終戦を迎え、あれから
ここで2年暮らし
いつくもの季節を見送り
貧困では有るが、家族四人
前を向いて歩いて生きて来た
祖父は、昭和33年の頃
地元に靴屋さんを開業
木造の小さな靴屋さんだが
希望に満ちた、仕事を手に入れたのでした。
元々靴職人でもあった祖父は
8月6日あの日も
避難するさいに、仕事道具の靴形だけは
肌身離さず持って行ったらしいのです。
時は変わって、昭和32年の春に
後の母親となる人が長男の嫁として嫁いで来たのです。(^_^ゞ
翌々年の34年の春に、
長男(私の兄)が生誕し
翌々年の36年に私が生まれ
広島の街も人口増加と復興に向けて賑やかに繁栄して行った様です。
被爆から18年
まだ2歳くらいかな?
太田川の土手下に生家があり
そこで、テレビの空箱の上に
乗せられた私の写真です。……
ここで2年暮らし
区画整理のため、市営住宅に
引っ越しになりました。
18年前にこの空の上で
閃光がはしり、地獄絵図の
惨状が有ったことすら
知るよしもありません。
良き時代に、日本人として
広島に生まれ、育だち
被爆2世として、今
何が出来るのだろうか?
語り繋ぐこと、そして
平和を望み
貧困や差別のない生活
自然を愛し、季節を感じて
人と人の繋がりに感謝する
あの日、あの時
家族がもし、生きていなかったら!
私も存在しなかったと
その現実が、奇跡で有った事を
有り難く感じるのです。
祖父も、祖母も、長男(父親)も
すでに他界し、去年
お墓も整理して、広島の地から
祖父や家族の生きた証は
途絶えたのです。
しかし、今も広島の地に
伺うと、思い出しては
平和公園に行き、川のベンチに
腰掛け、ただ、ただ無言で
空を見上げるのです
そして
何事も無かったかの様に……
広島の街は…今も穏やかです。
もし、神様が居るのなら
1つだけ祈ります
この世の生有る者全てに
出来るだけ、穏やかな
日々をおくらせて下さいませ。
では……この辺で終わります
詳しくは書けませんでしたが
沢山のドラマが有る中の小さな
お話でした。m(_ _)m
お読み頂きありがとうございました。……8.6/あの日、あの時