日本の史実と世界史

日本人に大切な史実の理解。

支那(中國)の国家認識は、「宗族」で理解できる。

2019-01-24 | 日記
北アジア・中央アジアで起こる民族国家は、日本人が考える国家の概念とは異なっていて、国である領地は広い城壁で囲われた内側であり、城郭の中に居る人を領民(国民)として扱い、塀の外の民族を毛外・夷狄と蔑視した。

毛外は、城郭の内から外側を東西南北の4つに分類し

1. 東夷(漁民)
2. 西戎(遊牧民)
3. 南蛮(農民)
4. 北狄(狩猟民)

と呼び、野蛮人として蔑んでいた。


旧漢字の「くに」は「國」と表される、現在使われている常用(通用)字体は「国」と表されるが、旧字は「くにがまえ」の中に「域の旁」が当てられていて、当時の漢人が理解する国家の概念を表している。


つまり古くから、北・中央アジアの「国」とは、城壁の内側の仕切られた領地を指し、一歩城壁を出れば、そこからは毛外の地であった、国家の観念は城壁の内側を指した。


元朝は、モンゴル人が他民族を支配した王朝であるが、彼らは北アジア地域を夏冬と移動しながら遊牧生活をしていた。今でも移動式住居「ゲル」で生活しているが、元朝時代のモンゴル人もゲルで生活をしていた。

元朝は夏の城郭と冬の城郭を南北の離れた場所に仮設都を作り、季節が過ごしやすい土地を行き来しながら遊牧をしていた。この城郭は、広い平原を城壁で囲い、住居を平地に設えた。移動してきた彼らは、専用のゲルを広大な空き地に立て、移る時は畳んで持っていった。

モンゴル人は血縁の社会で、親類縁者が核となり血縁部族が集まって国家的な民族集団となっている。この核に、枝葉となる形で部族長の下に兄弟が連なり、親族其々に家来としての異民族が含まれる社会構成であった。

ユーラシアのアジア人部族も、血縁に重きを置いた社会を築いてきた。血縁の関係を「宗族/そうぞく」とも呼び、日本人的に解釈すれば「親家族と親戚の集団社会」である。

「性悪説」を基本として思考する彼らは、自身が属する「宗族」を唯一の信用できる社会と考え、異なる他宗族には決して心を開かないと言われる。

事の善悪も、宗族の人々に「是」とされる価値が「善」となる。
例えば、他宗族の人から金品や命を奪っても、属した宗族に益があれば善とされる。


「性善説」を基本に思考する日本人には、容易に理解できない価値観である。


宗族同士の争いを「械闘/かいとう」と呼び、些細な切っ掛けから殺し合うような争いに発展する。小さな切っ掛けは、灌漑用の水、土地の境界、女の取り合いなど、凡そ我々には信じがたい原因で刃物沙汰にまで発展する。

争いの規模感は、2人の所属を異にする宗族民が争いだすと、それぞれの宗族の縁者が互いに加勢して加わり、大きな集団の争いとなっていく。


三国志の軍閥の割拠や、1940年代の中國、蒋介石・国民党と毛沢東・共産党の抗争も
擬似宗族同士の「械闘」と見ると理解しやすい。

三国志演義を題材したコミック、横山光輝作「三国志/第3巻」に、政務官グループの
十常侍(じゅうじょうじ)と、肉屋の何進(かしん)とその妹/何后(かごう)のストーリーがある。

十常侍は漢の帝に、美しい何后を妃として宛てがい、肉屋の兄/何進を将軍に取り立てる。一介の肉屋/何進は妹が嫁ぐことで、武勇もなく突如将軍に出世する。
無能な肉屋が突如将軍に出世することに、私は違和感を持った。
しかし、宗族という縁の強さを理解して読み見返すと行動原理に合点がいく。

妹の何后と兄の何進将軍は、軍閥によって命を落とす話であるが、王朝を奪い合う「械闘」を示すストーリーである。

「械闘」に勝った宗族が建国を宣言すれば突如として王朝が現れる。しかし、負けた側の他宗族は、この王朝に権威や正統性を認めない。真の正統性を得るには、如何にして権威を示すかが重要になる。

「天命思想=天(神)に選ばれた君主」は、「宗族」による「械闘」が習俗文化として
組み込まれた社会で正統性を示す装置として働く。

王朝の権威は、周辺国の他民族が尊敬し慕う様を見せることで演出される。
「朝貢」は、時の王朝が暴力で簒奪した地位を維持するために重要になる。

「日の本」の国は、遣隋使の時代に朝貢をやめることで、権威の演出舞台から降りた。周辺の民族や国家を常に毛外と称して蔑む王朝と袂を別ったことは慧眼であった。


支那の大陸に起こる王朝は、様々な民族が打ち立てた國々である。「満洲人の王朝=清」「モンゴル人の王朝=元」など血統は多様であった。一つの血統が王朝として続いてきたことはなく、常に多民族の争いによって権威は移ろってきた。「漢字」は、その様な世界で言語の異なる民族のコミュニケーションツールとして重用されていたのである。

漢字を使う人を大陸の漢人と定義すると起源は漢の時代に遡る。

先に示したが、王朝は城壁の内側に國として存在した。
そして周辺の版図に点在する地域へ役人を送り込み徴税した。

官吏・役人は、異民族を含む様々な人種の村々に赴任するため、言葉が通じないことが多く、漢字によるコミュニケーション能力が不可欠であった。

漢字が読める人は、異民族間の交流・交易(商売)の要になるため重用され、次第に特権的な階層になっていった。

つまり、漢人の起こりは他民族や異部族との通訳筆談の手段にはじまる、漢字を理解する様々な民族を含む行政集団であり、文化習俗が異なる人民の集まる特権的な階層であった。

現在PRC支那は、漢人を民族と称するが、実態は漢字言語を使う多民族の集まりである。一つの部族・民族という表現は誤りである。

東アジアの栄枯盛衰する王朝の行動原理は、「宗族」「械闘」「朝貢」のキーワードで理解できる。

帰化日本人の「石平」氏は著書で「宗族」「械闘」を詳しく解き明かしてくれている。誤魔化された支那の歴史プロパガンダに流されないためには必読の書である。

石平:著/産経新聞出版「中国人の善と悪はなぜ逆さまか/宗族と一族イズム」


現在、日本史の歴史教育は、左傾した反日史観が溢れており、非常に憂慮する事態になっている。
特に、支那、朝鮮半島の史実と言われる記述は、虚言の域まで達している。
しかも、日本にとって重要な歴史を学ぶべき科目が、一部の教科書では、特亜3国の歴史を学ばされているような記述もあり由々しき問題である。

正確な史実に触れることは、日本が正しい未来へ歩んでいくために大切であると思う。




明治・大正は「富国強兵」、昭和・平成は「富国弱兵」。

2019-01-22 | 日記
日本の歴史で「富国強兵」が叫ばれた時代は、江戸末期から明治維新のころとなる。


16世紀にはスペイン・ポルトガル、17世紀にオランダ、18世紀にロシア、19世紀(西暦1801年~1900年)になると、欧州・ユーラシア・米国など多くの国が、植民地を求めてアジアに出没する事になる。


○ スペインは、 カトリック教(イエズス会)の布教を端緒に植民地化を
  狙っていた。 奴隷売買が露呈し「バテレン追放令/1587年」を受けた。


○ ポルトガルも、カトリック布教で先鞭を付けた侵略が目的だった。
16世紀からアジアを含む全世界で奴隷売買を行っていた。


○ オランダは 、貿易通商を目的にしていた。
1600年の漂着船から始まり、1609年から幕府と貿易を行った。


○ ロシアは、1792年頃から数度に渡る通商の要求や、択捉への上陸などを行った。



○ イギリスのアジア植民地侵略は「清とのアヘン戦争 / 1840年」や、日本では
「生麦事件 / 1862年」を原因とした「薩英戦争 / 1863年」での交戦。
また、インド・セイロン・ブルネイ・マレーシア・香港など多くの太平洋
インド洋域の国土を植民地にしていった。カトリック教の布教による思想操作で
日本侵略を目論んでもいた。


○ フランスは「日仏修好通商条約 / 1853年」を江戸幕府と締結した。


○ アメリカは、ペリー来航/1853年~1854年の日米和親条約締結など、日本との
通商を求めた。


植民地獲得の目的は、産品の貿易、人身売買、領土の占領または寄港地の租借など、上記の国々で狙いは分かれるが、宗教の布教と占領地の侵略は密接に関係していた。特に、カトリック教信者は、布教で改宗した信徒を利用して植民地化を目論んだ。


戦国時代は「強兵」の時代であり、戦闘経験が豊富な武士が国中にいた為、ポルトガル・スペインのカトリック教国は幕府との関係が力によって行動が制限された。


しかし、豊臣家の治政から徳川家の治政と時を経ると、国内の戦も治まり武力に対して備えが疎かになる。18世紀から19世紀に渡る200年の平和な社会に慣れて武装が衰えた結果、先に記した外国の干渉で、アジアでの欧州列強による侵略と同様にロシア・イギリスに脅かされ、アメリカとの交渉は銃砲を携えた砲艦外交によって不平等に屈した。


遠藤周作は著書「殉教」で、ポルトガル人カトリック信者を悲劇の主人公として描いている。西洋神の元の平等などと、人身売買のお先棒を担ぐ宗教者が何をか言わんや、外国に売られた日本人を奴隷という家畜扱いして許されるのか、棄教が悲劇などと悲しむ彼らの誤った歴史感と傲慢さに怒りを覚える。


時を越えても尚アングロサクソンは、高潔の仮面の下に邪悪さを忍ばせる。キリスト教の教義に帰依し神に選ばれし白い肌の民は、肌の色が異なる民族を家畜と一緒の動物と見做し良心の呵責など無い。


戦国武将は「国民=領民」を護る気骨があった。

江戸幕府への不満と列強の脅威は、明治維新の原動力となり「富国強兵」を合言葉に、1867年から1907年の40年間で近代化を成し遂げ「日露戦争」での辛勝で列強の一角を占めた。


時は下り、1945年大東亜戦争(太平洋戦争)の終結で焦土となった大戦後の日本は、米国GHQの国際条約に違反する干渉憲法の制定以来、経済復興を第一目標として国土の再建を図った。

経済による「富国」を目指し高度経済成長は成った。しかし再軍備に消極的な「弱兵」の道を今も歩んでいる。


「富国弱兵」の昭和から平成の御代もいよいよ変わろうとしている。


1986年のバブル経済の終焉を経て35年のデフレ不況に喘いでいる。「シャープ」「東芝」「日産」など、軒並み外資に蚕食されて冴えがない。

外国との交渉や競争で常に守勢に立たされている。


明治維新からの40年で列強に加わった国、景気失速から35年間もデフレを脱せずに尚増税を行い、未だ先行きが危ぶまれる国。これが同じ民族の国家なのだろうか。私達は何処に先達の精神を忘れてきてしまったのだろうか。


松下幸之助が残した「ナショナル」は「パナソニック」と社名を変更した。
”国=National” の名を棄て、往時の力強さを感じない国益と無縁の企業に変容した。名は体を表すとはよく言ったもので、日本の大企業の弱さは「公益=国益」を忘れた経営者の不徳なのかも知れない。


韓国は2018年12月20日、友好国であった日本の領海EEZ(排他的経済水域)で、哨戒機を火器管制レーダーで威嚇した。
PRC支那は、尖閣諸島で領海侵犯を繰り返している。
「富国弱兵」を歩んだ結果、特亜3國に主権を脅かされ続けている。


先の大戦で、散華した兵士・家族や郷土を守る為に命の投じた先人は、今の日本をどのように受け止めるのだろう、

立派に自主独立をしていた明治・大正の日本、未だ属国に甘んじる昭和から平成の日本、私は正しく主権を行使できる国へ、早く立ち戻って欲しいと願う。

新疆ウイグルでも民族浄化中、現代の中國。

2019-01-22 | 日記
清朝は満洲人の王朝で、漢人は統治民族の一部であった。満洲人が版図を広げられた理由に、各民族の文化言語に寛容な治政があった。

1206年〜1388年の間、ユーラシア大陸は騎馬遊牧民のモンゴル人が支配していた。放牧しながら乾燥した大地に住むモンゴル人は、農耕を行わずヤギ・羊・馬などの家畜と共に牧草地を転住しながら暮らしていた。そして馬を駆り周辺の他民族(漢人農民)や、果ては欧州ヨーロッパまで収奪を繰り返した。モンゴル人は、元王朝としてユーラシアで最大の版図を支配した。

北アジアのモンゴル高原や、中央アジアのイラン高原から東ヨーロッパまで、広範に民族が生活しており、匈奴・突厥・鮮卑・女真・ウイグル・塞/Sakaiなど多くの遊牧民がいた。

モンゴル人を含む遊牧民には、家長を長とした縁故的部族社会が形成され、婚姻による縁戚関係によって部族の統治が行われていた。

清朝は満洲人(起こりは女真人)の國が伸長した王朝であるが、モンゴル人の妃を娶ることで、モンゴルの部族とも関係があった。清の版図が元の版図と重なるのは遊牧部族の姻戚慣習の影響がある。


現代のPRC支那は、漢人の共産主義王朝と見ることができる。上述した満洲・モンゴルの歴史からも判るように、元や清が広げた最大版図は「女真の王朝=清」「モンゴルの王朝=元」が成した統治地域であり、PRCは清の版図を受け継ぐ正統性を主張するが王族の血統性などない。


現在、ウイグル・チベット・内モンゴルはPRC共産党に不当に占領されている。


漢人国家PRC支那(現中国)は、占領したウイグル・チベット・内モンゴルで民族を弾圧し、人口の1/8にあたる800万人のウイグル人を1300箇所の収容所に投獄し、2006年から40万人のウイグル女性を漢人と強制結婚させ、ウイグル人同士の婚姻を禁じて民族根絶を目論んでいる。現在国連でも議題に昇っている。
(談/モンゴル歴史研究家)



共産党員「陳全国」は、ムスリムを収容所に罪状なしに投獄し拷問に晒している。
投獄した人体を臓器売買して収益を上げている疑いが濃厚である。




日本国内でも'96〜'98年に開催された「人体の不思議展」は、人体標本を見せる展覧会だが、陳列した人体標本の出元がPRCとも怪しまれている。



21世紀の今でも、中国を含む特亜3國は前近代・中世の精神世界に生きている危険な国家だ。

日清戦争・日露戦争の原因は、現代の朝鮮騒動と同根。

2019-01-22 | 日記
李氏朝鮮の王族、大院君(親父)/高宗(息子)/閔妃(妃)の三者が、権力争いをするために、露・清・日を代わる変わる騒動に引き込んだことが端緒となり日清戰争・日露戰争は起こる。

日清戦争の場合は、治世の能力もなく、気位ばかり高く、近代化の意義が理解できない朝鮮の為政者は、満足な近代国軍を持たず、新興宗教・東学党の反乱鎮圧を他国に乞う。

それ故、清と日本は暴徒鎮圧のために派兵をする事になり結果的に両国は衝突する。

当地の半島地域は、市民を(搾取領民)/奴婢(奴隷)と、両班(特権的役人)や王族に分かれた階級社会で、多くの民は染色もできない生成りの麻装束を纏い、馬屋同然の掘建小屋に住み、近代上下水道もなく泥道に糞尿がまみれる不潔で過酷な國であった。

日・清の両国は、共に朝鮮を防衛ラインと考えていた。

そして、事あるごとに半島域の暴動に駆り出されるゆえに、天津条約(1885)を日清の間で締び互いに牽制し合う。
(朝鮮半島に派兵するときは、互いが事前通告を行う条約)

日本の勝利で終わった日清戦争は、下関条約(1895年)で下記の賠償を受ける。

 1. 李氏朝鮮の独立を認め、冊封を廃止する。

 2. 台湾・遼東半島・澎湖諸島の3地域を日本へ割譲。

 3. 賠償金2億テール(約3億円)を日本へ支払う。



しかし、日本は他の周辺国から賠償に対して干渉されることになる。


賠償を受けた権益へ「露・仏・独」3ケ国が返還を主張する。

この「三国干渉」(1895年)により遼東半島は清に戻るはずが、

 ロシアが清に遼東半島と満州への権益を主張し租借占領した。
 フランスは広州湾を、ドイツは膠州湾を租借した。

難癖をつけた暴漢を追い払ったヤクザの如き周辺国によって、清は列強に植民地化されて版図を毟り取られていく。
清は近代化に出遅れた国状を世界の衆目に曝し足元を見透かされ、欧列強国に国防力の低さを付け込まれる。

毛外と蔑む日本に割譲した「遼東半島」を摘まみ取られて、おまけに「広州湾」「膠州湾」も、列強国によって版図を掠め取られた訳だ。

清王朝にとっては、朝鮮に助けを乞われた挙句、日本と戦端を開くことになり、

一敗血にまみれ、露・仏・独にも蚕食された形だ。







李氏朝鮮の閔妃は、清が衰えたと見るとロシアへ擦り寄りだす。大院君は、日本への接近を指向していたらしい。

「閔妃の殺害」により、高宗はロシア公使館に匿われる。(1896年)

(現在、閔妃と流布される写真は、朝鮮の「妓生/キーセン」と言われる。当時の李朝では王や妃に謁見できる者は限られ、
 満足な肖像写真がなかった時代であり、正確な要人把握に問題が指摘される。)

最早、弱みが露呈された清王朝の維新は地に落ち、「義和団事件」「北清事変」(1900年)が起こる。

治安を守る統治力が衰えた清朝の領地で、クリスチャンの親派である「白蓮教徒」などの勢力へ、「義和拳=梅花拳」と称する拳法集団が、「扶清滅洋/フシンメツヨウ」をスローガンに暴徒化して暴力に訴えた。

『清を扶(たす)け、洋(欧州)を滅する』の合言葉に、清の治安当局は拳法集団に好意的で、次第に在外領事館へも向けられる暴虐行為をも取り締らなかった。

業を煮やした周辺8ヶ国(露/英/仏/米/独/墺/伊/日)は、連合軍を第一次・第二次(日本は英国の要請で2次から参加)と編成し、各国の領事館の防護に介入する。

清朝は、列強の介入に対して宣戦布告を発する。

連合軍の義和団掃討作戦は78回を数え、清朝/西太后は戦火を逃れるため北京から西安に遁走。

義和団と清軍は連合国に鎮圧され、清朝全権の李鴻章と北京議定書(1901年)を調印。

この一件で、清朝の威信は益々衰える。

義和団のどさくさに紛れて、ロシアは満洲に侵攻した軍を引き上げずに居座り続けて占領する。

事大主義(強者に阿る)李王朝の内部分裂は、日本とロシアを朝鮮半島の混乱に引き込む。




日露戦争は、日本ロシアが朝鮮半島を境に対峙した戦役と視れる。

朝鮮の為政者は、事大の盟主を支持する中で分裂仲違いし、
其々が親日派・親露派の傾きから双方に助けを乞い常に紛争関係の中心にいる。

日露衝突の結果、「日英同盟」によるイギリスの側面支援を受けて日本が勝利する。

2つの戦役は、朝鮮半島を挟んだ防衛のライン争奪であり、
自国の民族を満足に養えない中世王朝の独立心の欠如が引き起こした惨事と言える。


○ 日露講和条約/ポーツマス条約(1905年9月)

○ 満洲に関する日清条約(1905年12月)


  日本はロシアからの賠償として、旅順港・大連を租借。
  満鉄の権益を移譲。南樺太の割譲。
  満州国と朝鮮半島の指導監督権を受ける。
  賠償金はなし。



日露戦争はロシア側から見れば、閔妃と大院君の政争に誘い込まれた挙句に、

日本と戦争することになったと考えられる。



朝鮮の権益は、 



1.「第一次日韓協約」(1904年)
  財務顧問と外交顧問を受け入れる条約。

上協約を批准した後、不満を持つ高宗は、ロシアへ密使を送り政治工作を試みる。


2.「第二次日韓協約」(1905年)
  外交権の制限、総監の設置、総監が皇帝を内謁すること締結。  

二次協約の締結後も、高宗は周辺国に条約の無効を主張したが、列強諸国から相手にされなくなる。


事実上、1905年以降の朝鮮半島は日本の施政下に置かれる。

これを、欧州列強が行った植民地と伝える言説が跋扈しているが、

欧州基準の植民地の定義は、宗教や武力を複合的に使って他国を占領し、市民を奴隷として使役して、産品や労働力を搾取することである。

しかし、日本は朝鮮半島の自立を目標に近代化に取り組んだ。

発電所、道路、上下水道、学校、病院などあらゆる近代化を行い、李氏朝鮮の治世では、掘建小屋が
並び道に糞尿が塗れる村々を近代的な都市に変えていった。


ハングル語を普及させたのも当時の日本の教育方針であり、半島の民族文化を尊重した教育政策であった。

創氏改名は、日本が押し付けたのではなく、朝鮮人が進んで通名を望んだことに端を発する。
事大主義の彼らは、日本名を名乗り周辺の他民族に嵩にかかって威張り散らしだす始末であった。

1914年の第一次大戦から大東亜戦争まで、版図が広がった日本は列強の一国に位置付けられた。









大東亜戦争後の敗戦下の義務教育では、米GHQの国際条約に違反した占領政策の名残で、
今でも近現代の日本史を満足に教えない。

しかし、上述した歴史の事実を理解すれば、今の韓国と北朝鮮が中米日露に様々に擦り寄る様は、
往時の写し鏡であることが良く解る。

高宗や閔妃の振る舞いを知れば、現代の金正恩や文在虎の行動原理は見事に重なる。

常に混乱の種を周辺国に押し付け、為政者の私欲私闘に争い暮れる。関わることが百害にしかならない國である。


参考:日清・日露戦争 原田敬一/著 岩波新書
   日本国紀 百田尚樹/著 幻冬舎