負け組からの大逆転
原敬暗殺事件(はらたかし)は、1921年(大正10年)11月4日、当時の首相 原敬が、鉄道省 山手線 大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件です。
明治政府の役人として、毎日新聞社の社長として、そして藩閥内閣から日本初の政党内閣を作り、平民からは初の総理大臣として活躍したすごい人です。
盛岡藩士の父・原直治(はらなおはる)の次男です。
原家は盛岡藩の家老を務めるエリート一家でしたが、早くに父を亡くし、苦しい生活を送ることになります。
1868年に起こった戊辰戦争(薩長率いる新政府軍VS徳川慶喜率いる旧幕府軍)で、盛岡藩は旧幕府軍として戦い、敗れます。
元家老の家に生まれたという高いプライドを持ちながらも、天皇への反逆者というレッテルを貼られ、辛い幼少時代を過ごしました。
藩校に入り、がんばって勉強に取り組みますが、学費を払い続けることが出来ず、退学します。
15歳で上京し、学費のかからないカトリック神学校で、フランス語をはじめとする様々な教養を身に付けました。
またこの頃、実家の原家から分家し、平民となっています。
平民とは、当時の身分階級の一つです。
大名や公家は華族、上級武士は士族、下級武士は卒族となり、それ以外の一般市民は皆平民となりました。
そして学んだフランス語を生かすために、東大法学部の前身の一つである「司法省法学校」の2期生として、優秀な成績で入学します。
明治政府がエリート司法官(裁判官)を育成するため作ったこの学校は、学費はゼロで住む寮と食事が付いて、さらにお小遣いまで支給されるVIP待遇だったそうです。
しかし、寮の食事トラブルに巻き込まれ退学処分となります。
戊辰戦争でライバルだった薩摩出身の校長により退学させられたのです。
1879年、23歳ころは、郵便報知新聞社(現・報知新聞)や大東日報の記者として活躍しました。
その活躍は、明治政府の役人の目に止まり、外務省で働くことになります。
外務省の役人として、清(中国)やフランスなどに駐在し、そこでも大活躍するのでした。
当時の外務大臣は、カミソリ大臣と言われた陸奥宗光(むつむねみつ)でした。
薩長出身メンバーが中心となっていた藩閥政治に嫌気を感じていた陸奥のフォローによって、敬は39歳のときに外務次官となりました。
が、陸奥が病気で政界を去ると、大隈重信(おおくましげのぶ)が外務大臣に就きました。
大隈に強い苦手意識をもつ敬は、陸奥の後を追うように政界を去ったのです。
1897年、外務省を辞めた敬は41歳くらいで、大阪毎日新聞社へ編集責任者として入社し、翌年には社長になるほどの活躍。
敬の記事は、新聞の読者を3倍に増やすほどの人気だったようです。
そしてその頃、伊藤博文(いとうひろぶみ)が「立憲政友会」を立ち上げ、日本でも議会政治がスタートしていました。
議会政治は、これまでの薩長出身メンバーが行う藩閥政治とは違い、より民主的で近代的な政治が行われていて、それはまさに敬の憧れでした。
44歳、伊藤博文のオファーを受けた敬は、新聞社を辞めて、立憲政友会の中心メンバーとして郵政大臣を務め、本格的に政治家として人生を歩みはじめました。
藩閥政治を誰よりも拒否し続け、民主的で議会を中心とした政党政治を目指し活躍します。
46歳、1902年に衆議院議員に当選すると、その後は西園寺(さいおんじ)内閣の内務大臣に就任します。
積極的に地方を回り、立憲政友会のPRにも力を注ぎました。
58歳、1914年、西園寺の後任として立憲政友会の総裁になります。
ちょうどそのころ、「第1次世界大戦」が勃発し、日本の都市部は近代工業化の加速によってバブル景気を迎えていました。
しかし農村部では農業人口の減少により米の流通量が減ってしまっていたのです。
日本各地で米の価格が大幅に上昇したことで米騒動が起き、当時の寺内内閣を辞職に追い込んだのです。
1918年、62歳の敬は、政友会総裁として内閣総理大臣に就任します。
公家でも薩長出身でもなく、平民初の首相として政界トップの座に就いたのですから、当然多くの国民の期待が寄せられました。
また内閣を構成しサポートするメンバーも政友会を中心に選んだことから、本格的な政党内閣をスタートさせたのです。
原敬は、鉄道や道路を中心としたインフラ整備や高等教育機関の整備、そして外交にも力を入れ、経済力の高い日本国家を目指しました。
しかし、総理就任から3年の1921年11月、敬に不満を持つ青年に刺され、65歳で亡くなりました。
暗殺の理由は、敬の政治に対する不満からだといいます。
止まらない物価の上昇に強い不満の声が国民からも挙がっていましたが、原敬は経済政策を変えるタイミングを国益を考えて見定めようとしていたと言われています。
しかし、すごい人がいるんですね、ものすごく優秀な秀でた人が
この暗殺がなければ、いまの日本は変わっていたかもしれません。
負け組から勝ち組へ、そして暗殺
壮絶な人生
暗殺された場所の東京駅丸の内南口には、敬を偲び事件を繰り返す事が無いように、今でもプレートが残っているそうです。
今度探してみようと思います。
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原敬暗殺事件(はらたかし)は、1921年(大正10年)11月4日、当時の首相 原敬が、鉄道省 山手線 大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件です。
明治政府の役人として、毎日新聞社の社長として、そして藩閥内閣から日本初の政党内閣を作り、平民からは初の総理大臣として活躍したすごい人です。
盛岡藩士の父・原直治(はらなおはる)の次男です。
原家は盛岡藩の家老を務めるエリート一家でしたが、早くに父を亡くし、苦しい生活を送ることになります。
1868年に起こった戊辰戦争(薩長率いる新政府軍VS徳川慶喜率いる旧幕府軍)で、盛岡藩は旧幕府軍として戦い、敗れます。
元家老の家に生まれたという高いプライドを持ちながらも、天皇への反逆者というレッテルを貼られ、辛い幼少時代を過ごしました。
藩校に入り、がんばって勉強に取り組みますが、学費を払い続けることが出来ず、退学します。
15歳で上京し、学費のかからないカトリック神学校で、フランス語をはじめとする様々な教養を身に付けました。
またこの頃、実家の原家から分家し、平民となっています。
平民とは、当時の身分階級の一つです。
大名や公家は華族、上級武士は士族、下級武士は卒族となり、それ以外の一般市民は皆平民となりました。
そして学んだフランス語を生かすために、東大法学部の前身の一つである「司法省法学校」の2期生として、優秀な成績で入学します。
明治政府がエリート司法官(裁判官)を育成するため作ったこの学校は、学費はゼロで住む寮と食事が付いて、さらにお小遣いまで支給されるVIP待遇だったそうです。
しかし、寮の食事トラブルに巻き込まれ退学処分となります。
戊辰戦争でライバルだった薩摩出身の校長により退学させられたのです。
1879年、23歳ころは、郵便報知新聞社(現・報知新聞)や大東日報の記者として活躍しました。
その活躍は、明治政府の役人の目に止まり、外務省で働くことになります。
外務省の役人として、清(中国)やフランスなどに駐在し、そこでも大活躍するのでした。
当時の外務大臣は、カミソリ大臣と言われた陸奥宗光(むつむねみつ)でした。
薩長出身メンバーが中心となっていた藩閥政治に嫌気を感じていた陸奥のフォローによって、敬は39歳のときに外務次官となりました。
が、陸奥が病気で政界を去ると、大隈重信(おおくましげのぶ)が外務大臣に就きました。
大隈に強い苦手意識をもつ敬は、陸奥の後を追うように政界を去ったのです。
1897年、外務省を辞めた敬は41歳くらいで、大阪毎日新聞社へ編集責任者として入社し、翌年には社長になるほどの活躍。
敬の記事は、新聞の読者を3倍に増やすほどの人気だったようです。
そしてその頃、伊藤博文(いとうひろぶみ)が「立憲政友会」を立ち上げ、日本でも議会政治がスタートしていました。
議会政治は、これまでの薩長出身メンバーが行う藩閥政治とは違い、より民主的で近代的な政治が行われていて、それはまさに敬の憧れでした。
44歳、伊藤博文のオファーを受けた敬は、新聞社を辞めて、立憲政友会の中心メンバーとして郵政大臣を務め、本格的に政治家として人生を歩みはじめました。
藩閥政治を誰よりも拒否し続け、民主的で議会を中心とした政党政治を目指し活躍します。
46歳、1902年に衆議院議員に当選すると、その後は西園寺(さいおんじ)内閣の内務大臣に就任します。
積極的に地方を回り、立憲政友会のPRにも力を注ぎました。
58歳、1914年、西園寺の後任として立憲政友会の総裁になります。
ちょうどそのころ、「第1次世界大戦」が勃発し、日本の都市部は近代工業化の加速によってバブル景気を迎えていました。
しかし農村部では農業人口の減少により米の流通量が減ってしまっていたのです。
日本各地で米の価格が大幅に上昇したことで米騒動が起き、当時の寺内内閣を辞職に追い込んだのです。
1918年、62歳の敬は、政友会総裁として内閣総理大臣に就任します。
公家でも薩長出身でもなく、平民初の首相として政界トップの座に就いたのですから、当然多くの国民の期待が寄せられました。
また内閣を構成しサポートするメンバーも政友会を中心に選んだことから、本格的な政党内閣をスタートさせたのです。
原敬は、鉄道や道路を中心としたインフラ整備や高等教育機関の整備、そして外交にも力を入れ、経済力の高い日本国家を目指しました。
しかし、総理就任から3年の1921年11月、敬に不満を持つ青年に刺され、65歳で亡くなりました。
暗殺の理由は、敬の政治に対する不満からだといいます。
止まらない物価の上昇に強い不満の声が国民からも挙がっていましたが、原敬は経済政策を変えるタイミングを国益を考えて見定めようとしていたと言われています。
しかし、すごい人がいるんですね、ものすごく優秀な秀でた人が
この暗殺がなければ、いまの日本は変わっていたかもしれません。
負け組から勝ち組へ、そして暗殺
壮絶な人生
暗殺された場所の東京駅丸の内南口には、敬を偲び事件を繰り返す事が無いように、今でもプレートが残っているそうです。
今度探してみようと思います。
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