このまえ、漫画を見ていてふと気になるシーンが出てきました。
「真名(まな)で相手を縛る」
とかそんなセリフと場面です。
わたしは基本的に、『言霊信仰』に似たものをもちあわせています。
それは簡単に言えば、『言葉に出したものには魂が宿り、
その言葉を実現させるための力が働きだす』というような想いです。
だからわたしは、軽々しく誰かに対して「死ね」だとか、
何かに対して「最低」「最悪」だとかは、
決して言わないようにしています。
もしわたしが誰かに対して死ねと言ったら、
その言葉に言霊が作用して相手が本当に死ぬかもしれないからです。
わたしが死ねと言ったあと、その相手が本当に死んでしまったら、
わたしはその言葉を口にしたことを自分でとても悔やむでしょう。
ただ言っただけ、という気持ちでは自分の奥底はごまかせません。
『死ね』とは、『死ぬ』の命令形です。
相手にその行為を求めるための言葉です。
命令でないとしても、『最低』『最悪』も使いません。
たとえばわたしがどぶにはまったところにちょうど上から
金ダライが落ちてきても、そんなものは最低最悪なできごとではありません。
この世界に知られているだけでも、
それよりひどいものなんていくらでもあります。
たとえば狂ったアメリカ兵に一箇所に集められ、火炎放射器で焼かれたり、
狂ったアメリカ兵に原爆を落とされて
人の死体が転がった焼けた街を家族を探して歩いたりするほうが、
よっぽどひどいことでしょう。
そんな生き地獄のような状況や人がすでにあったのを知っているのに、
軽々しく最低最悪など言ってしまうのは、おこがましいにもほどがあります。
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というのはさておき、ことだまです。
言霊でもっとも重要になるのは、名前です。
名前がどういうものかは……
http://www.geocities.jp/fumikurifumikura/02_chocobana/0000.html
のお話内でちょっと述べています。
ここでまず、人間のしくみについて軽く説明しましょう。
人は、三つが合わさってできていると考えられます。
・肉体
・魂
・魄
です。
『肉体』は、そのまま体。物理法則にしたがう、具体的なものです。
『魂』は、霊魂です。その人の意識の根源です。
『魄』は肉体を動かし、魂と体を繋ぐ接着剤のようなものです。
それから、ついでに名前の種類も見てみましょう。
たとえば、あだなや愛称、偽名など、仮の名前、仮名がありますね。
それから、戸籍に記載される本名(ほんみょう)があります。
そして、真の名前である真名(しんみょう・まな)があります。
本名が肉体についた名前であるのに対し、
真名は魂についた名前であるとも言えます。
そのため、魂や魂よりももっと薄くて広い『気』そのものである
神的な存在にも、真名は存在します。
名前というものは、あるものを「そのもの」として縛り、
自分の意識の支配下に置くものです。
たとえば汗びっしょりで教室に入ったとき、
ふとハンカチを差し出されたとします。
いきなりで意味もわからないと、
それはとても奇妙でおそろしい行為ですらあります。
でも、その行為が『好意』であるとわかったなら、
安心もするし、ハンカチも受け取ることができるのではないでしょうか。
また、なにか失敗をした子に対し、
「こんどは気をつけてやろうね」というか
「またなの? このバカは」と言うかでも
差があらわれると思います。
「こんどは気をつけてやろうね」
は、気をつければその失敗は防げるものであると
相手に対して伝えていることになります。
(そこに存在するのが言霊の力と考えるとわかりやすいです)
一方、
「またなの? このバカは」
という言葉は、相手が『バカ』で、
『バカだから』そんなことをするんだ、と
相手にバカという名前、バカというレッテルをはることで、
その相手を縛るという行為になります。
言い続けられたこどもは、
「どうせおれはバカだからしょうがねえんだ」と
外でよけいにバカをやったりするようにもなります。
名前とは、そういう力をもち、相手を縛るものであるのです。
それは、神も一部ではおなじです。
名前を与えられること、もしくは真の名前を知られることで、
相手の支配下に置かれ、お願いや命令は断れなくなってしまうのです。
だからこそ、名前は知られてはいけないものだったし、
軽々しく呼んではいけないものだったのです。
たとえば、キリスト教の真の親玉は、『YHWH』であらわされます。
古代人は、一神教の神の親玉の名前を知っていました。
でも、口にしてはいけないものだったので、
便宜上、『YHWH』と書いてみました。
形式としては、『KTKR』と似たものです。
ネットスラング『KTKR』が『KITAKORE』=来た、コレ! で
母音を省いたのとほぼ同じで、『YHWH』も母音がはぶかれています。
もしかしたら、『YHWH』は『YAHOWOHO』、ヤホ、おほっ!
などかもしれませんが、
古代人がひそかに隠し続けた結果、
ほんとうの母音はわからなくなったと言われています。
そのため、近現代人は『YHWH』の間に適当に母音を入れてみて、
『YEHOWAH』=ィエホヴァ や
『YAHAWEH』=ヤハウェ などと
呼んでいるわけです。
いまだ神の名は、どれが本物なのかについて、
どの宗派もはっきりとした答えは出せていません。
でも、わたしは100%の真実と自信を持って断言できます。
いまある神の呼び名は、どれも誤っています。
なぜか。
それは簡単です。
その発音、その呼び名が正しく神の真名をさしているなら、
呼び名に応えて神がなにかしらの御業を示すはずです。
なのに何一つ奇跡が起こらないのは、
名前が間違っているからに他なりません。
というのはさておいて。
真名を呼ばないというのは、
日本でも見られて来たのではないかと思うのです。
(ここからはわたしの想像です)
ところで古典で『見る』という単語の意味は、ごぞんじでしょうか。
もちろん、『目に入れて視覚情報にする』という意味のことを
言っているのではありません。
年頃の男と女が『見る』。
それはもう、セックスする、だけの意味しかありません。
もともと女性は『おくゆかしい』時代です。
その姿や顔かたちを見るのは、そういう時になってしまうのでしょう。
でもそれは日本だけではありません。
『見る』は英語で『see』。『see you』は『あなたを見る』ですが、
『あなたに会う』の意味です。
日本語の『見る』もそれに近く、『会う』の意味があります。
視線を合わせる『目合う』は『まぐわう』と呼んで、
これもまたセックスの意味です。
それなりに文学的な表現で性交のことを、
『体を重ねた』などといったりしますが、そういう感じに
『視線をあわせた』といえば、性交の婉曲表現だったのです。
そんな時代の女性ですから、簡単に姿を見られるわけにもいきません。
それと同じく、魂の形を見られるわけにもいかなかったのです。
それはつまり、名前を知られるわけにはいかなかった、ということです。
真名を知られれば、「会ってほしい」と命令されたら拒めないわけですから。
そこで女性は、特に名前を隠しました。
更級日記で有名なのは、菅原孝標の女。
あえて自分は名宣らず、『菅原孝標の』むすめであると言っています。
枕草子の清少納言(せいしょうなごん)は
繰り返されるうちに名前っぽく聞こえてきますが、
『少納言のおキヨさん』程度の仮名でしかありません。
源氏物語の紫式部も、式部の藤さんです。
男性では有名どころで、源義経の九郎大夫判官義経の呼び名があります。
この呼び名の共通点は、
・本名ではない
・役職が入っている
です。
現代でも、たとえば
『富井副部長』とか『谷村部長』とかと呼んだりします。
この流れは、平安時代からすでにあったと思えます。
でもなぜか、といえば、わたしはその原因が言霊信仰にあると思うのです。
その人の真名にしろ、本名にしろ、呼んでいいのはすくなくとも、
その人を実質的に支配できる、その人より上の人だけです。
言霊で支配されるのと権力で支配されるのは結果としてはおなじです。
一方、下のものがその人を名前で呼ぶのは、今で考えるより
とてつもなく無礼なことだったのではないでしょうか。
相手に命令できる弱みを握りながら会話しているようなものです。
「あのー、もにょ帳簿のことはだまってますけど、係長!」
のような。
だからこそ、日本では役職名で相手を呼ぶのだと思います。
それはたとえば、『おとうさん』『おかあさん』でもおなじ。
こどもが生まれると、お互いのことを、
お互いのおとうさんでもおかあさんでもないのに
そう呼び合うのは、名前を丸晒しにするのを
避けたいという心の働きに思えます。
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というところで、冒頭の話に戻ります。
漫画の中で、『真名で相手を呼ぶことによって、相手を支配する』
という内容が、前後の脈絡なく一文で出てきました。
もちろんわたしは言霊信仰上、内容は即座に理解できました。
でも、ふと思ったのです。
これ、一般人の常識として成り立っているのでしょうか?
この漫画、アニメにもなったみたいですけれど、
こどもがそれを見て、意味がわかるのでしょうか?
見る人はみんな、言霊について知っているものでしょうか。
それについて疑問を持ったので、一般人代表の普通っぽい友達に聞いてみました。
答えは、「なんでそうなるのかよくわからないけれど、
話の中ではそれはそういう感じのものだと思ってた」とのことでした。
じゃあこれは? と、『千と千尋の神隠し』についても訊いてみたら、
「見てたらわからなかったから、後で調べて知った」
と言われました。
『千と千尋の神隠し』には、言霊の話が出てきます。
主役の千尋は、途中で『千尋』という名前をとりあげられて、
代わりに『セン』という名前を与えられました。
この場合、『ちひろ』は本名であり、真名です。
真名である『ちひろ』を芯柱として作られてきた主役の魂の形は、
『セン』という名前を真名にされたことで、
元の形を維持できなくなっていきます。
それはたとえば、
『かわいくてやさしい子』と呼ばれていた子が顔を傷つけられて
『こわい顔の怖い子』と呼ばれるようになったとしましょう。
周りからの同情やおびえの視線を浴びてそう呼ばれるうちに、
もとの『かわいくてやさしい子』として振舞えなくなっていく、
と考えればわかりやすいのではないでしょうか。
そのために、物語の終わりのほうで、
千尋が手紙によって『ちひろ』という自分の真名を思い出し、とても驚くのです。
それは、自分が『ちひろ』でなくなりつつあったということを思い出し、
また『ちひろ』であったときのこと、自分の本質を思い出した驚きに他なりません。
それと同じく、『ハク』も自分の名前を思い出し、
本当の名前で本来の自分をとりもどしたときに力を発揮することができたのです。
そういう点も含め、千と千尋は日本古来の宗教観や常識が、
見ていて悔しくなるくらい詰まっていてわたしは好きなのですが、
友達は、あとでwikiだか解説だかを見てようやくわかったと言っていました。
いい大人の友達でさえそうなのですから、
こどもだったら、その漫画も、千と千尋も、
よく意味がわからないんじゃないでしょうか……と不安になりました。