栫井巍 ~ウルトラシリーズの生みの親~
現在も続くウルトラシリーズの礎『ウルトラQ』を大ヒットに導き、『ウルトラマン』の企画立案も手掛けた人物がいました。
その名は、2024年8月29日に逝去された元TBSプロデューサーの栫井巍 (かこい・たかし)。
今日で『ウルトラQ』クランクイン60周年を迎えたということで、栫井氏を追悼するために、功績を簡単にまとめてみましたーー。
[出典] TSUBURAYA IMAGINATION
窓口の一本化
『ウルトラQ』のTBSサイドの番組プロデューサーは当初、渋沢均氏が務めていた。
しかし、日本初のテレビ特撮シリーズとあって、TBSの編成部や映画部などから、様々な意向が円谷プロに対して伝えられ、現場は大混乱を極めていた。
そのため、テレビ映画『いまに見ておれ』を一緒に作っていた円谷一氏から、「このテレビ映画が終わったらちょっと助けて下さいよ」と言われていたという。
本人は混乱した現場は遠慮したかったが、1964年9月末頃に、TBSの映画部長から『ウルトラQ』のプロデューサーの依頼を受け、引き受けることになる。
まず最初に彼がやったことは、現場の混乱を収束させるために、TBS社内からの意見や要望を自分のところに集約する体制をとることだった。
「今後は、要望があれば私一人を窓口にしてほしい。私以外からそちらに注文があったら、ただちに私に話しをしてほしい」
栫井氏からこう言われた円谷プロの市川支配人は、窓口がはっきりしたことを喜んだという。
[出典] ウルトラの揺り籠 ~実録ウルトラQウルトラマン誕生秘話~
放送枠とスポンサー
『ウルトラQ』は当初、放送枠やスポンサー、視聴者層を想定せず「ミステリーゾーンのようなSF的なものを特撮を使って作る」というテーマで制作されていた。
栫井氏は、制作費が高額な番組であるため、視聴者が多いゴールデンアワーを狙おうと、日曜夜7時のタケダアワーで放送中の『隠密剣士』の後継番組に目を付けた。
そして、『ウルトラQ』のフィルムを持って武田薬品大阪本社に乗り込んだが、「製作費が高いし、どういうものになるのかわからない」と躊躇する者や反対する者が続出。
しかし、宣伝課長である矢野文彦氏の「面白い。やってみよう」という一言で、タケダアワーでの放送が決まったという。
番組タイトルを『ウルトラQ』へ
『UNBALANCE (のちのウルトラQ) 』は28本の事前制作という形で、1964年9月27日にクランクインした。
そんな中、10月10日に東京オリンピックが開幕。体操競技での日本選手の活躍が目覚ましく、アナウンサーは“ウルトラC”を連呼していた。
その言葉を聞いたTBS編成部の岩崎嘉一氏は、番組タイトルを『ウルトラQ』に変更することを思い立ち、会議で提案したところ栫井氏も了承。
発案者の岩崎氏は、Qに特に意味はなく、「言葉の響きよ。ウルトラCより凄そうに見えるじゃない」と言っていたという。
そして、商標登録後に円谷プロに伝えられ、10月末から番組名は『ウルトラQ』となった。
「SF路線」から「怪獣路線」へ
撮影が進んでいた1964年12月、栫井氏は円谷プロから「何本かのフィルムが形になったので観てほしい」との連絡を受けた。
東宝撮影所の試写室で彼が観たのは、『マンモスフラワー』『変身』『悪魔ッ子』『宇宙からの贈りもの』など数本だった。
[出典] ウルトラの揺り籠 ~実録ウルトラQウルトラマン誕生秘話~
翌日、栫井氏は円谷プロを訪れ、市川支配人と金城企画文芸室長にこう述べた。
「ウルトラQの放送時間で有力になっている日曜7時枠は子供も観ることが想定されるため、あまり難しいテーマの怪奇現象もの、ミステリーもの、SFものはどうかと思う」
「シリーズものとしての統一感に欠ける」との指摘もした後、今後のウルトラシリーズの命運を決める発言がなされた。
「怪獣ものは物語が簡単でわかりやすく、興味が引きやすい。怪獣ものに特化して、シリーズとして成立させた方が得策だ」
この発言を受けた2人は円谷英二監督の了解を取り付け、これ以降、『ウルトラQ』は怪獣ものとして制作されることになった。
ここに、ウルトラシリーズの根幹となる設定が確立したのである——。
怪獣によるプロモーション
番組の基本コンセプトを明確化した栫井氏は、次に番組宣伝にとりかかった。
1965年9月、TBSの番組宣伝部や円谷プロ、広告代理店の宣弘社などから関係者を集めて「ウルトラ連絡協議会」を発足。
『ウルトラQ』の番線展開を協議するための組織で、怪獣の着ぐるみを使ったプロモーションが企画された。
しかし、「巨大な怪獣を等身大で見せることで、子供の夢を壊したくない」と円谷監督が難色を示し、この企画は暗礁に乗り上げた。
そこで、栫井氏が直接交渉に乗り出して円谷監督を説得し、了承を得ることに成功。怪獣の着ぐるみによるプロモーションによって『ウルトラQ』の認知度が一気に高まった。
[出典] ウルトラマン1966+-Special Edition-
『ウルトラマン』の企画立案
栫井氏は『ウルトラQ』の放送前年の1965年秋に、早くも次作の構想を練り始めている。
「ウルトラQは必ず当たり、27本はあっという間に終わる。早く企画を立てて準備をしないと間に合わなくなる」
このように話した栫井氏に対して、円谷プロの市川支配人と金城氏は驚いた風であったという。
さらに、怪獣路線の継続、怪獣に対応する特別班チームの設定、新機軸としてのヒーローの設定を提案した。
そして、「“ウルトラ”という言葉を継続して使用」「タイトルの最後に“ン”を付けるとヒットする伝統を利用」の2つから、番組タイトルは『ウルトラマン』となった。
つまり、栫井さんは“ウルトラマン”の名付け親でもあったのです——。
編集後記
番組の怪獣路線への変更によって、脚本家に依頼していたミステリーもの、怪奇もの、スリラーものの脚本のキャンセル、ロケハンの中止、撮影フィルムの破棄が行われました。
新しい脚本家への発注を含めて、それらの対応を行った円谷プロの金城哲夫氏の苦労は、相当なものだったことが容易に想像できます。
制作途中で番組タイトルを変更したことも、現場の混乱を招き、一見すると暴挙とも取られかねないことだったと思います。
当時、助監督だった満田監督は「『ウルトラQ』より『UNBALNCE』の方がカッコいい」と、予定表にしばらく『UNBALANCE』と書き続けたといいます。
こういったエピソードからも、「怪獣路線への変更」「番組名の変更」には脚本家や現場から相当の反発があったことを伺わせます。
しかし、脚本家やスタッフの反発を恐れずに「これをやれば絶対にヒットする」という信念を貫いた栫井氏の決断力と行動力。
これが今日、ウルトラシリーズが国民的人気を博している大きな礎になっているのです。
【時代が生んだ奇跡の作品】
“ウルトラC”の流行語が飛び出した東京オリンピックの男子体操は、1964年10月18日から10月23日にかけて行われました。
そして、円谷プロの市川支配人のノートに『ウルトラQ』の文字が現れるのが10月29日。
いいと思ったものをすぐに採用して即行動に移す栫井氏の迅速な判断力と電光石火の実行力の凄さが、如実に現れています。
しかし、東京五輪で“ウルトラC”という言葉が生まれなければ、『ウルトラQ』、ひいては『ウルトラマン』も誕生しなかったことになります。
そう考えると、『ウルトラマン』は時代が生み出した奇跡の作品なのかもしれません―—。
【出典】「ウルトラの揺り籠 ~実録ウルトラQウルトラマン誕生秘話~」
「ウルトラマンの現場 ~スタッフ・キャストのアルバムから~」
「ウルトラヒロイン伝説 アンヌからセブンへ」「ウルトラQの誕生」
「ウルトラマン1966+-Special Edition-」