昭和30年戦後小学校1年の私は、盛岡市街地の米軍からB29により住宅の焼けになったので矢巾駅近辺の1軒に借屋に住んでいました。トイレは、専用の小屋の個室でした。このときの尻を「ふく」紙は、いまロールトイレットペーパーを利用しています。少し前は、「ちり紙」を使っていました。仙台市において下水道の発展になり各個人宅のトイレの変更とその補助金によって進見ました。このことは知る人も多いので、先ほどの昭和30年に戻りますと紙が不足でした。この頃新聞紙が毎日届けでした。新聞紙は、印刷の不良のため再利用できませんので「チラシ」を持ってスリスリして利用していました。これは、すぐ半紙ちり紙に変わりました。学校の新設に水洗トイレになり学校によって利用方法の説明がありました。
「河北新報から歴史」にトイレに関する記事ありません。追伸:河北新報は、別冊もありました。丹念に探す必要なものがありました。
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