旅の途中

ずいぶん生きてきたけど、きっと まだ旅の途中。
ゴールが見えるその日まで、思ったこと、好きなことを書いてみる。

「人は、物語を共有して生きていく」

2022年07月17日 | 家族

タイトルは、読売新聞の連載コラム「医療ルネサンス」にあった 患者家族のコトバだ。

医療ルネサンスのシリーズ「コロナ禍の傷痕」の中で、母親が重い肝硬変で入院をした家族が、このコロナ禍で面会ができず、母親を置き去りにしてしまったことに憤りを感じる、という内容だった。

抜粋になるが、「母に会えていたら、死へのプロセスを家族で分かちあい、納得できていたら、移植をしてまで助けようと思わなかったかもしれない。死に向かう母だけが一人、取り残されてしまうことだけは許せなかった」という言葉はあまりに印象的でその通りだ、と思った。

今の私たち家族は、この思いの只中(ただなか)に置かれている。

父がどんなに苦しくて、切なくて、どんなふうに頑張っているのか、どのくらい 生への執着があるのか、なにもわからないで、ただただ 様子を電話や看護師さん、主治医からの話で想像するしかない。

人生とか家族は、思い出を共有して歴史を紡ぐのだと 改めて感じた。

おばあちゃんは、元気がなくても、いつも水戸黄門だけはしっかり見てたよね、とか

おじいちゃんは、意識がなくても私たちが会いに行くと少し、目を開けたよね、とか。

何年、何十年たっても 共有の思い出を語りあい、故人を思い出す。

このまま、父にもしものことがあっても、父の最期の数カ月を 私たちは何も知らないままになってしまう。縁起でもない、けど、86歳の父。現実は深刻だ。

 

コロナの新規感染者が過去最高レベルで増えている。病院の面会ルールも、ますます厳しくなっている。何か食べられるものを、と持っていっても看護師さんに預けることしかできない。蓋を開けて、桃やバナナを口に運んであげることはできない。自分でできなければ、食べることができないのだ。看護師さんたちの忙しさは、面会ができない今、計り知れないと思う。家族がやっていたことを、看護師さんがやってあげなければならないのだ。家族が面会に行ければ 体をふいてあげたり、水を飲ませてあげたり、荷物を整理したり、話し相手になったり なんでもできる。でも、家族が病室に入れない今、それらを看護師さんが担っているのだ。申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいっぱいだ。でも、彼らの時間が限られている。うちの父だけに、あれこれやってもらおうなんて、無理は言えない。

何とか面会ができないものか…。たとえ一人でも、たとえ10分でも そばに行って、手を握って、顔を拭いてあげれば もっともっと元気になってくれるような気がする。

人生を、思い出を共有してこれまで生きてきた。残り僅かな時間もこれまでと同じように 物語を共有してワタシも行きたい。父のコトバを覚えていたい。父の年老いた顔をしっかり覚えていたい。

 


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