でチョコを一緒に食べた。
(先生はMary’sがお好きだった)
色々なことが思い出されます。
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一生、忘れません。
忘れてはなりません。
私たちの、踊りのお母さん。
先生にお会いできない気持ちと、
私達を育ててくださった先生への感謝の気持ちで、
複雑です。
まだ、受け入れられていないのかもしれません。
早く先生に追いつけるよう(無理ですが)、
お稽古頑張ります!!
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