「招魂」とは神道ではなく、朝鮮朱子学の葬礼儀式で、死者の魂をこの世に留めて守り神のような「鬼」として使役するための儀式。
「死して護国の鬼となる」
招魂とは陰陽道、道教の葬祭儀礼をもとにするとあるが、招魂社の発祥地が下関であるということを考えると半島の儀礼なのかと思う。中国の招魂は子供が鬼の被り物をして死者の霊魂を招く祭。招魂社の原型は朝鮮朱子学の「招魂」のイメージの方が合う気がする。
朝鮮の宗教儀礼がもとだから、日本神道として立場的に戦争で死んだ者を神格化する考え方に対立したのかも知れない。昭和12年と言えば神社を管理していた事務所の神殿に大国主命を合祀するか揉めていた。今では神道世界のトップは天照大神一人だけど、創造神である造花三神+天照大神を祀るのが明治政府が定めた正式な祀り方だったようで、黄泉の国の神は穢れているからダメという理由で神殿内に合祀されることはなかったんだって。大国主命がご祀神の出雲大社の大宮司は生き神様と呼ばれて全国的に人気もあったから伊勢派は合祀に反対したんだろう。
詳しくは記載がないけれど、本当は招魂社を日本古来からの神道のように見せかけるために大国主命を合祀して、靖国神社にしたかったんじゃないのかなぁ。だけどそれもきっと反対があったんだろう。平田神学の黄泉ファンタジーが受け入れがたいものであることはなんとなくわかる。黄泉の神は死後の人間の魂を救うような存在ではない。<国体>を地下世界から支える神でなければならなかった。
靖国は中国の「春秋」から明治天皇が選んだ言葉と言われてるが、本当は朝鮮朱子学からの引用なんだろうね。京都にいた天子様が長州田布施村で匿われた南朝の末裔である大室寅之助が明治天皇にすり替わったことが事実なんだろうから、朝鮮朱子学の思想があっても不思議ではない。田布施村は朝鮮民族が住まう場所だと言われているからね。こういう風に考えると吉田松陰が引用した朱子学も朝鮮的な思想を含んだものだったのかな。松陰の生き方はまるで生鬼であることを肯定してるような鬼気迫るものがあるしね。
陰陽道の鬼払いと言えば追儺の儀式。節分の豆まきだね。鬼というか目に見えない禍いを祓う儀式である。鬼とは人の霊魂でもあるし、疫病やそういう目に見えない厄災を指したんだろう。
もちろん戦死したものや頓死したものを崇め祀る文化は日本にもある。それはだいたい怨霊になった天皇を供養する際に用いられた方法だった。魂を祀り鎮め神格化することで逆に幸いを呼ぶ存在にする。怨霊信仰である。
まあ天皇は神になれるけど、一般人を神とする神道はない。祖霊信仰というのはなくなった先祖の魂は山の向こうに帰るという考え方であるが、これは神道の原型ではあるが、神道の自然崇拝とは少し違う気がする。
神道はやたら儀礼に煩いから、考え方にないものは完全否定して肯定するというややこしい側面がある。ミコトの命は魂を指す言葉であって、神に与えられる称号とは違うんだけど、どうしてか苗字名前のあとに命をつけると神霊化するという属性を持たせている。しかし朝鮮式だと死者の魂は救済されることもなく、死んでなお護国の防衛をしなくちゃならなくなる。死んでも休めないってなんか嫌だね。戦死者の命は尊いと思うけど、他国の儀礼を用いてまで神社のフリや神の真似をさせる必要はなかったと思うんだけど・・・・。
暴走した旧陸軍は超自然的なご都合な神を祀っていたというが、それは死して護国の鬼となった集合神の事ではないんだろうか。だとしたらそんなモノが神道を国体の基盤に据えた呪術てきな日本を守護するはずがない。恨みしかないだろう。
朝鮮では朱子学を国教に据えるために、それまでの宗教儀礼であった仏教を廃止してる。その際に石仏は首を切られ、仏像は焼き捨てられた。
これと同じことが神道を超宗教化する際に日本全国で行われた廃仏毀釈と似ている。
一度葬って捨てた仏教文化の象徴である仏像を日本人が盗んだと韓国人が泥棒扱いし、本当に泥棒したけど、それは韓国人が過去に否定した仏教の遺物であるんだな。
そんで最近も韓国人が信者の石塔や稲荷様の石像を壊したりしたのも、そんな宗教観が今もあるからだろう。否定する宗教の遺物の首を刎ねる。それは明らかに呪詛的な行為なんだろう。
さすが恨の国と言われるだけのことはある。
人間由来の神様たち、もう静かにお眠りくださいね。
何か眠くなったぞ・・・・。
「死して護国の鬼となる」
招魂とは陰陽道、道教の葬祭儀礼をもとにするとあるが、招魂社の発祥地が下関であるということを考えると半島の儀礼なのかと思う。中国の招魂は子供が鬼の被り物をして死者の霊魂を招く祭。招魂社の原型は朝鮮朱子学の「招魂」のイメージの方が合う気がする。
朝鮮の宗教儀礼がもとだから、日本神道として立場的に戦争で死んだ者を神格化する考え方に対立したのかも知れない。昭和12年と言えば神社を管理していた事務所の神殿に大国主命を合祀するか揉めていた。今では神道世界のトップは天照大神一人だけど、創造神である造花三神+天照大神を祀るのが明治政府が定めた正式な祀り方だったようで、黄泉の国の神は穢れているからダメという理由で神殿内に合祀されることはなかったんだって。大国主命がご祀神の出雲大社の大宮司は生き神様と呼ばれて全国的に人気もあったから伊勢派は合祀に反対したんだろう。
詳しくは記載がないけれど、本当は招魂社を日本古来からの神道のように見せかけるために大国主命を合祀して、靖国神社にしたかったんじゃないのかなぁ。だけどそれもきっと反対があったんだろう。平田神学の黄泉ファンタジーが受け入れがたいものであることはなんとなくわかる。黄泉の神は死後の人間の魂を救うような存在ではない。<国体>を地下世界から支える神でなければならなかった。
靖国は中国の「春秋」から明治天皇が選んだ言葉と言われてるが、本当は朝鮮朱子学からの引用なんだろうね。京都にいた天子様が長州田布施村で匿われた南朝の末裔である大室寅之助が明治天皇にすり替わったことが事実なんだろうから、朝鮮朱子学の思想があっても不思議ではない。田布施村は朝鮮民族が住まう場所だと言われているからね。こういう風に考えると吉田松陰が引用した朱子学も朝鮮的な思想を含んだものだったのかな。松陰の生き方はまるで生鬼であることを肯定してるような鬼気迫るものがあるしね。
陰陽道の鬼払いと言えば追儺の儀式。節分の豆まきだね。鬼というか目に見えない禍いを祓う儀式である。鬼とは人の霊魂でもあるし、疫病やそういう目に見えない厄災を指したんだろう。
もちろん戦死したものや頓死したものを崇め祀る文化は日本にもある。それはだいたい怨霊になった天皇を供養する際に用いられた方法だった。魂を祀り鎮め神格化することで逆に幸いを呼ぶ存在にする。怨霊信仰である。
まあ天皇は神になれるけど、一般人を神とする神道はない。祖霊信仰というのはなくなった先祖の魂は山の向こうに帰るという考え方であるが、これは神道の原型ではあるが、神道の自然崇拝とは少し違う気がする。
神道はやたら儀礼に煩いから、考え方にないものは完全否定して肯定するというややこしい側面がある。ミコトの命は魂を指す言葉であって、神に与えられる称号とは違うんだけど、どうしてか苗字名前のあとに命をつけると神霊化するという属性を持たせている。しかし朝鮮式だと死者の魂は救済されることもなく、死んでなお護国の防衛をしなくちゃならなくなる。死んでも休めないってなんか嫌だね。戦死者の命は尊いと思うけど、他国の儀礼を用いてまで神社のフリや神の真似をさせる必要はなかったと思うんだけど・・・・。
暴走した旧陸軍は超自然的なご都合な神を祀っていたというが、それは死して護国の鬼となった集合神の事ではないんだろうか。だとしたらそんなモノが神道を国体の基盤に据えた呪術てきな日本を守護するはずがない。恨みしかないだろう。
朝鮮では朱子学を国教に据えるために、それまでの宗教儀礼であった仏教を廃止してる。その際に石仏は首を切られ、仏像は焼き捨てられた。
これと同じことが神道を超宗教化する際に日本全国で行われた廃仏毀釈と似ている。
一度葬って捨てた仏教文化の象徴である仏像を日本人が盗んだと韓国人が泥棒扱いし、本当に泥棒したけど、それは韓国人が過去に否定した仏教の遺物であるんだな。
そんで最近も韓国人が信者の石塔や稲荷様の石像を壊したりしたのも、そんな宗教観が今もあるからだろう。否定する宗教の遺物の首を刎ねる。それは明らかに呪詛的な行為なんだろう。
さすが恨の国と言われるだけのことはある。
人間由来の神様たち、もう静かにお眠りくださいね。
何か眠くなったぞ・・・・。
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