先日虎ノ門ニュースの中で教科書がどんどん反日になっていることが話題になりました。MCの居島一平さんが「なぜ教科書に載せるべき大伴部博麻(おおともべ の はかま、生没年不詳)のことを教科書に載せないんですかね」と発言、わたしも知らないことなので調べてみました。
白村江(はくそんこう)での敗戦
あまりにも年代が古すぎて、この戦いを知っても意味がないのではないか?と思いがちですが、この時から、既に外国との貿易・外交・防衛は始まっ て今現代に通じています。
白村江の戦いは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間で行われた武力衝突。
倭国は、外交関係が良好であった百済の救援要請に応え、朝鮮半島に出兵するが、唐・新羅連合軍の圧倒的な軍事力の前に、無残な敗北を喫してしまう。
なぜ、倭国は唐と戦ったのか?
百済の遺臣から援軍を求められた中大兄皇子は、このままでは唐の圧力が倭国国内にまで及ぶ事を危惧し、百済復興への助力を決意する。
663年に、朝鮮半島の西部へ向けて、当時の日本としては歴史上類を見ないほどの大軍を派遣した。
この敗戦は、朝廷に衝撃を与えており、後の国力を最大限に発揮できる律令国家体制への歩みを決定づけた。
天智2年8月(663)「白村江の戦い」では、その気象、地形に不慣れだった日本軍は、唐の「水軍」の前に一昼夜にして軍船の大半炎上壊滅する。
白村江は日本軍の血で赤く染まったという。
翌年、日本では唐・新羅の侵攻を警戒し、天智3年(664年)に九州北部に水城を築いている。(筑紫、築大堤貯水名曰水城)
捕虜として連行される大伴部博麻
博麻は捕虜として唐軍に取られられ後、「長安(西安)」に連行される。
唐が日本を攻める計画を知る
長安に連行された博麻らは、捕虜とはいえ拘束されること無く自由に長安を往来できた。
その為、彼らは長安においてしっかりと情報収集を行っていたようだ。
そして博麻らは「唐が倭国(日本)を攻める計画」を持っている事を知る。
自分を犠牲にし、日本を守った大伴部博麻
この事実ををヤマト(日本)に知らせなければと、博麻は自分を「奴隷」に売り、他の四人を日本に帰す事を「土師野富咩」らに相談する。
そして緊急事態を知らせることを決意する。
己を奴隷に売り「大伴部博麻」の作った資金を基に四人は衣服、食料、旅費を準備、ヤマトへ向かった。
天智10年(671)頃、四人は対馬に着いた。
この事は直ちに「筑紫國大宰府政庁」に伝えられる。
大伴部博麻が日本へ帰って来る
奴隷として長安に留まった博麻はそれからおよそ20数年、知り合いの「唐人(外交官、新羅使とも)」から倭国に行くが一緒に帰るかと声をかけられる。
そして、持統4年(690)十月乙丑(二十二日)に大伴部博麻は30年という時を経て日本に帰ってくる。
持統天皇より勅語を賜る(原則として天皇が口頭により発する公務上の意思表示)
持統天皇はその愛国心を讃えて博麻を務大肆従七位下に任じ、絹を四匹(一匹=四丈)、綿を十屯、布を三十端、稲を千束、水田を四町与えた。
また、子孫三代にわたっての税の免除を約束し、勅語を送った(「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」)。
この勅語は「愛国」という単語の語源となったものであり、天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語である。
第二次世界大戦時の日本で博麻は愛国心の象徴的存在として崇められ、各地で喧伝された。
大伴部博麻の碑には以下の言葉が記されています。
右の柱には「尊朝愛国」、左の柱には「売身輪忠」。
これは持統天皇が持統4年(690年)に大伴部博麻に与えた勅語であります。
「愛国」という言葉がうまれたいきさつなんですね、この人がいなかったら今の日本はないわけです。教科書に載せるべきだと思いました。
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白村江(はくそんこう)での敗戦
あまりにも年代が古すぎて、この戦いを知っても意味がないのではないか?と思いがちですが、この時から、既に外国との貿易・外交・防衛は始まっ て今現代に通じています。
白村江の戦いは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間で行われた武力衝突。
倭国は、外交関係が良好であった百済の救援要請に応え、朝鮮半島に出兵するが、唐・新羅連合軍の圧倒的な軍事力の前に、無残な敗北を喫してしまう。
なぜ、倭国は唐と戦ったのか?
百済の遺臣から援軍を求められた中大兄皇子は、このままでは唐の圧力が倭国国内にまで及ぶ事を危惧し、百済復興への助力を決意する。
663年に、朝鮮半島の西部へ向けて、当時の日本としては歴史上類を見ないほどの大軍を派遣した。
この敗戦は、朝廷に衝撃を与えており、後の国力を最大限に発揮できる律令国家体制への歩みを決定づけた。
天智2年8月(663)「白村江の戦い」では、その気象、地形に不慣れだった日本軍は、唐の「水軍」の前に一昼夜にして軍船の大半炎上壊滅する。
白村江は日本軍の血で赤く染まったという。
翌年、日本では唐・新羅の侵攻を警戒し、天智3年(664年)に九州北部に水城を築いている。(筑紫、築大堤貯水名曰水城)
捕虜として連行される大伴部博麻
博麻は捕虜として唐軍に取られられ後、「長安(西安)」に連行される。
唐が日本を攻める計画を知る
長安に連行された博麻らは、捕虜とはいえ拘束されること無く自由に長安を往来できた。
その為、彼らは長安においてしっかりと情報収集を行っていたようだ。
そして博麻らは「唐が倭国(日本)を攻める計画」を持っている事を知る。
自分を犠牲にし、日本を守った大伴部博麻
この事実ををヤマト(日本)に知らせなければと、博麻は自分を「奴隷」に売り、他の四人を日本に帰す事を「土師野富咩」らに相談する。
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大伴部博麻が日本へ帰って来る
奴隷として長安に留まった博麻はそれからおよそ20数年、知り合いの「唐人(外交官、新羅使とも)」から倭国に行くが一緒に帰るかと声をかけられる。
そして、持統4年(690)十月乙丑(二十二日)に大伴部博麻は30年という時を経て日本に帰ってくる。
持統天皇より勅語を賜る(原則として天皇が口頭により発する公務上の意思表示)
持統天皇はその愛国心を讃えて博麻を務大肆従七位下に任じ、絹を四匹(一匹=四丈)、綿を十屯、布を三十端、稲を千束、水田を四町与えた。
また、子孫三代にわたっての税の免除を約束し、勅語を送った(「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」)。
この勅語は「愛国」という単語の語源となったものであり、天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語である。
第二次世界大戦時の日本で博麻は愛国心の象徴的存在として崇められ、各地で喧伝された。
大伴部博麻の碑には以下の言葉が記されています。
右の柱には「尊朝愛国」、左の柱には「売身輪忠」。
これは持統天皇が持統4年(690年)に大伴部博麻に与えた勅語であります。
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