ハプスブルグ家
波乱万丈の60年を生きたエリザベート
1837年12月24日 - 1898年9月10日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。
「シシィ」(Sissi, Sissy, Sisi)の愛称で知られています。
バイエルン王国ヴィッテルスバッハ家の次女として生まれたエリザベート
皇帝のフランツ・ヨーゼフは母と叔母が考えていたエリザベートの姉へレナとのお見合いをするが
十九歳の気立てのいいヘレネではなく、十六歳の天真爛漫なエリザベートにひと目惚れし
求婚してしまう。
英気に溢れた美青年、フランツ・ヨーゼフに見初められたことはこの上ない名誉だが、
迫りくる皇妃としての人生は、まだあどけなさの残るエリザベートにとっては不安と恐怖でしかなかった。
「皇帝のことは慕っています。でも、あの方がわたしのことを想ってくれる、というのがわからないの。こんなに若くて至らない娘なのに。
皇帝が幸せになるよう、何でもするつもりよ。
でも、ほんとにうまくいくのかしら。
ああ、あの方が皇帝でさえなければ…」
エリザベートは求婚を受け入れた夜、一晩中泣き明かしたという。
エリザベートの父親、マクシミリアン公爵はユニークな人物で
時に農民の格好をしては、バイオリン片手に酒場や路頭をうろつき、
幼少時代のエリザベートは、通行人が投げてくれる銅貨を集めたことさえある。
(もちろん住民は、王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎していた。
エリーザベトは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していたといわれています)
彼は湖のほとりの緑豊かな地に城を構え、子供たちに狩りや乗馬、水泳やボートこぎなどを教え、自然の中で伸び伸びと育てた。
自家用のサーカス小屋を建てるほどのサーカス好きで、
エリザベートは、この父親に鍛えられ、曲馬なみの馬術をこなすほどの名騎手に成長していました。
父親譲りの自由奔放で活発な気性のエリザベートが、長い伝統を背負った宮廷の堅苦しい儀礼や作法を楽しめるはずもなかった。
フランツ・ヨーゼフは自分好みの若く美しい妻を迎え有頂天になり、
オーストリア中が皇妃誕生を祝福し、
他国の王族も彼女見たさで公式行事に参列したがるなど、
エリザベートはどこに行っても注目の的でした。
「エリザベート万歳!」の声に、たとえ憔悴しきっていても笑顔で応えなければならないこと
皇妃という身分をわきまえて親類と会っても抱擁してはいけないこと
政務に追われる皇帝と共に過ごす時間が十分得られないこと
こういった皇妃ゆえの制約や重圧は日に日にエリザベートから笑顔を奪っていってしまうのです。
それにくわえ
ハプスブルク家の女傑として、若き皇帝の背後で実権を握っていた姑の母后ゾフィー
そんな「田舎臭い」エリザベートに一流の宮廷作法を仕込もうと目を光らせます。
素直で可憐なヘレネであれば、姑の手引きにさぞかし感謝したことでしょうが
エリザベートにとってはがんじがらめの鎖に締め付けられるような状況に
そうとう姑を恐れて
三人の子供も生まれてすぐに取り上げられ
エリザベートは不眠症、食欲不振、対人恐怖症、肺炎などを患うようになり
子供を奪われたように感じたエリザベートは、
虚脱感を埋めるように引き続きさすらいの旅を続ける。
そして宮廷生活への興味をすっかり失い、皇妃、母、妻としての責務を放棄するようになっていったのです。
それでも皇帝フランツ・ヨーゼフは旅先にせっせと手紙を送り、
花束を贈ったり、愛妻が不自由のないように必要な物や資金を送ったりして尽くしました。
皇帝のほうは民衆から同情を集めて、さらに人気を高めていったようです。
エリザベートは若さと美貌を永遠に保持するため、
二十代からベジタリアンとなり日に三回体重計に乗り、痩身に専心。
171センチという長身だったが、体重は45キロから47キロを保ち
ウェストは51センチに
断食を始めとする過度なダイエットのほか
北欧で生まれたばかりの体操を即座に取り込むなどして体形維持に努めた事は有名です。
美への執着、止ることのない旅癖、エキセントリックな志向、これらの共通項は莫大な費用がかかりますが
自分の元へ嫁いできたためにかつての天真爛漫さを失ってしまったエリザベートに対し、責任を感じていたのか
一方のフランツ・ヨーゼフは倹約家で知られていますが
自分のことは後回しにしてでもエリザベートに不自由させたくないという思いがあったのかもしれません。
1898年、初秋のスイス。
エリザベートが蒸気船に乗るために湖畔を歩いていると、
駆け寄ってきた若者と激しくぶつかり、仰向けに倒れた。
あまりに突発的な出来事に驚き、呆然としているエリザベート。
女官は宿屋に一旦戻って休むように勧めるが、エリザベートは大丈夫といって起き上がり、そのまま船着場に向かう。
しかし、タラップを上り、船上に至ったところで、エリザベートは目眩に襲われ、卒倒してしまいます。
女官は動転しつつも、乗船者の中に看護婦を見つけ、応急処置をさせた。
すると、一瞬意識を取り戻したエリザベートは
「いったい何が起こったのかしら」
とかろうじて答えたという。
女官はその後、エリザベートの胸をはだけ、心臓付近に小さな傷があることを発見。
船はすでに出港していたが
「このお方はオーストリア皇妃エリザベートさまです!
ただちに引き返してください!
神父さまもお医者さまも立ち会わずに落命させるわけにはいきません」
と船長に必死で懇願した。
船はジュネーブに戻り、
医者がかけつけたが時すでに遅し、エリザベートは二度と目を覚ますことはなかった。
こうして1898年9月10日午後二時二十分、エリザベートは永遠に帰らぬ人となった。
六十歳だった。
エリザベートを殺害したのは
イタリア人の無政府主義者でスイスに移住していたルイジ・ルケーニという人物。
凶器はヤスリで、先が三角形になるよう入念に研いであった。
ヤスリなどで人が殺せるのかと思うかもしれないが、ルケーニの一突きはエリザベートの胸部皮下八・五センチにも及び
肋骨を砕いて肺から心臓を貫通、
ただし、経路は狭かったため、血液は一気に噴出せず、心機能が停止するまでにはしばらくかかった。
エリザベートがルケーニに刺された後、卒倒するまでに数十メートルも歩くことができたのもそのためだ。
当初、ルケーニの暗殺対象はフランス王位継承候補者のオルレアン公アンリだったが、
オルレアン公は予定を変更してジュネーブへの訪問を中止。
そこへ偶然、新聞記事でエリザベートがジュネーブに滞在していることを知り、
これは格好の餌食だとルケーニはほくそ笑んだ。
母親に捨てられ孤児院で育ち
貧しく不幸な境遇にあった彼は、十代の頃から共和主義者を名乗り、王侯貴族を憎んだ。
「王族を殺したかった、王族なら誰でも良かった」
と供述している。
つまり、エリザベートは無差別殺人という無駄な死を遂げてしまったのです。
晩年は、死への願望をつのらせ
亡き父母や妹ゾフィー、ルートヴィヒ二世や皇太子ルドルフのもとへと早く旅立ちたいと望んでいたエリザベート。
あっという間に苦しまずに逝くことができたことが残された者にとっての救いだったのかもしれません。
映画やミュージカルで今なお絶大な人気を誇るエリザベート
姉の代わりに見初められたことが「悲運」のはじまりだったのでしょうか
お話が長くなりました。
お付き合いありがとうございます。
では
これから
シェーンブルン宮殿へ行ってきます。
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波乱万丈の60年を生きたエリザベート
1837年12月24日 - 1898年9月10日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。
「シシィ」(Sissi, Sissy, Sisi)の愛称で知られています。
バイエルン王国ヴィッテルスバッハ家の次女として生まれたエリザベート
皇帝のフランツ・ヨーゼフは母と叔母が考えていたエリザベートの姉へレナとのお見合いをするが
十九歳の気立てのいいヘレネではなく、十六歳の天真爛漫なエリザベートにひと目惚れし
求婚してしまう。
英気に溢れた美青年、フランツ・ヨーゼフに見初められたことはこの上ない名誉だが、
迫りくる皇妃としての人生は、まだあどけなさの残るエリザベートにとっては不安と恐怖でしかなかった。
「皇帝のことは慕っています。でも、あの方がわたしのことを想ってくれる、というのがわからないの。こんなに若くて至らない娘なのに。
皇帝が幸せになるよう、何でもするつもりよ。
でも、ほんとにうまくいくのかしら。
ああ、あの方が皇帝でさえなければ…」
エリザベートは求婚を受け入れた夜、一晩中泣き明かしたという。
エリザベートの父親、マクシミリアン公爵はユニークな人物で
時に農民の格好をしては、バイオリン片手に酒場や路頭をうろつき、
幼少時代のエリザベートは、通行人が投げてくれる銅貨を集めたことさえある。
(もちろん住民は、王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎していた。
エリーザベトは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していたといわれています)
彼は湖のほとりの緑豊かな地に城を構え、子供たちに狩りや乗馬、水泳やボートこぎなどを教え、自然の中で伸び伸びと育てた。
自家用のサーカス小屋を建てるほどのサーカス好きで、
エリザベートは、この父親に鍛えられ、曲馬なみの馬術をこなすほどの名騎手に成長していました。
父親譲りの自由奔放で活発な気性のエリザベートが、長い伝統を背負った宮廷の堅苦しい儀礼や作法を楽しめるはずもなかった。
フランツ・ヨーゼフは自分好みの若く美しい妻を迎え有頂天になり、
オーストリア中が皇妃誕生を祝福し、
他国の王族も彼女見たさで公式行事に参列したがるなど、
エリザベートはどこに行っても注目の的でした。
「エリザベート万歳!」の声に、たとえ憔悴しきっていても笑顔で応えなければならないこと
皇妃という身分をわきまえて親類と会っても抱擁してはいけないこと
政務に追われる皇帝と共に過ごす時間が十分得られないこと
こういった皇妃ゆえの制約や重圧は日に日にエリザベートから笑顔を奪っていってしまうのです。
それにくわえ
ハプスブルク家の女傑として、若き皇帝の背後で実権を握っていた姑の母后ゾフィー
そんな「田舎臭い」エリザベートに一流の宮廷作法を仕込もうと目を光らせます。
素直で可憐なヘレネであれば、姑の手引きにさぞかし感謝したことでしょうが
エリザベートにとってはがんじがらめの鎖に締め付けられるような状況に
そうとう姑を恐れて
三人の子供も生まれてすぐに取り上げられ
エリザベートは不眠症、食欲不振、対人恐怖症、肺炎などを患うようになり
子供を奪われたように感じたエリザベートは、
虚脱感を埋めるように引き続きさすらいの旅を続ける。
そして宮廷生活への興味をすっかり失い、皇妃、母、妻としての責務を放棄するようになっていったのです。
それでも皇帝フランツ・ヨーゼフは旅先にせっせと手紙を送り、
花束を贈ったり、愛妻が不自由のないように必要な物や資金を送ったりして尽くしました。
皇帝のほうは民衆から同情を集めて、さらに人気を高めていったようです。
エリザベートは若さと美貌を永遠に保持するため、
二十代からベジタリアンとなり日に三回体重計に乗り、痩身に専心。
171センチという長身だったが、体重は45キロから47キロを保ち
ウェストは51センチに
断食を始めとする過度なダイエットのほか
北欧で生まれたばかりの体操を即座に取り込むなどして体形維持に努めた事は有名です。
美への執着、止ることのない旅癖、エキセントリックな志向、これらの共通項は莫大な費用がかかりますが
自分の元へ嫁いできたためにかつての天真爛漫さを失ってしまったエリザベートに対し、責任を感じていたのか
一方のフランツ・ヨーゼフは倹約家で知られていますが
自分のことは後回しにしてでもエリザベートに不自由させたくないという思いがあったのかもしれません。
1898年、初秋のスイス。
エリザベートが蒸気船に乗るために湖畔を歩いていると、
駆け寄ってきた若者と激しくぶつかり、仰向けに倒れた。
あまりに突発的な出来事に驚き、呆然としているエリザベート。
女官は宿屋に一旦戻って休むように勧めるが、エリザベートは大丈夫といって起き上がり、そのまま船着場に向かう。
しかし、タラップを上り、船上に至ったところで、エリザベートは目眩に襲われ、卒倒してしまいます。
女官は動転しつつも、乗船者の中に看護婦を見つけ、応急処置をさせた。
すると、一瞬意識を取り戻したエリザベートは
「いったい何が起こったのかしら」
とかろうじて答えたという。
女官はその後、エリザベートの胸をはだけ、心臓付近に小さな傷があることを発見。
船はすでに出港していたが
「このお方はオーストリア皇妃エリザベートさまです!
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神父さまもお医者さまも立ち会わずに落命させるわけにはいきません」
と船長に必死で懇願した。
船はジュネーブに戻り、
医者がかけつけたが時すでに遅し、エリザベートは二度と目を覚ますことはなかった。
こうして1898年9月10日午後二時二十分、エリザベートは永遠に帰らぬ人となった。
六十歳だった。
エリザベートを殺害したのは
イタリア人の無政府主義者でスイスに移住していたルイジ・ルケーニという人物。
凶器はヤスリで、先が三角形になるよう入念に研いであった。
ヤスリなどで人が殺せるのかと思うかもしれないが、ルケーニの一突きはエリザベートの胸部皮下八・五センチにも及び
肋骨を砕いて肺から心臓を貫通、
ただし、経路は狭かったため、血液は一気に噴出せず、心機能が停止するまでにはしばらくかかった。
エリザベートがルケーニに刺された後、卒倒するまでに数十メートルも歩くことができたのもそのためだ。
当初、ルケーニの暗殺対象はフランス王位継承候補者のオルレアン公アンリだったが、
オルレアン公は予定を変更してジュネーブへの訪問を中止。
そこへ偶然、新聞記事でエリザベートがジュネーブに滞在していることを知り、
これは格好の餌食だとルケーニはほくそ笑んだ。
母親に捨てられ孤児院で育ち
貧しく不幸な境遇にあった彼は、十代の頃から共和主義者を名乗り、王侯貴族を憎んだ。
「王族を殺したかった、王族なら誰でも良かった」
と供述している。
つまり、エリザベートは無差別殺人という無駄な死を遂げてしまったのです。
晩年は、死への願望をつのらせ
亡き父母や妹ゾフィー、ルートヴィヒ二世や皇太子ルドルフのもとへと早く旅立ちたいと望んでいたエリザベート。
あっという間に苦しまずに逝くことができたことが残された者にとっての救いだったのかもしれません。
映画やミュージカルで今なお絶大な人気を誇るエリザベート
姉の代わりに見初められたことが「悲運」のはじまりだったのでしょうか
お話が長くなりました。
お付き合いありがとうございます。
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シェーンブルン宮殿へ行ってきます。
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