いつごろからか、わたしは神社というものがよくわからなくなっていました。
昔は神様が好き好んで居るきれいな場所だと思っていたのですが、
神社のそばによくないものの気配があったとか、
くだぎつねを飼っているとか
神様を利用してなにかをするとかを聞いているうちに、
もしかしたら神が好きで居る場所ではなく、
神を利用するために閉じ込めておく場所なのかもしれないとも思うほどでした。
でもこのまえ、ふとネットで神社についての話を目にしたとき、
ようやく神社というものが自分の中で理解できました。
簡単に言えば、神社とは、『人間側ではない世界寄りにされた場所』
という感じなのだそうです。
そして常駐しているわけでない神様が『来る』場所なのだそうです。
でも神社として人の世でない場所としたあとで正しく扱われないと、
荒れた廃墟にばかたちが寄ってくるように、
向こうの世界の悪いものも寄ってくるようです。
わたしの持っていた『神様は神社に常駐している』という認識が
すべてを狂わせていたのだとわかりました。
神様が神社に常駐していると、分社という考えが理解できません。
A神社に神様がいるなら、同じ神様をまつるB神社には神様がいるわけありません。
なのになぜ、B神社は同じ神様をまつろうとしているのだろうと
長いこと考えてきました。
でも、来るところと考えると、矛盾が解消できます。
ある神様をまつるということは、別の神様をまつっているのではないという
なにか証が必要になるはずです。
または、別の神様ではなく、まつっているその神様が
あやまたず来るためのなにかが必要であるはずです。
人が誰かに思いをはせるとき、相手に思いを寄せるときを考えれば、
どうでしょうか?
誰かに自分を思い出して欲しいときはどうでしょうか。
今なら写真を見るのが多そうですが、すこし前や、
神様のころの前にはそんなものはありません。
現代だって、恥ずかしくて面と向かって写真なんて撮れない相手も
いることでしょう。
そういうときに誰かを思い出すには、物を使います。
たとえば、あの人が拾ってくれた消しゴムとか、
あの人が書いてくれた寄せ書き、とか。
逆に、遠く離れる前に恋人に渡す場合などは、
「わたしを思い出すよすがにしてください」
と、自分の髪を切って渡したり、大事にしている笛を渡したりする
シーンは物語にも出てきます。
『よすが』、頼りとなるもの。
人が神様に思いを寄せるときに頼りとなるもの。
神様が自分をまつるお社に降りてくるための頼りとなるもの。
それは、たとえば神の象徴であるものであったり、
ご神体であったりするのでしょう。
たとえば太陽は、丸くてまぶしく光ります。
そういう神様の象徴は、丸くてまぶしく光る、鏡であることもあります。
象徴としてそれがまつられることもあれば、
その鏡自体が神様として、また、神様の一部のように
まつられていることもあります。
そういった物が『よすが』です。
『よすが』。漢字で書けば『縁』。
たとえば神様が、「力を貸してやるから、ここに社をたてて
わたしを祭れ。よすがにとこの鏡をやろう」と言って鏡をくれると――
そこで、よすがが始まるわけです。
始まり、というのを別の言葉であらわすと、
『始まりと終わり』という熟語でもあるように『起結』。
文章のはじまりと発展、ひねりと終わりをあらわすのは『起承転結』。
つまり、よすがの始まりと書いて『縁起』。
神社にはよくどうやって神様との縁がはじまったか、
どういう縁で神社ができたかを説明するものがありますが、
あれの名前は『神社の縁起』ですね。
ようやく自分の中でつながりました。
現代では
「やめてくれ、縁起でもない」
と言ういいかたのほうが馴染み深くなり、
縁起といえば『いいこと』というような意味になりがちですが、
本来の意味の縁起とは『よすがが発生すること』というだけで、
いいかわるいかの判断は含まれない、平らなことばです。
そんな神様の社で、分社といえば、
わたしは神を分割してわけるイメージですごく嫌だったのですが、
よすがに考え至ると、たとえばオリンピックの聖火を
大元から周りへ分け与えるように、
その神にまつわるなにがしかをわけあたえているのだとわかりました。
神がばらばらにされるわけではないので神にダメージはなく、
むしろ数多くあがめられることで、神としての力も上がる、
望ましいことかもしれないと思えるようになりました。
考えがまとまってすっきりしました。