60過ぎて

2023-04-17 06:44:24 | 日記
60越えの戯言を
最近、究極の幸せがあるのではと思っています。
通常言われている幸せは追い求めるものではない。それは満足に近いもので、人間は満足しきってしまうと
生き延びることができなくなるので、究極の満足はないのですが、
おいしいものを食べても、満足しきるものはない、、、他もそんな気がして

でも、究極に幸せはあるのでは、と思っています。

転回点というのがあって、60過ぎると気が付きます。
Natureって、日本語では自然ですが、本来は実は本性なんて意味もあり、じねんとか読みます。実は日本語にはなかった
自らのしかるべき姿なんではと思っています。こういうとこは日本は未発達でした。
自分って、ラテン語ではego、これは自我って訳します。Selfは自己、自然(じねん)も自己です。

全部、自分なのですが、自分でなんだと言われても???

通常自我は、仮面をかぶった自分というのが多いです。良き会社員として、良き親として、良き子として、
実はこれを演じると、シャドーと呼ばれる、本来の自分と差で悩むことになります。
40年も会社にいると、このシャドーが大きくなります。一見、とても優秀で良き社会人ですが、、、
自然はじねんは、違うとこにあるのでは思ってしまいます。競争をエネルギーにして目標をもって頑張る???
良き会社人ですが、、、

自我と、自然じねんが同じだと、大谷さんみたいになるのではと思います。
でも、自分のじねんは、何かといわれてもわかりません。自分のしかるべき姿、、、
長い間、良き社会人が目標みたいなことがあって、、何がしたいのかわかないい、、シャドーのせいで、よく眠れない
自分という意識なんて、わかならいものなんで、自分もわからないし、、昭和生まれ、少し怖い親に育てられ、
良い子、良い生徒、良い会社員、良き親、良い社会人、、
転回点は、わらしべ長者の物語に出てきます。あれは転回点を表していると言われています。自我でなく、じねんになる。

でも私はわからない、、そこでよく眠れない。
ここまでですが、この先の1つのヒントが、ホロコーストを生き延びた医者の 夜と霧に書かれています。
600万人も虐殺されました。気分や、なんかで、汽車から降りて 左にでおかま(ガス室)でした。
ちなみに日本の全戦死者300万人くらい
生き延びたわずかの人は、決しておきらくな人、楽観視した人でもなかった。よく悩む人たちだった
悩まない人はクリスマス前とかに亡くなったそうです。 希望がなくなって、、ここになんか究極の幸せのヒントがある気がして


以下引用
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いいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきだ。
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけている。私たちはその問いに答えを迫られている。
考え込んだり、言葉ではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しいこと答えが出されている。
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の
要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。
 この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとのに変化する。したがって、生きる意味は一般論で
語ることはできないし、この意味への問いは一般論で答えることもできない。
ここでいう生きることとはけっして漠然としたことではなく、つねに具体的ななにかであって、
したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。
この具体性がひとりひとりにたった一度、他の類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。
だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに
人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、ある時運命をみずから進んで切り拓くことを求め、ある時は
人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またある時は淡々と運命に甘んじることを求める。
だがすべての状況はたったのいちど、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするひとつの、
ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。
**********************************************************************
末期のがん患者が普通の生活をしたがるわけはここにある。
じねんは、どこにあるんでしょうか?
毎日の生活、、なんなでしょうか、、すでに皆さんとも世代で意識が変化しています。
今の子供の意識なんて、、皆さんとはまた違います。自分が違うんですね、、
さあ、どうしましょうか?転回点、、実存的変容ができるか、、

なんてね。


語ることはできないし、この意味への問いは一般論で答えることも
できない。
ここでいう生きることとはけっして漠然としたことではなく、つねに具体的ななにかであって、
したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。
この具体性がひとりひとりにたった一度、他の類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。
だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに
人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、ある時運命をみずから進んで切り拓くことを求め、ある時は
人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またある時は淡々と運命に甘んじることを求める。
だがすべての状況はたったのいちど、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするひとつの、
ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。
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末期のがん患者が普通の生活をしたがるわけはここにある。
じねんは、どこにあるんでしょうか?
毎日の生活、、なんなでしょうか、、すでに皆さんとも世代で意識が変化しています。
今の子供の意識なんて、、皆さんとはまた違います。自分が違うんですね、、
さあ、どうしましょうか?転回点、、実存的変容ができるか、、

なんてね。

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