十数年ピアノを習っていて、
そろそろコードを覚えてみましょうか
というところでわたしのピアノは終わりました。
当時もわけのわからなさにびっくりしましたが
最近見てみても、またわけのわからなさに
びっくりしました。
なんというか、正直見ていて意味がわからないし、
覚えられもしないのです。
たとえば箱の中にたくさんのひよこがいて、
その中の一ヒヨコ(ヒヨコの単位)を
友達がすくいあげ、わたしに見せます。
「この子の名前はピヨ彦ね」
そんなことを言ったあと、
そのひよこを箱の中に戻します。
一瞬にしてわたしはそのひよこを目で追えなくなって、
どれがどれなのか区別できなくなる――
そういう心情です。
でもなぜなんだろうとひたすら考えました。
できないできない言っていたら、
「やりたくない」を「できない」でごまかす、
なまけものみたいに思えてしまいます。
そしてその結果、何年かごしにその理由を見つけました。
わたしにとって和音のコードとは、
人の顔と名前と同じようなものとして
脳が判別していたのでした。
わたしにとっての他人、というものの見方が
どういうものか、それでわかるでしょうか。
人も数字も、ひよことおんなじ。
「この人が川津さんね」
と宣言されても、その人が人の中に混じると――
わたしにはもう、判別不能です。
色の赤緑弱判定みたいなものとでも言えるでしょうか。
単品では赤と緑の区別がつくのに、
混ぜるとよくわからなくなってしまう、
ああいう感じです。
わたしにとって他人の顔はそういうものである上に、
名前もそういうものです。
もう名前と顔を組み合わせるなんて、
スーパーの中でたまごとにわとりを買って
親子丼を作った時に、それがほんとうの血縁のある
親子で丼になっているくらいの確率です。
まあ、それはさておいて。
どうすればわたしにも理解できるようになるのかを
寝る前に考えるでもなく考えてみました。
わたしはこういうのを寝る前に考え出すので
なかなか寝られなくて困ります。
……そして、もしかすると、
微妙に解決法を閃きました。
たとえばわけのわからない文章はこんな感じ。
「ドミソの和音はハ長調で基本となるもので、
この和音をCメジャーと呼び、
働きとしてはトニックと呼びます」
これをひたすら見続けて悩んでいたら、
わけのわからない原因が見えてきました。
――これ、平気な顔して
イタリア語と日本古文とドイツ語と英語が
混じっています。
これはまるで、
「イオはレルネ独国ラングィッジでござる」
なんて言うようなばかばかしい文章です。
というところに思い至って、
上記文章を変換してみました。
「ドミソの和音はド長調で基本となるもので、
この和音を主ドと呼び、働きをトニックと呼びます」
すっきりしました!
根音がドで、ドミソの和音を基本とするから、ド長調。
たったそれだけのことだったのに、
根音がドでCメジャーを基本とするからハ長調なんて
わけのわからない言い方をするから、
今の今まで理解できなかったのです。
きっと世の中の一般の人って、
こういうのを何の苦労もなく理解できてしまうんでしょうね。
「ドもハもCも、おんなじでしょ」
なんて、見た瞬間に頭の中で置き換わるんです。
「あの顔は広報課の川津さんでしょ」
なんて人間に対してしれっと言えちゃうくらいに。
こうやって翻訳をしていけば、
どれだけ時間がかかるかはわかりませんが、
わたしにも和音のコードはわかるかもしれないという
気にはなってきました。
でも、そこで疑問がひとつ。
――わたしの用語で話したら、普通の人には通じないんじゃ?
うん、まさにそのとおり。
わたしと他人との間にある段差は
いつだって乗り越えられないほど、
すごく――おおきいです。
イタリアでドレミ、英語でCDE、日本語ではちと分かりませんが、まさかイロハではないだろう
統一してもらいたい、その方が覚えやすいです
行く行くはバンドスコアを書いて・・・
日本語の音階は、『はにほへといろは』です。
そもそも『ド』が根音だというのに、
なぜ『ハ』や『C』から始まるのかわかりません。
基本なら『ド』を、始まりである
『A』や『イ』に設定すればいいのに。