映画公開からおよそ1週間経ちまして、私も今日ようやく君の名は。の原作小説を入手できました。
どこの書店行っても在庫が品薄で大変でした…知ってる範囲で一番田舎にある本屋でたくさん積んでいました。
パンフレットは行ける範囲探しましたが売切れ…早めに買っておくべきでした。
そんなこんなで君の名は。の記事2つ目。
タイトル自分の中で気に入ってるのでそのまま使ってます。
前回書ききれてなかった感想やら考察やらです。
前回と同じくネタバレしまくってるので、まだ映画見てない方はご注意ください。
まず、糸守に落ちた隕石について。
この物語では糸守町に隕石が落ちることで話が大きく変わってくるのですが、制作インタビューか何かの記事で、この作中の隕石は3.11の東北大震災やそれに類する大災害の寓意であるという話を目にしました。
この作品を作った方々の意識の中にそれがあったのかどうかはともかくとして、私はこの話なるほどなと思いました。
自然災害とはほとんどの場合理不尽なものです。
君の名は。での隕石にしろ、3.11をはじめとした大災害にしても、それは理由もなく突然やってきては、そこで生活をしている人間の生命だけでなく、これまで何世代にもわたって残してきた生活の記録や歩みといったものまで消し去ります。
糸守町には1200年ぶりに地球に飛来した彗星から分かれた隕石が落ちていますが、その1200年前にも(おそらく同じ彗星から?)隕石が落ちて、一度そこにあった人々の暮らしがすべて損なわれる。
こんな理不尽あるかって感じの出来事ですよね。
普通なら何万年単位でも落ちてこないような彗星が、1200年空いたとはいえ2回も同じ土地に落ちてくる。こんなことあってはならない。
あってはならない、と私たち人間は思うんですが、現にそれは起こってしまうんです。
そして、君の名は。という物語は、その理不尽から逃れる、抗う、立ち向かう物語なのかなとも思いました。
瀧が三葉のことを不安に思い糸守へ向かう、そこでとんでもなく理不尽なことを目の当たりにする、三葉の名前さえ忘れてしまう。
でも、立ち向かう。自分にできないことはないかと必死でもがく、行動する。
そんな姿を通じて、見ている側に勇気を与えてくれる話なのかなと思いました。
小説の中に「うつくしく、もがく」という言葉が出てきましたが、星が降る日の滝や三つ葉の様子を端的に表した素晴らしい表現だと思います。
理不尽とは、何も自然災害に限ったことではありません。
世の中にはいろいろ理不尽なことがあると思います。
引き合いに出す話なのか分かりませんが、物語の最後で就活をしている瀧も自分の夢や理想をしっかりと持っていてそれを語るもなかなか内定に恵まれません。
そんななかでも、何とか生き抜いてみせる。そういう決意を瀧が持っているのは、彼自身が表面的にはほとんど忘れ去ってしまった、糸守の記憶からくることなんだろうなと思います。
その理不尽とは別に、人々の「無関心」も描かれていたなぁと思います。
物語の中では彗星がきて、それを天体ショーのように伝えるテレビ放送。
それはまあいいんですが、彗星が2つに割れて、地面に落ちようとする寸前までもなんと珍しい現象、予測不可能だ、いや人の住む町に落ちる確率は高くないだろうという論説が延々流れる。
彗星が落ちて3年後、糸守の近くを訪れた瀧達の一行は、その近くに来てもなおラーメン屋の店主の言葉を聞くまでその災害のことを思い出さないくらいに記憶が風化している。
近年日本で起こった地震や台風被害への反応、その後の世間の反応と、どこか通じるところがないでしょうか。
そして、これはまた違う話になるんですが、隕石が落ちて3年後の糸守のご神体に彗星が降る様子が描かれていて、文字よりも長く残る方法で彗星被害を後世に残そうとしたってエピソードが小説に出てきていまして。
映画で見た時にはその辺の描写と瀧が米噛み酒を飲んだ後の描写がごっちゃになっててよく分からなかったんですが、1200年前の人々の意思が結果的に生かされなかったというエピソードを見て、
「かつての津波被害の甚大さを伝える碑が立てられたが、その碑ごと津波で流された。当時のことを知る人は生存しておらず、結局かつての災害の教訓は生かされなかった」という、3.11の大震災後に聞いた話を思い出しました。
宮水神社の組紐や舞も、火災によってその意味が失われてしまいましたし(本来は隕石被害の悲惨さを伝えるためのもの)、災害から身を守る方法を後世に伝えることは、難しいことなのですね。
こう考えてみると、とっつきやすい感動する恋愛映画という表面の裏に、いろいろメッセージ性のあるものが隠されているのが君の名は。なのかなと思います。
表面だけ見て感動した!切ない!でもいいと思うんですが(というか初見直後の私もそれでした)、違ったとらえ方もあるのかな、と。
もうひとつ、個人的に気になった演出に扉の演出があります。
宮水家の引き戸、三葉の部屋の戸、東京の電車の扉など、引き戸を開く様子に焦点を当てた演出が作中何度も見られます。
当然ながら、そのたびに瀧や三葉といった登場人物はどこかへ向かうべく歩み出しており、一歩一歩前へと進む様子があらわされているのかなと思います。
瀧にしても、三葉にしても居所のほとんどわからない「もう一人の自分」に会いに行こうと思うのは、よっぽどの熱量がないと出来ないことだと思うんです。
最初はなんだこれは、夢のような出来事かと思っているはずなんですが、徐々にお互いに対する想いとか興味が積もってきたのだと思います。
余談ではありますが、物語前半部分の入れ替わった相手にお互いいろいろ言い合ってるの個人的に面白くてものすごく好きです。
何かのスピンオフみたいなもので、瀧と三葉(あと司や高木、サヤちんやテッシー)が同じ地域・時代の同級生だったらみたいな物語が描かれないかなぁとこっそり期待しています。
映画を見て以来物語を読み返してみて思ったことをとどめておくべく書きました。
乱文だらけだとは思いますが…
とりあえず、もう一度は映画館で見てみたいなと思っています。
※君の名は。感想記事
1つ前(1) 1つ後(3)