あめつちの詩

「あめつち」に響く歌声の持ち主「にいや」こと「新屋まり」が奮闘の日々を綴る。

2023-04-10 | 半径30メートルの事件

母と一泊の旅をしたことは

以前書いた。

母に行きたいかと聞いてみるべき

だった。

以前のように出かけること自体を

喜ばなくなった。

昨年の夏までと冬以降では

出かける意欲が明らかに減退した。

食品の買い出しは母のストレス解消

の一つだった。

用もなく自宅に籠ることが

母にはストレスだった。

以前は週に1,2度買い物に

出かけたものだ。

それが冬くらいからは誘っても

「行ってこい」と言う。

こたつから離れようとしない。

楽しみにしていたはずの

デイサービスもおっくうらしい。

買い物は月2度くらいになった。

以前から同じものばかり買う人。

料理に関心がないので

食品買い出しも義務のよう。

楽しそうに見えない。

衣類もしかり。

着替えも面倒がる。

イノシシが玉ねぎを狙っている。

土の中に「玉」がつくと

タイミングよく堀りに来る。

2年続けて掘られた。

柵にネットを張るのが良いと

聞いたので作業に行く。

母はのろのろと畑に手伝いに来たが

杖をついている。

「何かやらねば」と母はいつも

思っているのは分かる。

が、私はその姿を見ると

どうしようもなくイライラする。

働かない人間や働けない人間は

役に立たないと母は思っている。

それってどうなの?と私は思うが、

母は自分が「そうなった」ことで

人生そのものに何か焦りを

感じているのだろうし、

悲しくなっているだろう。

働くことが人生の意義で、

常に何らかの義務を果たし、

それを果たし終えたら人生は

終わりと思っているはずだ。

それをしたら、あるいはそれを

しなかったら「迷惑をする」が

母の口癖だ。

私が生きていることがもはや、

他人への迷惑行為と聞こえる。

私のこだわりのひとつは

「言葉」にある。

聞き流せない。

些細な言葉が妙にひっかかるのだ。

「迷惑をする」が妙に私を苛立たせる。

万事が「誰かの為に」と洗脳された

ようで、

それが私を苛立たせている

と気づいたのはだいぶ生きてからだ。

母は自分自身をないがしろに

生きてきたと思う。

けれど私にそれを強要しないで欲しい。

自分を尊重できない自分で母は

満足だろうか?

そんなことは母にはけして

伝わらない。

畠の脇の倉庫に置いた

スコップを見た母が、

弟が使うのだから下の倉庫に

置いておけという。

私は畠の作業の度に

道具を探し回るのが嫌だ。

それでも母に言われて

私はイライラしながらも

スコップを倉庫に置きに行く。

そこには何本もたてかけてあった。

母にそれを訴えるがどこ吹く風だ。

私の癇癪はこんな時におこる。

母から愛情を分けてもらいたいと

子供は思う。

私もそう思ったはずだ。

それを得られないのだと推測して、

憎しみにも近い気持ちがわく

ことがある。

ぶつける先がない。

物を破壊したと告白する10代の子に

「分かる。実は私もね・・」と

寄り添えるのは数少ないメリットだ。

この頃暖かくなった。

軒先で外に腰かけて何をするでもなく

日がな過ごしている老人がいる。

いつの間にか見かけなくなる。

病院か施設に入られたのか

亡くなったんだろうと思う。

母も所在なく外に座っていることが

増えた。

夕方出かけるとき母は縁側ではなく

倉庫前に座っていた。

「ここが温い」という。

そこだけ夕日が届くひだまりに

なっていた。

私にこまごま指示を出し

私の人生に関わる万事を

コントロールしようとし、

私はできうる限りそれに抵抗し、

何度も罵倒してきた母は

この日小さかった。

発車させながら「後、何年かな」と

思った。

その時が来たらやっと私は

解放されるのだろうか。

それとも・・悲しくて、悲しくて

立っていられなくなるの

かもしれない。

すっきりした感覚では「その日」を

想像できない。

母について我ながら「今更」な

感情がひしめく。

母孝行の娘と思われているようだ。

そのままそう思ってもらえば

良さそうなものだ。

そして、どうしてこうも悲しいのかと

思うほど泣けてくる。

自分自身が謎過ぎる。

 

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