最近映画版ドラえもんを甥っ子と見ています。
わたしももうずいぶん見方が変わったし、
楽しめなかったらどうしようと不安だったのですが、
意外と楽しめてほっとしています。
でも。今見るせいなのか、
連続で見続けているせいなのか、
すごく気になってしまうところがあります。
昔使った道具を忘れてるとか、
ラストでまた遊びに行くと言ってるとかは
まあよしとして。
道具でひとつ気になったのは、これ。
タケコプターがなんの警告もなくバッテリー切れで
使用者が何度も墜落しかけるというのは
どうなんでしょうか。
人間なんて、10メートルから落っこちても
死ぬことがあるほどやわな生き物です。
なのに、電池切れでいきなり墜落。
これ、何人も死んでるはずです。
せめて、地上まで降下する力があるうちに
警告するべきでしょう。
危なくておちおち使ってられません。
というのもさておき。
締めにむかうところの流れが、
それはどうなのという終わり方を
ずっとしているのです。
以下ネタバレ。終わったところで解説。
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・ドラえもん のび太の恐竜
のびたたちがおいこまれる
→未来パトロール登場、悪者を捕まえる
・ドラえもん のび太の宇宙開拓史
のびたたちなにもできず
→異星人、敵の計画を阻止。追い込まれると異星の警察が来る
・ドラえもん のび太の大魔境
のびたたちなにもできず
→未来の自分たちが来て戦闘補助の上すべてを教える
・ドラえもん のび太の海底鬼岩城
のびたたち全滅
→AI車が自分の意志でボスを倒す
・ドラえもん のび太の魔界大冒険
中盤~終盤 のびたたち全滅
→ドラミちゃん登場。復活
・ドラえもん のび太の宇宙小戦争
のびたたち全滅
→偶然で復活(スモールライト効果切れ)して反撃
・ドラえもん のび太と鉄人兵団
のびたたち全滅寸前
→しずかちゃん過去に行って歴史の書き換え
・ドラえもん のび太と竜の騎士
のびたたち過去時代での敗戦
→侵略を止める、という中盤までの目的は消滅(彗星墜落により)。
目的のすりかえで終結。
・ドラえもん のび太のパラレル西遊記
のびたたち全滅。あきらめる
→ドラミちゃん登場。すべてを救う。
・ドラえもん のび太の日本誕生
のびた以外全滅。
→タイムパトロールが来て解決。
・ドラえもん のび太とアニマル惑星
(終盤近く)ヒロインさらわれる。
(終盤)追い込まれる。
→ご都合主義でヒロイン奪還。
→異星の警察が来て悪者退治
・ドラえもん のび太のドラビアンナイト
のびたたち牢屋につかまる
→手助けで脱出。自分たちで解決
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さて。思ったことです。
空想のアニメに現実の法則をあてはめてうんぬん、
という話にはしないつもりです。
あくまでドラマツルギー的な観点でのおはなし。
上記のように、大長編ドラえもんの終わりは、
歴史的に人任せでした。
のびたやドラえもんたちが
必ず追い込まれ、そこであきらめるか
具体的にどうにもならなくなるかの
全滅パターンに陥るのです。
すると、今まで出てこなかった何かがやってきて、
すべてを解決する。それだけです。
これを別のものに置き換えてみましょう。
探偵モノで、密室殺人。
全員を調べてアリバイはありません。
さあ、これは?
→実は探偵が犯人。
→実は相棒のヤスが犯人。
→実はステルス迷彩を着込んだサイボーグ忍者が犯人。
戦闘モノで、主人公がやられました。
→実は死んだのが双子。もしくはそれ以上の子の一人。
本人何食わぬ顔で出現。
軍事サスペンスで、
核爆弾の発射を止めないと世界が滅びそう。
→最後でスーパーマンが来て押さえて捨てる。
裁判モノで、どんづまり。被告に死刑宣告が出そう。
→最後に真犯人が天井から降りてきて名宣りをあげる。
サバイバルアクションで、変なイキモノから逃げて逃げて
とうとう殺されそうになる。
→主人公目覚めて夢落ち。
さあ、どうでしょう。面白いでしょうか。
正直どれも、『だまされた』と思うのではないでしょうか。
スーパーマンのお話で、スーパーマンがなんとか
核爆弾の発射を止めようとするのならわかります。
でも、現実世界だけの話ですすんでいるのに、
最後の最後でスーパーマンがいきなり出てきて解決なら、
すべてがぶちこわしです。
正直、『その映画ってなんのためにあったの?』ですよ。
『ダイハード』で泣き言刑事が、ぶっころしてやる!
なんてつぶやきながら通気路を這っていたら、
窓の外に円盤がやってきて、「殺しはいけないよ」
なんて放送しながら悪人をすべて回収し、
善人にして戻しちゃうくらいわけわからない最後です。
という感じでドラえもんはすすみ、
見終わるときにはなんだかがっかりしていました。
・ドラえもん のび太の宇宙開拓史
においては、敵の殺し屋の眉間を打ち抜いて
殺した感じもありますし……。
わたしの記憶だと、のびたと決闘するはずだったのに。
・ドラえもん のび太の大魔境
だと、未来の自分たちが来てすべて解決。
なんでしょう、これ。
・ドラえもん のび太の海底鬼岩城
のときは、一応伏線があります。
バギーが、いつか出よう出ようと思いながら、
でも怖くてポケットの入り口あたりで様子をうかがっていたと
考えれば、最後に特攻かけるのはありだと思います。
でも、ドラえもんたちは、
一切自分ではなにもしていないことにかわりありません。
一応ドラえもんだけはボスのところに乗り込みますが、
バギーを出して倒す、という意志ではありません。
解決はここでも第三者に任されます。
・ドラえもん のび太の魔界大冒険
は、やっちゃった、という感じ。
ドラミちゃんのもしもボックスが使えるようになったときに
「今の状況でもしも魔王が侵略をやめたら」
なんて言ったら終わってしまいます。
ドラえもんとのびたが石になってどうにもならなくなったら、
そこで第三者がでてくるのではなくて、
どうにかして自分たちで解決してほしかった、
そんな気持ちで自分が見ていたことに
ここで気づきました。
・ドラえもん のび太の宇宙小戦争
では、自分たちで映画を作ろうとしていたところが
よかったのですが、いったん本物の事件に巻き込まれると
もう大変。撮ることよりそっちのほうに
夢中になってしまうんです。どうしてこうなんでしょうねえ。
……というジェシカフレッチャーばり。
最後、できすぎくんは放置で映画もとられないのが
どうにも心残りです。
お話では、レギュラー3人が捕まって銃殺刑になりそうで、
助けようとする2人も手段を奪われます。
――が。そこで偶然(都合よくともいいますが)
みんな小さくなっていた体が大きくなって反撃します。
小さいまま、その状況でがんばってどうにかする偶然ではなく、
すっぱり断ち切ったあたらしい状況で
反撃して終わるのがどうにもすっきりできません。
これでは夢落ちと同義に思えます。
・ドラえもん のび太と鉄人兵団
わたしの中では結構好きだったもの。
見直したら……かなりずるいです。
リリルとしずかちゃんの別れ、という見せ場はあるのですが、
お話をまとめる手段はどうにも、です。
メインの話としては、のびたたちが
敵の大軍団と戦って、それでもやられてしまうという流れ。
本来なら、これの状況の中で、どうにか解決するから、
見ているほうはカタストロフィー(心理学的な意味で)を
味わってほっとするのに、
その状況をすべて放棄するのです。
言ってみればもしもボックスで、
『もしも襲ってくる鉄人兵団がすべていなくなったら』
と言うのとおなじ状況を、しずかちゃんは作るのです。
落ち着いて見れば、がっかりでした。
・ドラえもん のび太と竜の騎士
これは今見たら、お話は結構おもしろかったです。
恐竜たちはのびたたちを監禁した上に、
人間の祖先たちを滅ぼしに行く――
ように見えますが、本当は積極的な平和主義。
そのため、自分たちが地上に返り咲くために
現在の人間を滅ぼすことはしません。
過去に行っても、人間の祖先を滅ぼすことは、
もちろんしません。
(ドラえもんたちはここで勘違いして
戦いを挑みますが)
彼らの目的は、自分たちを地下に追いやる原因となった、
何かを防ぐことです。
つまりドラえもんたちは、本来完全な傍観者。
それまでの行動にはまったく意味がなく、
最後彗星が落ちてきたことで、
避難用の場所を作って終わるだけ。
状況を変えたのは、彗星落下だけです。
そして、ドラえもんはすべての地底人を
救ったことになってしまいました。
海底鬼岩城のように、局地対局地ではなく、
広い世界の歴史に働きかける、というのが
なんだか『自国が歴史のルーツ』と言ってしまう
どこかの国をみているときのような
なんだかやるせない気分にさせられました。
・ドラえもん のび太のパラレル西遊記
は、今まで見た中でこれが一番ひどかったです。
ヴァーチャルリアリティのゲームの中に入って、
その状態で出れば、中と同じ能力、というのは、
たとえばドラえもんの道具を装備した状態に
なっていると考えれば、納得はできます。
でもドラえもんがそれを知っているということは、
それを試した人は確実にいるでしょう。
その中には、開けっぱなした人も絶対いるはずです。
なのに、出てきたプログラムのキャラが
そのままの能力で出てくるなんて。
ならば、出てこられないように変更するのでは
ないでしょうか。あの機械はそもそもがおかしいです。
そして出てきたキャラは、たぶん人を皆殺しにします。
その上で、キャラなのにこどもまで作ります。
キャラが人を食い、生殖までする……
これはちょっとした恐怖です。
そして最後ではドラえもんたちが全滅し、
殺されかけたところでドラミちゃん登場。
今までつむいできた物語の糸をすべてぶちきって、
エンディングを持ってきて完了。
最後の最後でもとにもどったママにすがりつくところは
ほっとさせられますが、やるせなさが残りました。
・ドラえもん のび太の日本誕生
これも、やっちゃった感があります。
のび太と竜の騎士あたりから、なんだか宗教くささが
入ってくるのですが、これはタイトルを見て
なんだか嫌な気分からの始まりとなりました。
竜の騎士は、地上の排ガスがどうこう、
守らなくちゃうんぬん、といったことです。
今回は、竜の騎士のように、すべての恐竜人を
助けた神となるどころか、日本人の祖先を助けて
日本に根付かせたのがドラえもん、
みたいなことになっています。
なぜこんな話になってしまったのか、
そらざむさを感じます。
ラストはのび太の恐竜です。
・悪いことをしていたのは未来人。
・のびたたちがひっかきまわしたのでそのアジトがわかった。
・タイムパトロールが逮捕
そのままの終わりで、ドラえもんたちは
結局事態をなにも解決しません。
解決するのは常に第三者。
これは……『どんなに道具を使おうと、
おまえらこどもは大人やだれかの世話にならないと、
どんな小さな事件も解決はできないんだよ』
という教訓を含んでいるのでしょうか?
こどもを戒めるための映画なのでしょうか。
ここらへんまで見てきたら、
本当にうんざりして、胸が悪くなってきました。
でもやめさせてはくれないので続けます。
・のび太とアニマル惑星
これは……『近似セカイ系』とでも言うべきお話です。
やってしまった感を味わわずにはいられません。
たとえば、『ボク』が箱庭を作って遊んでいると、
アメリカ兵士が壊そうとしてきました。
その箱庭を壊されれば、本当の意味で、
日本の全領土が焼け野原になるのです。
だからボクらはそこを守ります。
そういうお話。
動物だけの星は、星なんだから
それこそ大陸もあれば国もあり、
異星人はたくさんいるでしょう。
なのにそれは描かれず、
日本どころか東京でもなく、
立川の、それも駅周辺だけで話は進みます。
偶然、異世界と通じるのびたの家。
偶然、動物星とつながってしまう双子星のかたわれ。
偶然、動物星へやってくる双子星のかたわれの人。
偶然、敵(双子星のかたわれの人々の一部)が攻めてくるのは、
のびたたちがいる町だけ。
敵が攻撃をして、動物たちを叩きのめそうとするのに、
被害も反撃も、すべて小さな町だけで行われます。
そこがやられたら、星すべてで降伏するような
描かれ方までしています。……なぜ?
そして終盤近く、異星人の女の子がさらわれたら、
助けるのはのびたで、使うのは
ご都合主義をもじった『ゴツゴーシュンギク』が主成分の道具。
ご都合主義につきについて女の子を助けて戻ります。
それでいいのかなあと物語から放り出される時間です。
たとえば裁判モノで、被告人は絶体絶命。
証拠も足りないし、容疑は覆せません。
でも、主人公は助けたくて、ついこぼすのです。
『彼女はそれでもやっていないんです』
それを聞いた裁判長が、
『まあ、やってないでしょうね』
なんてこたえてしまいます。
『どうしてそんなことを?』
まわりから言われて、裁判長は。
『ごめん。わたしが殺したから』
……わー。2時間の映画、1時間50分かけて証拠探しや
熱い裁判場面を繰り広げたのに、最後の10分で
まったく関係ない、今まで何も出てきていない
犯人がご都合主義の会話でわかっちゃいました。
これが面白いでしょうかと。
そんな映画でした。
・ドラえもん のび太のドラビアンナイト
絵本に入って遊んでいたら、
しずかちゃんが閉じ込められた上に
絵本は燃やされてしまいました。
ここがポイントです。
『しずかちゃんは絵本の中に』閉じ込められました。
さあ、助けに行きましょう、過去へ!
……過去?
過去で悪者なんかに襲われますが、
どうもしずかちゃんは存在している様子。
そこで何とか助け出しました。
でも手伝ってくれた人が、悪者に襲われます。
助けようとしますが、ドラえもんのポケットは
盗まれています。
そこへ、冒頭でいた第三者がやってきて
ドラえもんのポケットを都合よく返してくれる
――と思いきや、今回は出てくる伏線がありました。
一応見守り続けていたので、第三者よりは低い、
第2.5者くらいの位置にいました。
しかも、道具はほとんど使いません。
決着をつけるのも、助けてくれた人。
その状況を、ドラえもんたちが手伝いをすることで、
解消するのです。
前半部や設定に強引さがあるものの、
ここに来て、初めて! 何作目かは知りませんが、
はじめて自分たちの世界の中で起こったことを
自分たちだけで終結させました。
いや~、本当に長かったです。
次に見たブリキの迷宮も自分たちだけで解決しましたし、
時代がそういうのを求めたのでしょうか。
それとも、作者の心変わりでしょうか。
大長編を見ていると、舞台は
過去・宇宙・未開の地・海底 と
人が行けない場所を代わりに冒険させていたという
感じが見えます。
それが終わったあと、今度はどうするかと
いろいろ考えたのでしょうねえ。
(かの手塚治は、ネタ切れというものがわからない、
かきたいものはいくらでもあるけれど、
描く体が足りない。というようなことを
言っていた気がするので、
こちらも考えずに描いたのかもしれませんが)
いつしか作者も死に、声優も変わって。
時代も人もながれゆくものだと
しみじみ感じました。
あるときに食べたおいしいものは、
時をへて食べてもおなじくは味わえないといいますし、
その時代、そのときに見たからこそある意味も、
あるのでしょう。
公開時に見てしあわせだったんだなあと
感じたわたしなのでした。