秘するが花……
『ぶっちゃけて話すより、包み隠して話して!
だって、そのほうが味があるでしょ』
とか、そんな感じの言葉です。
かつて世阿弥は言ったそうです。
『ツンデレは普段つんけんしている態度と言葉の中に
照れが垣間見えることが良いのだ。
思いをすべて言葉にしてしまうのでは
ツンデレにすらならない』と。
それをひとことであらわしたものが、
『秘するが花』という言葉です。
花も恥じらう乙女というのもここから来ています。
なお、ハレンチは破廉恥と書いて日本語のように、
びろうな話も尾篭と書いて日本語のように、
うんちくも薀蓄と書いて日本語のように、
ツンデレも突照と書く、れっきとした日本語の単語です。
(民明書房 『世阿弥とツンデレ』 1998年 より)
わたしは感情を理解するのは苦手ですが、
思考を言語化するのは得意です。
というよりも、そういう訓練しかしてこなかったので
そうならざるを得なかった、というところでしょうか。
たとえば絵を見て、その感想が「なんかすごい」。
それは嘆息としては通用するでしょう。
見るだけの人であればそれでも充分です。
でもそこで、何がすごいのか、
どうしてすごいと思うのかを言語化し、
理解しなければ自分の血肉にできません。
もしそれが、構図がすごいなら自分と比較して
構図の勉強になりますし、
色彩・色調がすごいのであれば
そこに意識をして見ること、まねることで
よりよく見えてくるものもあるかもしれません。
でもすべて「なんか」で済ませては
なにも見えてはきません。
他の例を出すなら、
「奴は俺の金を盗んだ上、何度催促しても
返そうとしなかったから殺した」
ならまだしも、
「なんかむかついたから殺した」
ではなにもわからないわけです。
こういうのもそうですが、
わたしは基本的に他人に伝わるように
適当に例を出すことを普段の会話でもよくやります。
わたしはわからないことがあれば
わかったようなことを言われるよりも
わたしがわかるように言って欲しいと
自分で思うからです。
たとえば、わたしの書く小説には
「なにかが足りない」
と言われたこともあります。
そんなこと、自分でわかっています。
なにかが足りている、またはすべて足りているのであれば
とっくに作家にでもなってます。
世の人の心をとらえるような『なにか』がないので
広く読まれることはない――そんなこと、
嫌でも自分でわかっています。
そこでその言葉、「なにかが足りない」とは
なにを意味するのでしょうか?
見た目は何かを言っているように見えて、
実は何一つ言っていないのではないでしょうか。
たとえば、技術もたりないと言うのであれば
まだ改善の余地があります。
話の中で人物たちに動きが無いので
話の盛り上がりが乏しいとか
『……』が多いので適宜置き換えを図るように
したほうがいい、とか。
そういった、具体的な自分では気づかないことを、
見えるような形で提示してくれるのは
自分を省みるきっかけになるので
とてもありがたいです。
そういうのが欲しくてたまに投稿などしてみるのですが、
そこで返ってくるのが愚にもつかない文字の羅列と
自費出版のお誘いだけだったりして
本当にうんざりすることがままありました。
ということもあって、
わたしが気になる部分を言うときは、
どうしてそれが気になるのか、それはどういうものなのか、
それを変更するとしたら代替案はどうか、
などをまとめて提示します。
……が。それはどうもよくないことのようでした。
よくわかりませんが、ねちねちといやみを言う人のように
とらえられてしまうのかもしれません。
かつて曲を作ろうと一緒に関わった人は、
あるときからわたしをあしざまにののしり出しました。
わたしにはその理由は一切わかっていませんが、
今回の流れを見ていると、原因はそこらへんだったの
かもしれないと思ったのです。
そして思うのが、「口はわざわいの元」や
「秘するが花」といった言葉。
わたしはしゃべりすぎるのかもしれません。
もっと他のおとなのように、
わかったふりでうなづいて、
あたりさわりのない言葉だけ言うようにすれば
いいのかもしれません。
……が。
心理学の交流分析でいうAC
(人の顔色をうかがい、自分を殺すこころ)。
わたしが鬱になったときはほぼ満点に近く、
それで精神をやってしまったこともあり、
どうしてもAC的な行動はとりたくありません。
ようやく落ち着いてきた今のACはほぼ0で
それがわたしの均衡を保っている気がします。
自分の心を裏切る言葉を口にするなら、
そんな言葉を言わないほうが
まだましかもしれません。
「沈黙は金」といった言葉もありましたし。
わたしは喋り方はそれなりに学んできました。
それは、戦いで言ったら戦術、戦い方に等しいです。
でもこれからは戦略、戦うか戦わないかと
いったことすら含むもの、を学ぶときに
きているのかもしれません。
つまり――
『言うべきか言わざるべきか? それが疑問だ』