船の上に生涯を浮かべ、馬の口捉えて老いを迎こうる者は、日々、旅にして旅を住処とす。
こんな生き方に憧れている私。
若い頃、メンタルを病んでひどかった時に、主治医から転地療養が有効だと言われその気になった。
まずは留学を考えた。
入学テストをメールで受け取り受験。
なんとか学校に合格した。期間は一年。
コンドミニアムを借りるか?ホテル住まいにするか?なんてどこまで話は進んでいた。
しかし、すでに結婚しており、夫を置いて1人留学するのもどうなんだ?なんて気持が強くなり、やはり気が引けたりして断念。
そこで夫が提案したのが、私が体調崩す春と秋にまとめて休みを取り、大好きな海外旅行に行って家をしがらみをわすれて興じるのはどうだろう🤔🤔🤔
主治医の協力もあり、強迫的に家を空けるのが怖かった私が家を出やすいように、チェックリストを作ってくれた。私がこの目でチェックした後、夫がもう一度チェックするダブルチェックした後、そのチェックリストを私が持って旅行へ行く。
あっ?あれどうしたっけ?
となったらチェックリストを見る。
ダブルチェックされていれば問題なし。
これはなかなか良い方法だったと思う。
夫と2人で行くこともあれば、友人や同僚や先輩や後輩と行くことも。
成田に着く頃、私のテンションmax。
もうワクワクが止まらない感じ。
大体春は行きたい場所へ行き、秋は大好きなバリ島へ🏝️
それぞれの場所で、たくさん経験して、人生観や価値観やいろいろなことに影響受けてきた気がする。
時々は一人旅もする。
その当時は治安も比較的安定している。マレーシアに好んで行っていた。
1番印象に残っているのは、2週間ペナン島で滞在したこと。暮らすように旅をしてペナン島になじみ毎日が生き生きしていた。
私が日本に帰るとき、仲良くなった現地のお店屋さんのおじさんやおばさん、市場のおじさんやおばさん、よく行く屋台のおじさん、おばさん、飲茶屋のおじさん、おばさん。
みんなが気をつけて帰るんだよとハグしてくれた。このままここで暮らそうかと、後ろ髪を引かれるような思いで帰国した記憶がある。
私は薄い薄っぺらい間抜け面。
どこからどう見ても、マレーシア人にも見えないのに、なぜだか色々な人に道を聞かれたり、英語ならともかく、マレー語で質問されることが多々あった。自分でも笑っちゃう位馴染んで毎日を過ごしていたんだろうと思う。
春、旅行にいき心のガソリンを満タンにする⛽️そして秋まで頑張る。
秋、心のガソリンがエンプティーになった頃、また旅行に行き、心のガソリンを満タンにする⛽️
そんなルーティーンで今まで過ごしてきた。
しかし、コロナはパンデミック起こしてから、もろくも崩れた😮💨😮💨😮💨
あれから3年。
どうも最近調子が悪い。
時々呼吸の仕方までわからなくなってしまうような嫌な感じ。
これは完全に私の中が旅切れ‼️
ちょこちょこ国内を一人旅して息継ぎしてきたが、それさえここ1ヵ月ご無沙汰。
ちょっと溺れかけているような感覚がする。
さて、どこかへ出かけよう。
母の新盆が済んだらちょっと出かけてこよう。
そうそう、昨日長岡の花火大会をYouTubeで見た。先日長岡へは行ったばかり。妙に親近感を感じる。来年こそは長岡の花火大会を観たいと調べてはみたが、ホテルは抽選。
有料席も抽選。どうやらハードルは高いらしい😓😓😓
長岡の花火大会は戦争の時の長岡大空襲で亡くなった多くの人々の御霊を慰めるために始まった花火大会だ。まさに鎮魂の花火。
そんな話を聞くと感慨もひとしおになる。
そうそう!
先日主治医にバックパッカーにでもなろうかな?と言ったら、
まるこさん。バックパッカーって基本体力勝負ですから。とバッサリ😓😓😓
とりあえず、体力を維持しないとだな。