いろいろ、いないな。
1616、1717。
色々、否否。
肯定と否定。
おいらと母は17日生まれ。
姉と父は16日生まれ。
その上、父とおんら、母と姉は同じ月生まれで、連番。
16の数字の意味は終わり、終焉。
17日の数字の意味は始まり・・・・・。
1616が二人、1717が二人。
人生って色々あるね、と、それを否否する二人。似てるところが無さ過ぎて悲しいけど。
それにも実際意味があるんだろう。終わりと始まり。で、プラマイゼロ(笑)。対消滅しています(笑)。
今日も終始、機嫌の悪い母。見舞いに嫌いな叔母が来たから。でもね、偶然いたからいいんだよ、薄情の者の烙印は押されずにすんだ。父は非常にも臨機応変にまたは唐突に嘘が出てこないから、昨日来ていないことを話す確率だってあったわけだ。毎日くることもないくせに、落ち度を探すのが小姑なのだ。それで”ひきわけ”って思わないと、上手く行って良かったと線引きしないでどうすんだ。
おいらみたいにバランスで物事を考える子供にしたのは君たちだ。と叫びたい。流れを作るように努力するように出来ているんだ。相手の言い分にいちいち反論しないで、受け流す。嫌な話題は話を変える。そんな努力もしない癖に難癖つけるのはルール違反。そりゃあ親子でも許しません。おいらの物差しは社会の物差し。それこそ個人の物差しなんか持ちだしたら大事になる。恨み辛みはあるんだよ。全部をひっくり返して親戚関係を終わらせるテクニックだって持っている。それには覚悟がいるんだぞ。壊れるのは一瞬なんだ。目くじら立てて反証することじゃないだろう。
自分の知っていることを全部知ってるのは自分くらいだし、自分のことを全然知らないのもまた自分なのだ。相手の中の自分を好印象に変える努力もせずに正論ぶちまけたって埒があかない。どっちの味方かって(そういうこと言うヤツ嫌い)、バランスとっているときは社会の味方に決まってんだろう?今日は一言も嫌みは言ってない。
何で、息子の仇である寺の奥さんが亡くなったことを相手が知らなくて、何でアンタが切れるのか?それに持ちだす例として、それが親戚よりもおいらに失礼であることを、無礼であることを、感じて考えて話せ。おいらを嘘つきにして誤魔化した過去の現実は決して誰もが持つ共有意識じゃねえぞ。言われもなく”婦女暴行犯”と言いふらした不逞な寺のおばさんが死んだって、こちとら一ミリも動かす心なんてない。
菩提寺でもない寺のことなんて誰も興味がない。それを知らなかった(忘れていた)親戚に明らかな不満を口にする母。それよりもいきなり”良い人の見本”カテゴリーでそんな人物を取り出す実の親の心境の方が理解できない。
子である息子が自身の体験談で語って終わった話を、どうして蒸し返したのか意味が分からない。穏やかな場面を自分の憎しみで踏みにじるのは今じゃないだろう。そんな事だから、素直に味方になってやれないことをいくら説明しても分からない人。なら敵だろう。過去の過ちをいつまでも清算してくれないから、いつまでもおいらは気にし続ける。傷ついてしまう。認めてしまえ。バカな親だと自虐する前に自傷する前に。ねつ造した真実は偽物だ。
・・・・しかし、悪い噂を立てられたのが、例えばおいら個人でも、アンタはおいらの母親だから自動的に「婦女暴行犯の母」にエントリーされていることをいつまで経っても思い至れない。そこだけ個人と切り捨てている。どういう頭の構造なんだ。あの時アンタはおいらの味方をしないで、明らかに寺のおばさんの肩を持ったんじゃないか。金払って供養してんだ。偉そうにされる言われはない。坊主に対して厳しいのは、こういう経緯があるからだ。事実でないことを、まるで事実であるように語る社会的な責任を負うべき人が言いふらした嘘だ。じゃあなんでのこのこおいらは捕まりもせずにお日様の下を歩いているんだ。そんな噂だから根も葉もない噂だからすぐに消えた。でもね、町の噂になっていたから、子供のおいらの耳にも届く噂になっていたから報告したんだよ。あのおばさんが????っていちばんショックだったのはおいらなんだよ。恨まれる覚えもないしね。
憑りつかれたと言うより、取り込んだんだ。寺のおばさんが良い人間でないといけないから、故人を胸で生かせてる。死人は死人。それも他人。アンタの心の安寧のために付き合う気はない。
だから、親戚のおばさんに「ごめんね」と誤って、母を少し睨み付けて、話を変えた。それでも引き下がれない。下がらない。空気を読まないのが叔母ならば空気を読めないのが母だ。噛み合うところは少しもない。だから諦めろ。人に認めて貰う必要なんかない。気丈な人間でいればいい。いつも友達とするように上辺でいいんだよ。この中の誰一人、寺のおばさんを買っていないし、坊さんって偉いねくらいしか思っていないんだからさ。それはアンタの間違い。何よりも息子がとっても悲しい気持ちになった(笑)。
亡くなったことを知らんわけない。
もう一度口にするか。
誰もがアンタと同じ情報と内容物で出来ているわけじゃないぞ。そう言う心無い、つまらないことに怒るから反目になってしまうのに。
それにアンタ真剣に、あの寺のおばさんに敬意を払って故人を偲んで腹を立てているのか。ならば息子のおいらでも理解できんわ。その思考、その怒り。自分の嫌いなモノをすべて肯定してくれるなんてありえないでしょう。支持しませんよ、そんな気持ちのことを世の中では悪意と言います。だっておいら家族を傷つけた相手なら縁を切ります。いくら自分にとって大切な存在でも、それはいつだっておいら自身を傷つけたことと同じなんだから。そう思えないから”アマチュアの母親”だって思うんだ。プロになれよ。家運ばっかり下げないで、いつかあげまんと呼ばれる立派な女性になれよ。
確かに歴史を辿ったら、完全なさげまんですよ。
心に地獄の扉を持っている母だから、今日はおいらがいちばん嫌う相手を引っ張り出した。ホント見境がない霊媒だ。故人をまるで生きてるように話すけど、それはその人を心の中で供養していない証拠だぞ。だから親戚のおばさんは死の病であるがん患者である父を気遣って一度も死人の話は持ちだしていない。まるで現在進行形で入院している人のように話したら誤解するよ。それにいま病床にいる旦那の気持ちも考えろ。
地獄の門。自檻の門。それはね。ドラえもんの四次元ポケットじゃないんだよ。自分で意識して閉じないと。無意識に高血圧の父の「死」を勘ぐらないで。最悪にならない選択をおいらも一生懸命に探しているのだから。母の想いは現実化しやすい。それを母自身を含む、不幸なんだから。今父に取ってる対応が、父を甘やかすそのやり方が、全国にもそれを決定し続けてる。だからおいらは邪魔をする。どんなに母が恥かしい思いをしようとも父は菩提寺に返す。それが元々の当たり前。息子に遺恨がある寺を墓所になんかさせてたまるか。歪んでるものを更に捻じ曲げた母の決断には意図がある。
菩提寺と、その寺は同じ宗派で、菩提寺に一時的に墓所が足りなくなった。代替地を用意するからいったん墓所を返してほしいとお願いされた。嫌ならば先に墓を建てて欲しいと言われた。あいてる場所があれば欲しがる檀家もいるだろう。金を積む徳のある人も寺には絶対必要だろう。そんなとき、寺のおばさんが母に囁いた。「ウチならどうぞ!」と。事情を知っているからの救済だとは母は思ってもいない。それは絶対的解決を望む母には悪魔の囁きだった。しのごのなく菩提寺に唾を吐いた。普通は都合がよい現実が訪れると、人はいったん躊躇する。こんな偶然があるものかと。仮ももしもだけど菩提寺の奥さんが困ってる母や噂を聞きつけて、優しい寺のおばさんが動いてくれた。ワタシのために・・・・。母は自分が不当な扱いを受けてることが我慢ならない。一時的にと言われてるじゃないか。おいらならそれを書面で起こすようにお願いする。父が購入したはずの記録が保管されていない。墓所を購入する前にまたまた不甲斐ない父は顔役の近所のおばさんに仲立ちをして貰う。金は払うが口約束・・・。領収書をどこかに捨てたんだ。菩提寺だから安心した。信用した。でも断りもなく反故された約束ではない。一時的と言う異常は伝聞として確保されていたのだ。
もう頭の悪い夫婦は領収書を捨てたことを棚に上げ醜態をさらしていた。その時に突然現れた救世主。でもね、あれは息子を陥れた悪魔じゃないか。重い腰を上げた父に毎日毎日がなり続けた。それはもちろん不快極まりない。死んだ後のことはどうでもいい。父の安直な思考はそれを選んだ。人としてすべきことを放棄すること。同じ日常、ルーテーンを乱されるのを極端に嫌う。自分と対峙しないのだ。争いを好まない。しかし、しばし人はトラブルに出会い葛藤し成長する。何からでも簡単に逃げ出す父はそういうあとに有意義になるチャンスを不意にする。バカ者だ。あの寺は信用できないと言う。
言い換えると寺の人を無心で尊敬しているわけでもない。その寺も信用できないではないか。根も葉もない噂で息子を糾弾し続ける人がいる寺には息子の敵がいる。それをわかれと言う。我慢しろと言う。まったくもって話にならない。
その寺が受け皿になることは、両寺のいつものやり方だ。そういう仕組みはないと母が怒鳴る。もうキチガイかと思った。誰も知んでいないのに、家族すぐにが死ぬと言わんばかりに。さてはて、ある満面の笑顔で仏さまのようにする。「お墓は〇〇寺にしたからね」それはおいらと姉の信頼を永遠に失わせた。毎日毎日菩提寺で嫌みを言われたと言うが、母は寺の世話係なんてやっていないし、当時葬儀が取り計らわれたこともない。なのに会うたびに寺で嫌みを直接言われたと言う。電話じゃないんだ。いつどこで明確ではない。
逆なのかもしれない・・・・・。その寺の奥さんに心酔してる雰囲気もある母はことあるごとに親類縁者の悪口を相談したんだろう。愚痴を聞いてもらったんじゃない。本人は相談しているんだ。無意識に。叔母を憎むと同様に、あんな不甲斐ない父や叔母を育てた環境や親戚連中に嫌気がさしていたんだろう。その究極のバックグラウンドが何故だか「寺」になっていた。その寺には祖父母の墓があって、兄に代わって世話をしていた。ことあるごとに手伝いに出た。人に利用されていることを必要とカン違いする。疑うことが罪悪と信じているみたいだけど、おいらに言わせると猜疑心の塊だ。でも人におだてられると頑張る。必要とされたがり。どこでも中心の近くにいたがる悪い癖。
そういう情報を逆手に取るようなおばさんだ。無垢な母には分からない。相談内容は情報だ。「奥さん(寺ね)、〇〇さんがお宅の悪口言ってるよ」。悪魔的な人だ。息子の住職が市内でいちばんだと声高にあげる。そういう姿勢にあこがれる。息子が伝えた真実は、真実だって知っていた。それを無視した疚しさをそれで解決しようとする。矛盾する無理。矛盾が生む無理。辻褄が合わないと人は状況を改竄する。一度お願いされたことが何度でも起こった現実になった。敏い目(疑う目線ですね、イヤだイヤ)を持つ、おいらはまたまた傷ついた。だって生者を苦しめるものが南無阿弥陀仏と唱えただけで極楽にいけるか。
試されることを虐めと言い始めたら、この世に居る場所なんてなくなる。
そんな都合はあり得ないんんだ。結託してなきゃ無理ですわ。それでもおいらは漠然と思う。おいらが絶対的に反対することを。またまた息子を深く傷つけることを。誰もまだ死んでいないのに。急ぐ理由なんてどこにもなかったのに。今から20年前。何度も何度も騙される母。それを認めてしまうのが我慢ならないのだ。そして息子の心を踏み躙る。侮辱を受けた母の味方になれと、屈辱を受けた母を察しろと試す。そんな見え見えのカラクリに気づかないのはアンタが善良な人間だからじゃない。善良な人間は人を傷つけることはしない。ましてやそれが子供なら絶対にしないだろう。自分の親が眠る場所の近くに自分も眠りたいと願ったから、それを無理矢理こじつけて叶えてしまった。そんなエゴは嫁に出た時点で向こうだ。
そういうことに対しても、祖母は怒っていたのだ。息子を取られてはたまらないと・・・・・・。もし祖母が生きていたら母を義理の娘に選ばなかったと思う。蝶よ花よを望む少女が母親に向かないことをきっと敏い目で見抜いただろう。嫁姑と小姑と・・・・ずっとずっと早くに終わっていた。だから普遍を捻じ曲げる行為を先祖は許さない。こう言う土地のそういうルール。それも我が家がおかしくなった原因なんだよ、母さん。もうわかろうよ。いい歳なんだからね。離婚してたら入れたさ、実家の墓に。そうじゃない未来を選択しつつ、願望だけを欲しがるなんてナンセンスだよ。筋が通らない。二兎は負えないジャパンのルール。だって、行くなのサインはおいらのことで出てたじゃないか。おいらにしたら菩提寺もその寺とも無縁になりたいくらいだ。生きてるものは醜いものだ。カラクリが見える邪な目を持つおいらは、おいらなりに苦しいんだぞ。騙されている世界の方が絶対に楽しいし、幸せなはずだから。
このパターン。負のスパイラル。おいらの今回の展開図と似てる。
祝うのも神、呪うのも神。
強要する寺、受け皿になる寺。
この矛盾、この不可解さ。トレースされる呪いの連鎖。転写紙でなぞったみたい。
そう前触れはあった。で、確かに心を揺さぶられた。たぶらかされた。ちょうど呪いが出現し始めたころに母がこう告げた。
「ウチの寺も何にもならんけど、アンタがあんなに神社で『お金』使っても何もいいことないね」
・・・・・その通りと思った。その時点で神道について無知識のカン違いしていた。願い事のために神がいる。それは人間様のためにあるのだと。祟り成すからお祀りする。転じて福となる。そのプロセスを理解していなかった。だから揺らいだ。こういう時に反証する教義が神道にはない。神道は精神の道だ。それは一人道だ。だから選んだのに信じたのに。揺らげば動く弱い信念。魔女は囁いて、その一言を封印した。まるで寺のおばさんの手口を借りる母。やり方を真似る母。強依存もまた憎しみの作用と同じで、相手に自分を近づける。
似て非なる真逆。対を無し表裏の母と息子。疑うことを厭う母。正しいことを疑わぬ息子。闇の心から生まれた闇が深い子供がここにる。それがおいらだ。これは母を糾弾する物語ではない。おいらが糾弾される物語なのだ。渦中にあるときには気が付かない。弾かれると見える。見方や味方が変わるのだ。これまた真理であり、心理だ。心の理の内外から襲われる恐怖。そして恐怖こそが我が家や一族の崩壊の根っこにあたる。
一年かけて、一つ一つを閉じてきた。だからもっと先の話だけど寺のことは姉とおいらで決めることにした。もう母に口出しはさせない。不幸の連鎖を断ち切るのが、おいらに課せられた使命なんだろう。敵同士の構図にある一族同志の対消滅を防ぐみたいに。反物質である父の先祖と母の先祖をそれぞれに重なり合うことなく供養すること。
間違えた両祖父母。それに学ぶことが出来ずにもっと間違い続ける両親たち。母の本家も分家であるそれぞれの祖父の兄妹も祖母の一族もじきに絶える。そうこれは西尾維新風に言うと、絶える物語だ。小さなパターン、大きなパターンを綴ったタペストリー。下がってみるとそれはまさに地獄絵図だ。血は絶えなくとも家は絶える。絶えて悲しいわけじゃないけど、絶えない家がないなんて、成功例がないなんて、それはまったくもって『変』なのだ。『乱』なのだ。人生の埋め合わせを求め続ける母とばあちゃんに帳尻を合わせてもらった父。背中合わせじゃ仇同前。それじゃ見てる風景も真逆。同じ場所に立っていて違う景色を追い求める二人の大人。なんだか無性に切なくなる。
過去は変えられないけど、未来も変えられないものにする。予見はハズレないけど、それはある時点のみの話。未来は返られるぞ。そのためには自分を変えないといけない。それを自分を曲げることだ思う。自分をへし折ることだと思ってる。
いちばん苦しいのが母だから、おいらが代わりに母を叱っているのだれど、この隔たりはもう半端ない。親子だって血縁だって乗り越えられない。
おいらは否を卒業して、いいなに変えていきますよ。母と似てるところなんて一つもないと思うくらいに・・・・。いつまでも否でいてはダメですよ。1616(いろいろ)あって、1717(いいないいな)にしないとね。
今日はお寺のおばさんを召喚しちゃってるみたいだから線香を焚こう。死んでもなお寺のおばさんの中ではおいらは犯罪者みたいだからね。誤解を解かずにいたことは、ずっとおいらも反省しているんだよ。
二回見舞いに来てくれたことは二回喜ばないといけない。貸しだなんて思う方が心が蔑んでいると社会の物差しは告げるのであった(笑)
故人を悪く言うのはアンフェアだけど、性根の腐った人間は死んでも性根は腐ってる。何故だか性根の腐った奴を見分けられると思っていたけど、そういう悪い偶然に導かれていたんだと思う。それもこの際断たないと。断つことは悪じゃない。情けでもない。そうしないとただいけないと思う。
死ぬまで学びです。
故人をまるで生きてるように話してはダメです。成仏しませんよ。それくらい生者の想いは強いのだから・・・・・・・。
1616、1717。
色々、否否。
肯定と否定。
おいらと母は17日生まれ。
姉と父は16日生まれ。
その上、父とおんら、母と姉は同じ月生まれで、連番。
16の数字の意味は終わり、終焉。
17日の数字の意味は始まり・・・・・。
1616が二人、1717が二人。
人生って色々あるね、と、それを否否する二人。似てるところが無さ過ぎて悲しいけど。
それにも実際意味があるんだろう。終わりと始まり。で、プラマイゼロ(笑)。対消滅しています(笑)。
今日も終始、機嫌の悪い母。見舞いに嫌いな叔母が来たから。でもね、偶然いたからいいんだよ、薄情の者の烙印は押されずにすんだ。父は非常にも臨機応変にまたは唐突に嘘が出てこないから、昨日来ていないことを話す確率だってあったわけだ。毎日くることもないくせに、落ち度を探すのが小姑なのだ。それで”ひきわけ”って思わないと、上手く行って良かったと線引きしないでどうすんだ。
おいらみたいにバランスで物事を考える子供にしたのは君たちだ。と叫びたい。流れを作るように努力するように出来ているんだ。相手の言い分にいちいち反論しないで、受け流す。嫌な話題は話を変える。そんな努力もしない癖に難癖つけるのはルール違反。そりゃあ親子でも許しません。おいらの物差しは社会の物差し。それこそ個人の物差しなんか持ちだしたら大事になる。恨み辛みはあるんだよ。全部をひっくり返して親戚関係を終わらせるテクニックだって持っている。それには覚悟がいるんだぞ。壊れるのは一瞬なんだ。目くじら立てて反証することじゃないだろう。
自分の知っていることを全部知ってるのは自分くらいだし、自分のことを全然知らないのもまた自分なのだ。相手の中の自分を好印象に変える努力もせずに正論ぶちまけたって埒があかない。どっちの味方かって(そういうこと言うヤツ嫌い)、バランスとっているときは社会の味方に決まってんだろう?今日は一言も嫌みは言ってない。
何で、息子の仇である寺の奥さんが亡くなったことを相手が知らなくて、何でアンタが切れるのか?それに持ちだす例として、それが親戚よりもおいらに失礼であることを、無礼であることを、感じて考えて話せ。おいらを嘘つきにして誤魔化した過去の現実は決して誰もが持つ共有意識じゃねえぞ。言われもなく”婦女暴行犯”と言いふらした不逞な寺のおばさんが死んだって、こちとら一ミリも動かす心なんてない。
菩提寺でもない寺のことなんて誰も興味がない。それを知らなかった(忘れていた)親戚に明らかな不満を口にする母。それよりもいきなり”良い人の見本”カテゴリーでそんな人物を取り出す実の親の心境の方が理解できない。
子である息子が自身の体験談で語って終わった話を、どうして蒸し返したのか意味が分からない。穏やかな場面を自分の憎しみで踏みにじるのは今じゃないだろう。そんな事だから、素直に味方になってやれないことをいくら説明しても分からない人。なら敵だろう。過去の過ちをいつまでも清算してくれないから、いつまでもおいらは気にし続ける。傷ついてしまう。認めてしまえ。バカな親だと自虐する前に自傷する前に。ねつ造した真実は偽物だ。
・・・・しかし、悪い噂を立てられたのが、例えばおいら個人でも、アンタはおいらの母親だから自動的に「婦女暴行犯の母」にエントリーされていることをいつまで経っても思い至れない。そこだけ個人と切り捨てている。どういう頭の構造なんだ。あの時アンタはおいらの味方をしないで、明らかに寺のおばさんの肩を持ったんじゃないか。金払って供養してんだ。偉そうにされる言われはない。坊主に対して厳しいのは、こういう経緯があるからだ。事実でないことを、まるで事実であるように語る社会的な責任を負うべき人が言いふらした嘘だ。じゃあなんでのこのこおいらは捕まりもせずにお日様の下を歩いているんだ。そんな噂だから根も葉もない噂だからすぐに消えた。でもね、町の噂になっていたから、子供のおいらの耳にも届く噂になっていたから報告したんだよ。あのおばさんが????っていちばんショックだったのはおいらなんだよ。恨まれる覚えもないしね。
憑りつかれたと言うより、取り込んだんだ。寺のおばさんが良い人間でないといけないから、故人を胸で生かせてる。死人は死人。それも他人。アンタの心の安寧のために付き合う気はない。
だから、親戚のおばさんに「ごめんね」と誤って、母を少し睨み付けて、話を変えた。それでも引き下がれない。下がらない。空気を読まないのが叔母ならば空気を読めないのが母だ。噛み合うところは少しもない。だから諦めろ。人に認めて貰う必要なんかない。気丈な人間でいればいい。いつも友達とするように上辺でいいんだよ。この中の誰一人、寺のおばさんを買っていないし、坊さんって偉いねくらいしか思っていないんだからさ。それはアンタの間違い。何よりも息子がとっても悲しい気持ちになった(笑)。
亡くなったことを知らんわけない。
もう一度口にするか。
誰もがアンタと同じ情報と内容物で出来ているわけじゃないぞ。そう言う心無い、つまらないことに怒るから反目になってしまうのに。
それにアンタ真剣に、あの寺のおばさんに敬意を払って故人を偲んで腹を立てているのか。ならば息子のおいらでも理解できんわ。その思考、その怒り。自分の嫌いなモノをすべて肯定してくれるなんてありえないでしょう。支持しませんよ、そんな気持ちのことを世の中では悪意と言います。だっておいら家族を傷つけた相手なら縁を切ります。いくら自分にとって大切な存在でも、それはいつだっておいら自身を傷つけたことと同じなんだから。そう思えないから”アマチュアの母親”だって思うんだ。プロになれよ。家運ばっかり下げないで、いつかあげまんと呼ばれる立派な女性になれよ。
確かに歴史を辿ったら、完全なさげまんですよ。
心に地獄の扉を持っている母だから、今日はおいらがいちばん嫌う相手を引っ張り出した。ホント見境がない霊媒だ。故人をまるで生きてるように話すけど、それはその人を心の中で供養していない証拠だぞ。だから親戚のおばさんは死の病であるがん患者である父を気遣って一度も死人の話は持ちだしていない。まるで現在進行形で入院している人のように話したら誤解するよ。それにいま病床にいる旦那の気持ちも考えろ。
地獄の門。自檻の門。それはね。ドラえもんの四次元ポケットじゃないんだよ。自分で意識して閉じないと。無意識に高血圧の父の「死」を勘ぐらないで。最悪にならない選択をおいらも一生懸命に探しているのだから。母の想いは現実化しやすい。それを母自身を含む、不幸なんだから。今父に取ってる対応が、父を甘やかすそのやり方が、全国にもそれを決定し続けてる。だからおいらは邪魔をする。どんなに母が恥かしい思いをしようとも父は菩提寺に返す。それが元々の当たり前。息子に遺恨がある寺を墓所になんかさせてたまるか。歪んでるものを更に捻じ曲げた母の決断には意図がある。
菩提寺と、その寺は同じ宗派で、菩提寺に一時的に墓所が足りなくなった。代替地を用意するからいったん墓所を返してほしいとお願いされた。嫌ならば先に墓を建てて欲しいと言われた。あいてる場所があれば欲しがる檀家もいるだろう。金を積む徳のある人も寺には絶対必要だろう。そんなとき、寺のおばさんが母に囁いた。「ウチならどうぞ!」と。事情を知っているからの救済だとは母は思ってもいない。それは絶対的解決を望む母には悪魔の囁きだった。しのごのなく菩提寺に唾を吐いた。普通は都合がよい現実が訪れると、人はいったん躊躇する。こんな偶然があるものかと。仮ももしもだけど菩提寺の奥さんが困ってる母や噂を聞きつけて、優しい寺のおばさんが動いてくれた。ワタシのために・・・・。母は自分が不当な扱いを受けてることが我慢ならない。一時的にと言われてるじゃないか。おいらならそれを書面で起こすようにお願いする。父が購入したはずの記録が保管されていない。墓所を購入する前にまたまた不甲斐ない父は顔役の近所のおばさんに仲立ちをして貰う。金は払うが口約束・・・。領収書をどこかに捨てたんだ。菩提寺だから安心した。信用した。でも断りもなく反故された約束ではない。一時的と言う異常は伝聞として確保されていたのだ。
もう頭の悪い夫婦は領収書を捨てたことを棚に上げ醜態をさらしていた。その時に突然現れた救世主。でもね、あれは息子を陥れた悪魔じゃないか。重い腰を上げた父に毎日毎日がなり続けた。それはもちろん不快極まりない。死んだ後のことはどうでもいい。父の安直な思考はそれを選んだ。人としてすべきことを放棄すること。同じ日常、ルーテーンを乱されるのを極端に嫌う。自分と対峙しないのだ。争いを好まない。しかし、しばし人はトラブルに出会い葛藤し成長する。何からでも簡単に逃げ出す父はそういうあとに有意義になるチャンスを不意にする。バカ者だ。あの寺は信用できないと言う。
言い換えると寺の人を無心で尊敬しているわけでもない。その寺も信用できないではないか。根も葉もない噂で息子を糾弾し続ける人がいる寺には息子の敵がいる。それをわかれと言う。我慢しろと言う。まったくもって話にならない。
その寺が受け皿になることは、両寺のいつものやり方だ。そういう仕組みはないと母が怒鳴る。もうキチガイかと思った。誰も知んでいないのに、家族すぐにが死ぬと言わんばかりに。さてはて、ある満面の笑顔で仏さまのようにする。「お墓は〇〇寺にしたからね」それはおいらと姉の信頼を永遠に失わせた。毎日毎日菩提寺で嫌みを言われたと言うが、母は寺の世話係なんてやっていないし、当時葬儀が取り計らわれたこともない。なのに会うたびに寺で嫌みを直接言われたと言う。電話じゃないんだ。いつどこで明確ではない。
逆なのかもしれない・・・・・。その寺の奥さんに心酔してる雰囲気もある母はことあるごとに親類縁者の悪口を相談したんだろう。愚痴を聞いてもらったんじゃない。本人は相談しているんだ。無意識に。叔母を憎むと同様に、あんな不甲斐ない父や叔母を育てた環境や親戚連中に嫌気がさしていたんだろう。その究極のバックグラウンドが何故だか「寺」になっていた。その寺には祖父母の墓があって、兄に代わって世話をしていた。ことあるごとに手伝いに出た。人に利用されていることを必要とカン違いする。疑うことが罪悪と信じているみたいだけど、おいらに言わせると猜疑心の塊だ。でも人におだてられると頑張る。必要とされたがり。どこでも中心の近くにいたがる悪い癖。
そういう情報を逆手に取るようなおばさんだ。無垢な母には分からない。相談内容は情報だ。「奥さん(寺ね)、〇〇さんがお宅の悪口言ってるよ」。悪魔的な人だ。息子の住職が市内でいちばんだと声高にあげる。そういう姿勢にあこがれる。息子が伝えた真実は、真実だって知っていた。それを無視した疚しさをそれで解決しようとする。矛盾する無理。矛盾が生む無理。辻褄が合わないと人は状況を改竄する。一度お願いされたことが何度でも起こった現実になった。敏い目(疑う目線ですね、イヤだイヤ)を持つ、おいらはまたまた傷ついた。だって生者を苦しめるものが南無阿弥陀仏と唱えただけで極楽にいけるか。
試されることを虐めと言い始めたら、この世に居る場所なんてなくなる。
そんな都合はあり得ないんんだ。結託してなきゃ無理ですわ。それでもおいらは漠然と思う。おいらが絶対的に反対することを。またまた息子を深く傷つけることを。誰もまだ死んでいないのに。急ぐ理由なんてどこにもなかったのに。今から20年前。何度も何度も騙される母。それを認めてしまうのが我慢ならないのだ。そして息子の心を踏み躙る。侮辱を受けた母の味方になれと、屈辱を受けた母を察しろと試す。そんな見え見えのカラクリに気づかないのはアンタが善良な人間だからじゃない。善良な人間は人を傷つけることはしない。ましてやそれが子供なら絶対にしないだろう。自分の親が眠る場所の近くに自分も眠りたいと願ったから、それを無理矢理こじつけて叶えてしまった。そんなエゴは嫁に出た時点で向こうだ。
そういうことに対しても、祖母は怒っていたのだ。息子を取られてはたまらないと・・・・・・。もし祖母が生きていたら母を義理の娘に選ばなかったと思う。蝶よ花よを望む少女が母親に向かないことをきっと敏い目で見抜いただろう。嫁姑と小姑と・・・・ずっとずっと早くに終わっていた。だから普遍を捻じ曲げる行為を先祖は許さない。こう言う土地のそういうルール。それも我が家がおかしくなった原因なんだよ、母さん。もうわかろうよ。いい歳なんだからね。離婚してたら入れたさ、実家の墓に。そうじゃない未来を選択しつつ、願望だけを欲しがるなんてナンセンスだよ。筋が通らない。二兎は負えないジャパンのルール。だって、行くなのサインはおいらのことで出てたじゃないか。おいらにしたら菩提寺もその寺とも無縁になりたいくらいだ。生きてるものは醜いものだ。カラクリが見える邪な目を持つおいらは、おいらなりに苦しいんだぞ。騙されている世界の方が絶対に楽しいし、幸せなはずだから。
このパターン。負のスパイラル。おいらの今回の展開図と似てる。
祝うのも神、呪うのも神。
強要する寺、受け皿になる寺。
この矛盾、この不可解さ。トレースされる呪いの連鎖。転写紙でなぞったみたい。
そう前触れはあった。で、確かに心を揺さぶられた。たぶらかされた。ちょうど呪いが出現し始めたころに母がこう告げた。
「ウチの寺も何にもならんけど、アンタがあんなに神社で『お金』使っても何もいいことないね」
・・・・・その通りと思った。その時点で神道について無知識のカン違いしていた。願い事のために神がいる。それは人間様のためにあるのだと。祟り成すからお祀りする。転じて福となる。そのプロセスを理解していなかった。だから揺らいだ。こういう時に反証する教義が神道にはない。神道は精神の道だ。それは一人道だ。だから選んだのに信じたのに。揺らげば動く弱い信念。魔女は囁いて、その一言を封印した。まるで寺のおばさんの手口を借りる母。やり方を真似る母。強依存もまた憎しみの作用と同じで、相手に自分を近づける。
似て非なる真逆。対を無し表裏の母と息子。疑うことを厭う母。正しいことを疑わぬ息子。闇の心から生まれた闇が深い子供がここにる。それがおいらだ。これは母を糾弾する物語ではない。おいらが糾弾される物語なのだ。渦中にあるときには気が付かない。弾かれると見える。見方や味方が変わるのだ。これまた真理であり、心理だ。心の理の内外から襲われる恐怖。そして恐怖こそが我が家や一族の崩壊の根っこにあたる。
一年かけて、一つ一つを閉じてきた。だからもっと先の話だけど寺のことは姉とおいらで決めることにした。もう母に口出しはさせない。不幸の連鎖を断ち切るのが、おいらに課せられた使命なんだろう。敵同士の構図にある一族同志の対消滅を防ぐみたいに。反物質である父の先祖と母の先祖をそれぞれに重なり合うことなく供養すること。
間違えた両祖父母。それに学ぶことが出来ずにもっと間違い続ける両親たち。母の本家も分家であるそれぞれの祖父の兄妹も祖母の一族もじきに絶える。そうこれは西尾維新風に言うと、絶える物語だ。小さなパターン、大きなパターンを綴ったタペストリー。下がってみるとそれはまさに地獄絵図だ。血は絶えなくとも家は絶える。絶えて悲しいわけじゃないけど、絶えない家がないなんて、成功例がないなんて、それはまったくもって『変』なのだ。『乱』なのだ。人生の埋め合わせを求め続ける母とばあちゃんに帳尻を合わせてもらった父。背中合わせじゃ仇同前。それじゃ見てる風景も真逆。同じ場所に立っていて違う景色を追い求める二人の大人。なんだか無性に切なくなる。
過去は変えられないけど、未来も変えられないものにする。予見はハズレないけど、それはある時点のみの話。未来は返られるぞ。そのためには自分を変えないといけない。それを自分を曲げることだ思う。自分をへし折ることだと思ってる。
いちばん苦しいのが母だから、おいらが代わりに母を叱っているのだれど、この隔たりはもう半端ない。親子だって血縁だって乗り越えられない。
おいらは否を卒業して、いいなに変えていきますよ。母と似てるところなんて一つもないと思うくらいに・・・・。いつまでも否でいてはダメですよ。1616(いろいろ)あって、1717(いいないいな)にしないとね。
今日はお寺のおばさんを召喚しちゃってるみたいだから線香を焚こう。死んでもなお寺のおばさんの中ではおいらは犯罪者みたいだからね。誤解を解かずにいたことは、ずっとおいらも反省しているんだよ。
二回見舞いに来てくれたことは二回喜ばないといけない。貸しだなんて思う方が心が蔑んでいると社会の物差しは告げるのであった(笑)
故人を悪く言うのはアンフェアだけど、性根の腐った人間は死んでも性根は腐ってる。何故だか性根の腐った奴を見分けられると思っていたけど、そういう悪い偶然に導かれていたんだと思う。それもこの際断たないと。断つことは悪じゃない。情けでもない。そうしないとただいけないと思う。
死ぬまで学びです。
故人をまるで生きてるように話してはダメです。成仏しませんよ。それくらい生者の想いは強いのだから・・・・・・・。
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