
武士の稽古
江戸時代は寛永14年(1637)に起きた島原の乱を最後に、幕末まで二世紀余りの間
は戦いらしい戦いは起きなかった。
日常的に真剣を使う事もなく、刀は次第にファッション化していった。
裕福な武家は鞘や鍔の部分にこった飾りをして見せびらかす様に歩いていた。
刀にしてそんな事だから、具足となるとその装着方法を知らない武士が大勢いた。
正月に床の間に具足を飾る際にも手引書を見ながら飾る有様でした。
しかし、武家の基本武芸は刀、弓、槍、馬の四種類の[武芸四門]に真剣に取り組む
武士も少なからずいたのです。幕府は武芸四門を盛んに奨励し、その一環として、
将軍にお披露目をする催しもたびたび開いていた。しかし江戸中期に入ると、戦の
起きる気配さえなく、さすがに怠けてもよさそうなものですが、それでも武士達、
特に次男以下に武芸に励む者が多かった、と云うのも養子の口をみつける為でし
た。武家の次男、三男は長男の様に家督は継げないので、子供のいない家、女の子
ばかりの家に養子に入るのが最高の身の処し方でしたが、剣の達人であれば、みど
ころのある若者と云う事で養子縁組の話が舞い込む事が多かった。
又、剣の腕前に自信があれば道場の師範になる事も出来たし、万が一、家が取りつ
ぶしになったり、召し放しになった時も再就職口をみつけられる確率が高かった。
太平の世の中にもかかわらず武士が武芸に励んだのは手に職をつける為だったと
いう訳でした。
(株)夢の設計社 歴史の謎 より
byビンちゃん