そもそも大層なことを書けるほどできた人間じぁないし、偉そうな先輩の中身があるようで空っぽな話はとても無駄かなと思います。なので体操について徒然なるままに思いの丈を書き綴ろうかと。
私が後輩に伝えたいことは『人生一回きりだから出来るだけダラダラしたほうがいいし、たくさん寝たほうがいいよ』ということです。引退式に言ったこととは真反対ですね。引退式では体操部入るってことは3〜400万ぐらい外部費用が発生するから頑張れよって話をしました。女心は秋の空みたいなことですね。
常々思っていますが、先輩という人々はあまり大した者じゃないです。歴史を長い目でみると恐らく人類の先輩はアウストラロ何ちゃらです。ね?全然凄くない感じがするでしょ?人類は情報を蓄積してきたからこそみんな頭が良くなったんだと勝手に思っています。そー考えると人類史上頭が良い世代は今日生まれた赤ちゃんなんじゃないかなと。世の中に起きる凄いことは赤ちゃんに任せて、我々はなんとなく生きて、人類未踏のフロンティアがあったら迷わず突っ込んでみる。そんでみんな将来の肥やしとして死んでいく。こんなライフプランなんていかがでしょうか。
そんなこんなで本題に入りましょう。
努力と才能どちらが大切か考えたことがありますか?努力は日々の練習に見てとれますが、才能いかがでしょうか?私には才能というのも紛れもなく存在して見えています。同じように練習しても上手くいく人、行かない人がいます。もっと言えば周りと同じように努力ができない人がいます。その理由は様々、先天的な遺伝、身体能力、競争が苦手な人格、経済的な環境であったりします。つまり、努力できること自体が、運や才能に依存している、そんな気がしなくもないです。
みなさんの好きな種目はなんでしょうか。私は鞍馬が好きですが、同時に一番得意な種目でもあります。この場合どちらが先行するのでしょうか。恐らく相乗的なものではありますが、一つ言えることは、私は他の人より手腕が長く鞍馬に適した体格を有しているということです。練習したから上手くなったなんて残酷なことを言いたくないです。人によって歩くスピードは異なります。当たり前のことですが、体操部のような愚直に努力できる人ほど忘れてしまうような気がします。時に才を持つ者の努力が他の努力を否定することがあります。たぶんこれが才能という概念の始まりなんでしょう、知らんけど。努力できない人々が諦める為、競争から解脱する為の装置です。
私にとって才能はそんな意味を持っています。鞍馬ができることは才能ではありません。それ以外の5種目ができないことが才能なんです。体操に限らず自分のできないことを数えてみてください。両の手には収まらないでしょう。できないことの数だけあなたには才能があるんです。
ここで経済学の知見を借りましょう。努力と才能が混沌とひしめく資本主義では効率を上げる為に「分業」を行います。苦手な事は他に頼むのです。会社の社長を想像するとわかりやすいと思います。彼らは普段何をしているのでしょうか。答えは、「ほとんど何もしていない」です。しかし、唯一の仕事があります。それが他の人に仕事を任せる事です。そうやって上層部からピラミッド状に仕事が伝播していく事で現場が動きます。
これを踏まえて先程の話に戻ると、数えた才能の数は他の意味を持ちます。それは、あなたにとって必要な仲間の数です。かつて、たかしに個人総合六種目は社会主義と言ったことがあります。要は仲間に頼れよってことです。できないことの数だけ頼る必要があります。仲間に頼れる人になってください。そして、仲間が頼ってきたとき胸を張って答えてあげてください。それまでは気張らずダラダラしていましょう。たまに気合い入れて生きてみるのも一興でしょう。
私は体操部で作った様々の想い出や経験をポッケにしまって歩いて行きます。ジーンズはポケットが多いから便利ですよね。お世話になりました。
『眠れないほど、夢を見てる』
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