輪廻の沼 3

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細木カポコンの“輪廻の沼”と“アナタの人生”

2008年12月05日 22時10分32秒 | Weblog

 ゲームとは何か?これを考えると少し思いふけてしまう。私に限ったことではないけど。人には多くのタイプや考え方がある“外見内面十人十色”だ。しかし、私的には社会で感受性に限った形で人を分けた場合。ゲーム的人間人生的人間とに二分されるように思う。『ゲームと人生の違いは分かりますか?』と問えばゲームと人生ではゲームは常に勝者を決めるものであるという事ではないだろうか。

 何を以て勝者と呼び、何を以て敗者と呼ぶか。ルールは千差万別。それを人生に当てはめ、その明確な答えを人生で探そうとすると人生の中では混沌とし、霧の中を迷走するような毎日が待っている。働いた後に、家族が待っている、恋人の待つ愛巣へ帰るもまた我が霧の中に描かれる自分のゴールであろう。一人になりコーヒーをすするのもまた人生。ゴールというか、その為に一日を働くという定義的なもの。ゲームは人生から生まれたのは間違いない。確かにゲームという言葉は社会でも暗躍している。ゲームによって競争が生まれ、社会を動からしているように見える。しかし、ゲームで人生が決まるか?と問われればそれはどうかと思う。結局はゲームという考え方は人を敵としてしか見ないで終る、ゲームの終着駅。

 ゲームをして、もう20年以上やってきた、ゲームとは勝者を決める戦いであり、自分以外を敗者にしなければいけない。自分に味方する人間でさえも、主人公を決める戦いが待っており結局はその中で人生を描くことはない。自分を主人公にするためには自分が勝者とならねばならない。勝者の周りに敗者を並べるのがゲーム。社会は常にゲームと人生という裏と表の二面性があり、それは『出来る人』と称される人でもその二面性を求められ、それが普通ではない性格を生み、時にそれが顔に現れたりもする。ゲームは社会には必要な要素である。ゲームで生み出してきた文明の遺産は人間が持つ最強の道具になっているからだ。ゲーム主義で固められた帝王学のような人間が、文明の遺産を手にし世界で血の戦争を繰り返している。

 人生とは何なのか?人は恋をしたり別れたり、誉められて喜んだり、誰かと話しをして理解し、時には涙したり、『人は、誰かに自分を知ってもらおうとする本能がある』。その本能こそ人生、人間。人生に道はないというが、私が考えるに人生に道はある。『知るべき人に自分を知ってもらう』事こそが人生であり人間だ。人はそのために生きている。そのために本を書いたり、ホムペでブログで自分を公開しようとしている。それが人生において迷っている輪廻の状態から自分を脱したいと願う。切なる願い。自由という言葉ではなく、人間がどうすれば我が時間に至福を感じ、また自分の周りの人が至福を感じてくれるか?また、人生において老若男女問わず戦う事になる、向かってくる不幸や理不尽さに耐える事ができるか?それを模索し、自分のことを理解してくれる人を自分自身がもつこと。お金で買えない価値とはそのこと。つまり人生なのだろう。ゲーム主義は大人主義的な見方があるが、人間らしさを殺し、ゲーム性質ばかりを求め、最後は老け死ぬ。

 私が考えるとそれこそ、ゲーム主義に生きる人間は戦争を生んできたヒットラーのような人間と人間的な差がそこまで無いように思う。そういった人間は最後は、人生においても大差なし。歴史のリピターにしかなりえない。世界で人の生死がゲームによって決められているのもまた事実である。その事実は、知らぬ振りをしていても、いつかは我が身を焦がす日もそう遠くと感じている。

 話は変わるが、昔、プログラミングの仕事をしていた時。友達から誉められたゲームを思い出した。それは“一日一膳”というゲームだった。自分の自作ゲー。その主人公は、一日必ず良い事をしなければいけないという神のルールの元に生きている設定。しかし、主人公は常に自己中心的な性格で今の世の考え方。そんな人間が、時にはお金を貢ぎ、時には我が身を呈して人命を守る。損ができる人間を生み出すゲームだ。結局エンディングをどうしようか?で終らなくなってポチャしてしまったが、今考えるとこの糞ゲー主義のなかで一番大事なゲームを自分が作らなかったことに後悔している。もし、ゲームクリエイターの人が見ていたら、そういうゲームを作ってみるのも面白いのではないだろうか?


 某中国よりこのメッセージを綴る


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