直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
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煩悩と仏と仏教のふしぎ

2020年07月26日 | ちょこのひとかけ
最近、わざわざ生きてまでやりたいことがない、と気づきました。
やってもいいしやらなくてもいいのです。

正直言って、もう
生きることもどうでもいいし
死ぬこともどうでもいいし
病気になればいつ死んでもいいのでどうでもいいし
苦しみも死ねばいいのでどうでもいいです。

人間がなにかしようと思ったって無理なのだから
しょうがないし、どうでもいいと思えます。
ほとんどのことが無性にどうでもよくなっていました。

コロナの給付金も、いるかと訊かれていらないと
即座に答えられた程度に、お金にもこだわりがなくなってきました。

これが悟りというものなのでしょうか。

すべてにこだわらず、やれるならやったで
できないならできないでどうでもいいやとする心。
それが悟りなら、仏というのも別にたいしたことのない存在なのでは
ないかと思います。

別に仏教には興味がないので適当ですが、
仏が悩みもなくなにかに煩わされることもない存在なら、
仏のこころづもりは、
「人間はまあ、一応救ってあげてもいいとは思うけど……
別にすくえなくってもどうでもいいかあ」
という感じなのではないでしょうか。

でも、愛染明王かなにかは憤怒で人を救う
とかそんな概念だったような気がします。
愛染明王はなぜ怒っているのか、なぜ人を救うことに
こだわっているのかがよくわかりません。
そこまでして人を救いたいのは煩悩なのでは?

……仏教はよくわかりません。

煩悩をすてて無欲にこだわりなく生きるなら、
お寺も必要ないし、別に食べる必要もないし、
食べられるときに食べて、食べられないときは死んで、
知恵があって人に求められるときには話して、
求められないなら話さずいて、それでいいはずなのに、
なぜ、わざわざ人に関わりにいくのでしょうか。

仏も寺も、なぜ集団を作って集団の人間に話したり、
集団外の人間に話したりするのでしょうか。

仏教は根本的なところに、なにかものすごく大きな矛盾を
持っている気がします。
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