リューダの北海道体験記
早川輝彦はサハリンでの番組化へのネタ探しに日々費やしていた。
ホテル・コンコルドから歩いてサハリンテレビに通っていた。
市内の北側に位置するホテルからテレビ局のある、南まで30分程かかる。
ロシア人は、歩くのが得意の民族の様でバスが遅れると歩いている姿をよく目にした。
それは、戦後の日本の状況と似ている光景でもあった。
テレビ局から東に300m、州立刑務所がある。
黄色い半纏を着た囚人が歩道でゴミを拾っている。 彼ら、彼女らは軽い罪の
囚人にので簡単な作業をしているとキムは説明した。
「近年 収容者が多く、空気が少ないと囚人が騒いでいると新聞に載っていた」と
付け加えた。
国営サハリンテレビ局玄関の監視要員は、早川に「サハリンテレビに就職したのか・・・」
と、冗談を言った。
局の西側に歩道専用の出入り口がある。ここの門番は、元技術部長であった。
ロシア国内の景気の悪さが影響して職員の削減と配転が本格的に行われていた。
照明技師は取材車の運転手に配置変えなど。主に技術系が移動対象になっていた。
国営企業であるから州政府や市役所などが移動の対象になっていた。
この年に配属された副社長二人の内の一人は、サハリン州政府の民族担当の部長で
あった。
早川の友人一家であるワロージャ・キャメラマンそしてリューダ・アナは移動が
なかった。
リューダ女史が「テル。私、札幌のテレビ局で研修を受けてみたい。何とかならない
」かと相談を受けた。
それは、五月のサハリンテレビ局の職員専用食堂での事である。
この食堂は、ロシアの家庭料理を主に調理して提供していた。
値段も格安で職員にも人気のグリルであった。
早川は、親しい人からは「テル」と呼ばれていた。
「目的は何か」と聞いてみた。
「番組の制作方法と日本の成長の原点を学びたい」とリューダは答えた。
経費はどうすると聞くと。
サハリンテレビが、若い職員向け用研修強化策で国が負担するとの事である。
国家が負担するのであれば問題はないと判断した早川は了解した。
札幌での滞在は二週間であり、条件として自らが日本人スタッフと共に番組を
制作する事である。
滞在番組は、サハリンテレビ局で放送する事も加えられていた。
英語は堪能であるリューダであるが、日本語はまったく駄目である。
これから日本語を習得するには、時間的に無理があった。
サハリンテレビ局は、若手の育成対策として海外へ研修対応を広げていた。
その対象範囲は、日本・アメリカ・中国などである。
カメラマンのワロージャは、三年前にアメリカ・ロサンゼルスのテレビ局に研修
に行っていた。
期間は三週間。ロシアも多国籍国家であるが、アメリカは多民族国家である。
英語が基本の言語であり異民族でもこの言葉が通じれば生活が可能である。
食べ物が豊富で滞在中は体重が増えたと話をしていた。
ワロージャはカメラ技術の研修を目的として渡米した。
一体型のカメラシステムが、日本製でありその合理的発想はアメリカ人であると始めて
聞いた。 フイルム時代の音声を含む機材は、カメラ技師と録音技師の二人から
構成されて取材を展開していた。
しかし、アメリカ三大ネットワークはビデオ時代を見据えて一人で撮影も録音も可能
な一体型の開発を日本のメーカーに依頼していた。
そのカメラシステムがENGシステムとして現在では世界のテレビ局で採用されている。
人件費も一人分で済み、戦争取材の危険度も一人で済む、経費も一人分と経営者に
とっては、万歳ものである。
導入当初の日本のテレビ局では、労働組合が過重労働と反対した経緯がある。
短期であるが、ワロージャにとつての、海外体験は将来・テレビ局を担うスタッフにとっ
ては、貴重な事である。
国内が、経済的に苦しい時期に英断を実行した経営者。
「苦しい時だから君らが海外で大いに学んで欲しい」
と社長のカルペーンコが訓示したとリューダが語っていた。
ワロージャに言わせると「普段のカルベーンコ社長は社長室を後ろに組んだ腕で
部屋の端から端へと行ったり来たりしてまるで羆みたいだ」と話をしたのを思い出した。
職員の給与の遅配が続く中、社長は国の対応に頭を毎日悩ませていたのである。
国営企業の鎖が見受けられた。
この後、ロシアはグラスノスチ「情報公開」など改革路線を進み、国営企業の民営化に
大きく舵を切った。
さて、札幌の受け入れ局をどこにするのか、悩んだ早川。
キム・サーシャもこの食堂で食べることがあるが、大抵は愛娘弁当を持参して仲間
と食堂を利用していた。
六月に入るとリューダの北海道での受け入れ局が決まりビザも下りた。
早川は、帰国すると元勤務していた局ではなく、学生時代の先輩が勤めている
別のテレビ局へリューダの受け入れを依頼していた。
その理由は、自分が勤務していた老舗局は保守的な傾向があり、上から目線が災い
する傾向にあるからと、早川は判断した。
先輩局は自由奔放な制作姿勢が業界でも際立っていた。
六月の通称「札幌まつり」の三日前に來道したリューダは局の近くのホテルに
落ち着いた。
サハリンに置いて来た、双子の子供たちは小学生でリューダとワロージャの両親が
交代で世話していた。
報道部に配属されたリューダは、全体ミーティングで企画の提案を求められた。
彼女は、日本経済の発展を支えた自動車産業と宗教の多さを大きなテーマーと
して番組を提案した。
日本の素晴らしい技術力は、若い頃から知っていたが宗教の多さは知らなかった
のである。
日本には、仏教・キリスト教・神道・ロシア正教など、など、余りの多さに目をみはる
数である。
それが、珍しくも不思議なものと考えていたリューダであった。
タイトル「私の見た日本」
番組内容は、大手自動車メーカーの正面玄関に立って顔出しレポートをする
リューダ女史。
「今日も多くの車が海外輸出されて行きます。技術大国 日本の象徴です」
工場の自動車組み立てロボットが稼動している。
港の自動車プールには数百台の色とりどりの乗用車が駐車している。
自動車専用フェリーに次々とその車両が走り込む。
まつりの山車が、北海道神社から出て市内を巡回する場面。
「私は、ロシアでは見かけないお祭りに来ています。 不思議に思っているのは
日本はたくさんの宗教に囲まれた国です。 多くの宗教に囲まれた国民は何の
迷いもなく、生活を送っているのでしょか!!」
リューダの声に日本語文字スーパーテロップが流れる。
北海道神宮の祭りである。 通称・札幌まつり 大きな会社は昔から休日である。
四頭の馬が曳く山車が厳かに北1条通りを進行する。
山車の上では、女性らが笛や太鼓で祭囃子を演じている。
リューダの顔出しレポートが続く。
知事公館前では、交番の警察官が交通整理をしている。
市内の神社関連の施設で休憩をとる。 市内各所から集まった山車は10にも
及ぶ。
馬に水を飲ませる祭り関係者。
参加者にインタビュー「祭りの意味は」と聞いたり「貴方と神様の関係は・・・」とか
「神様は、貴方にとって生きがいですか」など哲学的な質問に戸惑う市民。
女史の質問に通訳が日本語で聞いていく。
ロシアはソ連時代に宗教が、存在しなかった。その時代は40年も及んだ。
生まれてから、青春時代も無宗教を体験したリューダに取っては、大変に興味
深い課題であった。
祭り、最終日の夕方・番組は放映された。
放映を見て賛否両論の意見があった。
ロシア通の人は、「宗教を意味を探求する姿は素晴らしい。」
「技術大国と宗教のミスマッチを取り上げた事は有意義である」
一方、「宗教の意味合いを理解していない人間が、取材事に無理が感じられた。」
建国、時から宗教に囲まれた生活を送ってきた我が国は、この放映を通して改めて
宗教の持つ意味合いを考えさせられた。
帰国の朝、早川は丘珠空港にリューダを見送りに行った。
「とても勉強になった。親切にしてくれた皆さんに感謝します。英語が通じたので
仕事が出来ました。技術大国と宗教 面白かったでしょう・・・」
サハリンでお会いしましょう。
ダスビダァニァ
ロシア人文豪・アントン チェホフはポーランド人の民族学者・ブリニタフ ピウスッキ
とサハリンで会っていたのか!!
チェホフは作品「サハリン島」の著者として有名である。
一方、ピウスッキはアイヌ民族の研究者として大きな業績を残している。
この二人は、1890年にサハリンで会っていたか、否かが、番組のテーマーである。
一般論では、ロシア王朝が流刑の地サハリンを訪れる文豪に条件を出していた。
囚人との面談は認めたが、政治犯との面談・面会は拒絶した経緯がある。
当局の恐れは、革命分子の存在であった。
早川はこのテーマーに対し二人は合っていたと判断した。
一宿一飯の世話をチェホフはピウスッキから受けていた事が、判明した。
判明するとチェホフが、当局から弾圧を加えられる恐れがあったので、小説での
描写をぼかして表現していた。 証拠は、「サハリン島」に明記されている。
残された証拠を元に番組は構成される。
そして、ピウスッキの人間性、そしてアイヌ民族の生活風習などが歴史にのこされ
ていた。 当時、ピウスッキは植物学を研究していた。
舞台は、1896年サハリン中部
時のロシア帝政政府は崩壊しレーニンが主導する社会主義国が誕生する。
ピウスッキ30歳は、刑期を恩赦により短縮され放免になりサハリンからウラジオ
ストックの美術館に勤めていた。
同館で流刑時代に行った植物の研究を進めていた。
ここで、少数民族の研究テーマーを与えられ再びサハリンへ行く。
提案したのは、アカデミーである。
ソ連邦は他民族でありクレムリンはその民族の研究をする事で民族の動向を学ぶ
べき研究を開始した時期でもある。
ピウスッキには大きな予算も与えられた。
アイヌは、オホーツク海に面する白浜であった。
ここで子供たちに学校を二校開設し村人の信頼をうける。
村の古老からアイヌの歴史文化を吸収する。 古老宅で家事を手伝う娘・シンキン
チョウと恋愛関係になる。 そして結婚する。 シンキンチョウ18歳 ピウスッキ30歳
であった。 この結婚にはアイヌの古老らは反対するがそれを押し切っての結婚で
あった。
当時、エジソンが発明した最新式録音機 蝋管によるアイヌユーカラの録音を行っ
ていた。
1902年から1905年までの間に三回北海道を訪れてアイヌ研究を行っている。
四度目は1906年である。
前年には日露戦争があり日本国内も混乱状況であった。
サハリンマン