ミクの公式コミュニティの端っこでの
わたしの居場所、わたしのやっていたこと、
すべてがおかしくなって、わたしは逃げ出しました。
それはしかたのないことだったと
言いたかったのですがうしろめたさは感じていました。
そこへちょうど、なんの因果か、
かつての会社の人からメールが届きました。
わたしのいた職場では、
わたしがいたときにもそこにいた人のうち二人が、
新しく心を病んでしまったのだそうです。
……あそこははきだめのような場所でした。
社員と派遣社員との格差。派遣社員内での軋轢。
見えない鎖でしめあげられるように息はつまり、
周りは精神をすり減らしていました。
そしてわたしは――逃げ出したのです。
思えばわたしは、よい社員ではありませんでした。
気持ち悪いくらいネクタイは嫌いだし、
わたしの道義に反する言葉は
たとえだれから命じられようと、
電話口で口にするのはかたくなに拒否していました。
そして後では、あげていた声もおしとどめ、
会社の仕事は最小限にして、
ひたすらショートショートのことを考えていました。
それでもどうにもできなくなったとき、
わたしは逃げ出しました。
でもそれが、わたしに必要だったとしたら?
もしあのとき逃げ出さなかったら。
わたしが会社を辞めるときに残念がってくれた、
笑ってくれたあの人たちが
心を病むほどの状況にわたしがいたら、
わたしはどうなっていたのでしょうか。
メールを読んだら、わたしはあの時、
まだ周りに余裕があったときに逃げ出して
正解だったのだという気がしました。
だから、コミュニティからも逃げてよかった、
そんな言葉でまとめるつもりでした。
……でも。ふと思ったのです。
わたしの人生は、今までその連続でした。
何かがうまく言っていると、たいてい何か、
基本的には『誰か』が
わたしの邪魔をしにやってきます。
たとえばそれは家族であったり、
まわりの人間たちであったりしました。
中学3年以降から目に見えて心は壊されて、
穴だらけになっているわたしの記憶。
ことあるごとに聞こえてくる、ののしりと侮蔑の言葉。
それでもわたしは、それしか知らなかったので
ただ堪え続けました。
壊して壊して壊して、
何にも心に感じなくなったあの日々。
ただ世界から逃げ出すことだけを思った日。
そして大学で初めて、逃げることを覚えました。
ずっと心にあったのは岡崎律子さんの歌。
♪続けること、やめること、どっちが勇気だろう?
わたしにとっては、紛れもなく、『やめること』。
でも、やめることの勇気を
ようやく持つことができたのです。
そう言えば、会社ではやめる前に言われました。
「これから先もきっとつらいことがあると思う。
そのとき、どうするの?」
といったようなことを。
そんな会社で言われたこと、
わたしの今の状態。逃げ出したわたし。
うすうす思ってはいるのですが、
わたしの今生での課題のひとつは、
『困難の正しい乗り越え方を学ぶこと』のようです。
……ほかの人は、そういう経験はあるのでしょうか?
わたしには、人生において
何度も何度も繰り返し現れるものがあります。
たとえば、同じ名前の人。
わたしの家族の名前と、親友の下の名前は同じです。
それに、わたしが気に入る人、
何かの席でわたしに話しかけてくる人は、
たいてい二つの名前のうちのどれかを持っています。
それはまた、両方ともごく近い親戚と同じ名前なのです。
だからきっと、いつかわたしの前に
星の導きがくるとするなら、
たぶんその名前を持つ人だというような
確信めいたものをわたしはもっています。
そして状況。
わたしがなにかの状況、特に良い状況にありそうになると、
ある『誰か』がやってきて、
その歯車のせいでわたしは窮地に立たされます。
たいていは、そのままの状況を続けて、心を殺すか、
その状況から逃げて自分を殺すかのような
二択をせまられるような気分になります。
会社でも、もうぎりぎりでした。
やめたのは、たぶん正解です。
ぐちゃぐちゃに混乱したコミュニティを
やめたのも、たぶん正解です。
でも、そしたら。
わたしはいつまで、それに何度、
逃げ続けなければいけないのでしょう?
今回思ったのは、そんなこと。
たとえば次に就職したら、
またなにかくだらない状況がやってくるのでしょう。
いびる人、ばかげた内容。そこで逃げ出すわたし。
次にまた就職して、やってくるくだらないできごと。
安住の地もないまま、わたしはただ虐げられ、
そして逃げ続けるのです。
――いつまで?
そう思って、愕然としました。
わたしはどんなになっても、
その状況を繰り返すしかないのです。
たぶん、わたしが人生の課題を解決するまで。
わからない人にはわたしがなにを言っているのか
わからないかもしれません。
もしかしたら、すごくへんな宗教っぽくて
気持ちの悪いことかもしれませんが、
これがわたしの人生観であり、
わたしの運命観なのです。
きっと魂は、何かの課題を与えられて、
それを乗り越えるためにこの掃き溜めのような
世の中に投げ込まれるのです。
もしかすると、今生でその課題をこなせなければ
同じ課題でもう一度、
別の人生を送ることをさせられるかもしれません。
そんな気が、なんとなくしています。
もし、わたしがいつか正しく困難を
乗り越える方法を見つけたら、
その先に待つのはなんなのでしょう。
わたしは……許される、といえば変ですが、
その状況に投げ入れられることは
もう許してもらうことができるのでしょうか。
それなら。わたしは乗り越えたいと思います。
いま、ようやくそう思えるようになりました。
人生の課題をクリアするために。
その先へ進むために。