60越えの戯言を
最近、究極の幸せがあるのではと思っています。
通常言われている幸せは追い求めるものではない。それは満足に近いもので、人間は満足しきってしまうと
生き延びることができなくなるので、究極の満足はないのですが、
おいしいものを食べても、満足しきるものはない、、、他もそんな気がして
でも、究極に幸せはあるのでは、と思っています。
転回点というのがあって、60過ぎると気が付きます。
Natureって、日本語では自然ですが、本来は実は本性なんて意味もあり、じねんとか読みます。実は日本語にはなかった
自らのしかるべき姿なんではと思っています。こういうとこは日本は未発達でした。
自分って、ラテン語ではego、これは自我って訳します。Selfは自己、自然(じねん)も自己です。
全部、自分なのですが、自分でなんだと言われても???
通常自我は、仮面をかぶった自分というのが多いです。良き会社員として、良き親として、良き子として、
実はこれを演じると、シャドーと呼ばれる、本来の自分と差で悩むことになります。
40年も会社にいると、このシャドーが大きくなります。一見、とても優秀で良き社会人ですが、、、
自然はじねんは、違うとこにあるのでは思ってしまいます。競争をエネルギーにして目標をもって頑張る???
良き会社人ですが、、、
自我と、自然じねんが同じだと、大谷さんみたいになるのではと思います。
でも、自分のじねんは、何かといわれてもわかりません。自分のしかるべき姿、、、
長い間、良き社会人が目標みたいなことがあって、、何がしたいのかわかないい、、シャドーのせいで、よく眠れない
自分という意識なんて、わかならいものなんで、自分もわからないし、、昭和生まれ、少し怖い親に育てられ、
良い子、良い生徒、良い会社員、良き親、良い社会人、、
転回点は、わらしべ長者の物語に出てきます。あれは転回点を表していると言われています。自我でなく、じねんになる。
でも私はわからない、、そこでよく眠れない。
ここまでですが、この先の1つのヒントが、ホロコーストを生き延びた医者の 夜と霧に書かれています。
600万人も虐殺されました。気分や、なんかで、汽車から降りて 左にでおかま(ガス室)でした。
ちなみに日本の全戦死者300万人くらい
生き延びたわずかの人は、決しておきらくな人、楽観視した人でもなかった。よく悩む人たちだった
悩まない人はクリスマス前とかに亡くなったそうです。 希望がなくなって、、ここになんか究極の幸せのヒントがある気がして
最近、究極の幸せがあるのではと思っています。
通常言われている幸せは追い求めるものではない。それは満足に近
生き延びることができなくなるので、究極の満足はないのですが、
おいしいものを食べても、満足しきるものはない、、、他もそんな
でも、究極に幸せはあるのでは、と思っています。
転回点というのがあって、60過ぎると気が付きます。
Natureって、日本語では自然ですが、本来は実は本性なんて
自らのしかるべき姿なんではと思っています。こういうとこは日本
自分って、ラテン語ではego、これは自我って訳します。Sel
全部、自分なのですが、自分でなんだと言われても???
通常自我は、仮面をかぶった自分というのが多いです。良き会社員
実はこれを演じると、シャドーと呼ばれる、本来の自分と差で悩む
40年も会社にいると、このシャドーが大きくなります。一見、と
自然はじねんは、違うとこにあるのでは思ってしまいます。競争を
良き会社人ですが、、、
自我と、自然じねんが同じだと、大谷さんみたいになるのではと思
でも、自分のじねんは、何かといわれてもわかりません。自分のし
長い間、良き社会人が目標みたいなことがあって、、何がしたいの
自分という意識なんて、わかならいものなんで、自分もわからない
良い子、良い生徒、良い会社員、良き親、良い社会人、、
転回点は、わらしべ長者の物語に出てきます。あれは転回点を表し
でも私はわからない、、そこでよく眠れない。
ここまでですが、この先の1つのヒントが、ホロコーストを生き延
600万人も虐殺されました。気分や、なんかで、汽車から降りて 左にでおかま(ガス室)でした。
ちなみに日本の全戦死者300万人くらい
生き延びたわずかの人は、決しておきらくな人、楽観視した人でも
悩まない人はクリスマス前とかに亡くなったそうです。 希望がなくなって、、ここになんか究極の幸せのヒントがある気が
以下引用
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いいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきだ。
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけている。私たちはその問いに答えを迫られている。
考え込んだり、言葉ではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しいこと答えが出されている。
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の
要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとのに変化する。したがって、生きる意味は一般論で
語ることはできないし、この意味への問いは一般論で答えることもできない。
ここでいう生きることとはけっして漠然としたことではなく、つねに具体的ななにかであって、
したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。
この具体性がひとりひとりにたった一度、他の類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。
だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに
人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、ある時運命をみずから進んで切り拓くことを求め、ある時は
人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またある時は淡々と運命に甘んじることを求める。
だがすべての状況はたったのいちど、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするひとつの、
ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。
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末期のがん患者が普通の生活をしたがるわけはここにある。
じねんは、どこにあるんでしょうか?
毎日の生活、、なんなでしょうか、、すでに皆さんとも世代で意識が変化しています。
今の子供の意識なんて、、皆さんとはまた違います。自分が違うんですね、、
さあ、どうしましょうか?転回点、、実存的変容ができるか、、
なんてね。
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いいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけている。私たちはそ
考え込んだり、言葉ではなく、ひとえに行動によって、適切な態度
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きる
要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとのに変
語ることはできないし、この意味への問いは一般論で答えることも
ここでいう生きることとはけっして漠然としたことではなく、つね
したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん
この具体性がひとりひとりにたった一度、他の類を見ない人それぞ
だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返
人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、ある時運命をみず
人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またある時は淡
だがすべての状況はたったのいちど、ふたつとないしかたで現象す
ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。
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末期のがん患者が普通の生活をしたがるわけはここにある。
じねんは、どこにあるんでしょうか?
毎日の生活、、なんなでしょうか、、すでに皆さんとも世代で意識
今の子供の意識なんて、、皆さんとはまた違います。自分が違うん
さあ、どうしましょうか?転回点、、実存的変容ができるか、、
なんてね。
ここでいう生きることとはけっして漠然としたことではなく、つね
したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん
この具体性がひとりひとりにたった一度、他の類を見ない人それぞ
だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返
人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、ある時運命をみず
人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またある時は淡
だがすべての状況はたったのいちど、ふたつとないしかたで現象す
ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。
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末期のがん患者が普通の生活をしたがるわけはここにある。
じねんは、どこにあるんでしょうか?
毎日の生活、、なんなでしょうか、、すでに皆さんとも世代で意識
今の子供の意識なんて、、皆さんとはまた違います。自分が違うん
さあ、どうしましょうか?転回点、、実存的変容ができるか、、
なんてね。