8月9日長崎が第2の被爆地に
なった事も、後に知ったそうです。
広島は被爆から2週間
終戦を迎えた翌日の16日
国力を失った敗戦国は
全てを廃墟とかし、
沢山の犠牲者を出した……
罪の無い人達の夢と希望を
失わせる運命の日に…
誰を責める訳でもなく
受ける境遇にただ沈黙する
御先祖様から受け継がれた
自然と生き、感謝して、己の
道を光明一直線に貫く、とでも
言うのでしょううか
凛として、何事も受け止める
心情とその姿は、ただただ
日本人として誇りに思え
先人の方達の多大な苦労の
お陰で今が有り、何不自由のない生活を送らせて頂いてる
あの時代、国を上げ命を奪う
道具を生産し、有ってはならない事を人間が行使する(ー_ー;)
絶対おかしい、奪うことに
誇りなんて無い。………(。>д<)
阪神淡路、東北地方の自然災害も、沢山の犠牲者が有り
その運命においても
取り乱すこと無く、秩序を守り
凛とした姿は、
日本人の真の強さを感じさせます。
これからは、世界の人が笑って暮らせる道具を、自然を大切にしながら、生産開発して欲しい
ガッツだぜジャパン🗾!!!!!👍
さて、
祖父はその後、家族と共に
広島を離れ
150キロを歩いて歩いて
島根県松江市の親戚宅に
お世話になったそうです。
途中の道中、民家や、お寺さん
沢山の方にお世話になり
祖母は感謝の言葉と、手を合わせながら仏壇の祖父に当時の
苦労を労っていた……
子ども心の私は祖母のその姿に
当時の苦難や苦労も知るよしも無く、ただ、後ろ姿を見ていた
のでした。
その島根県松江市に一度夜間バスに揺られ遊びに行った記憶が有ります、
随分長く揺られた
そんな記憶が、昭和43年の頃でしょうか(笑)
その後の祖父家族四人
島根県松江市で半年お世話になり、広島に帰ったそうです
被爆から半年
昭和21年3月頃の事でした。
彼方此方に、バラックとトタンの屋根が有って、地元では
2割位の顔馴染みが帰って来ていたそうです。
倒壊した家の片付けや
生活のための水、食糧の調達にも苦労したとのことで
太田川の土手に群生する
ツクシやヨモギをおかずに
毎日、食糧探しに没頭した様です。
当然、地域の人達の団結力は強く、思いやりや、同情、共感
全ての絆は、日本人の誇りだと
祖母は眼を細めて笑っていました。(*^^*)
今日は、この辺りで
次は
復興して立ち上がる広島の街
お読み頂きありがとうございました。m(_ _)m