ーーーーーーーーーー ※ 続きです M4:【スコットランド国王と息子 について ~ロバート1世(Robert I, 1274年7月11日 - 1329年6月7日)とは 】
スコットランドの国王(在位:1306年[2] - 1329年)。ロバート・(ドゥ・)ブルース(中世ゲール語 (Middle Irish) :Roibert a Briuis, 現代スコットランド・ゲール語:Raibeart Bruis, アングロ=ノルマン語:Robert de Brus ないし Robert de Bruys)の名で知られる。
父方の祖先はノルマンディーのブリー (Brix) を出自とするスコット=ノルマンの家系であり、母方はフランス・ゲール人の家系である。 ロバート1世は最も偉大なスコットランド国王の一人となり、同時にその世代で最も知られた戦士の一人になり、遂にはイングランド王国に対する独立戦争においてスコットランドを率いることとなった。
ロバート1世はデイヴィッド1世の血を引く者として王位を請求し、その統治期間中にスコットランドの地を独立国家として回復するために首尾よく戦い抜いた。 今日のスコットランドでは、ロバート1世は★国民的英雄として記憶されている。
ロバート1世の遺体は「ダンファームリン修道院」に埋葬されているが、心臓は「メルローズ修道院」に埋葬されていると信じられている。 ロバート1世の副官で友人の「ジェームズ・ダグラス卿 (James Douglas, Lord of Douglas) 」は、後にロバート1世の保存された心臓を十字軍によって聖地に持っていくことに同意したが、ムーア人のグラナダに到達したのみだった。 伝承ではダグラスがテバの戦いでスコットランド部隊を率いて死んだ際には、心臓は銀の箱に入れて運んでいた。
生涯について。
1 背景と若年期
※ロバート1世
ロバート1世は、のちに第6代アナンデイル卿となるロバート・ドゥ・ブルースとキャリック女伯マージョリー の長男として生まれた。 父ロバートはウィリアム1世の弟ハンティンドン伯デイヴィッドの次女イザベルの孫にあたる。 母マージョリーは誰からも★畏怖された女傑で、伝説によれば自身との結婚に同意するまでロバートの父を拘禁したという。 ロバートは母方からゲールのキャリック伯を相続し、父方を通じてスコットランド王位を請求することが出来る血筋を引いていた。
ロバート1世が生まれた日付は知られているにもかかわらず、 生誕地は明らかではない。 しかし、恐らくはエアシャー (Ayrshire) の★ターンベリー城 (Turnberry Castle) だと思われる。
若い頃のことはあまり知られていない。 恐らくは北イングランド、スコットランド南東部のアングロ=フランス混合文化及びキャリック、アイリッシュ海のゲール文化で育ち、★父方の言語がフランス語、★母方の言語がゲール語であったと思われる。 習慣に従う形で現地の家族(Barbourは父方の叔父と言及する)とともに育てられたと思われる。 ロバートの弟エドワードは又従兄弟にあたるドーナル・オニール (Domhnall O'Neill) とともに育ったと思われる。 ロバートが最初に歴史上に登場するのはアイラ卿アレグザンダー・オグ・マクドナルド (Alexander Og MacDonald, Lord of Islay) によって発行された特許状の立会人としてである。
ロバートの名はアーガイル司教 (Bishop of Argyll) 、アラン島の教皇代理及びキンタイアの聖職者、その父、キャリックからのゲールの公証人の主人とともに現れる。1292年に母が死ぬと、18歳のロバートはキャリック伯を継承した。
1290年、スコットランドの「アサル王家」が絶え、★13人の王位請求者が乱立した(スコットランド独立戦争、Competitors for the Crown of Scotland参照)。 ロバート1世の祖父である第5代アナンデイル卿ロバート・ドゥ・ブルースもその一人で、有力な候補者であった。 この紛争に調停者として介入したイングランド国王エドワード1世は、1292年11月、「スコットランドの守護者」 (Guardian of Scotland) を代表する形で、「ジョン・ベイリャル」にスコットランド王位を授けた。
この直後、第5代アナンデイル卿ロバートはアナンデイル卿の地位と王位請求権をロバート1世の父に譲ったが、おそらくこれはジョンに臣下として忠誠を誓うことを避ける意図によるものである。 ブルース父子はジョンを★簒奪者(サンダツーシャ; 特に、帝王の位、政治の権力、支配権などを奪った人)と見做し、忠誠を誓ってはいなかった。
1294年4月、若きロバートは1年半にわたってアイルランドを訪問する許可を得た。 加えてエドワード1世の更なる好意により、イングランドの国庫に負っていた全負債の猶予を得た。
1295年にはマー伯ドムナル (Domhnall I, Earl of Mar) とヘレナの娘であるイザベラ・オブ・マーと最初の結婚をしている。
独立戦争の開始
※1562年に描かれたロバート1世夫妻。
1296年8月、ロバート親子はベリック・アポン・ツイードでエドワード1世に対して臣従の誓いをしたものの、カーライルで更新する際にこの宣誓は破棄され、翌年にロバートはエドワード1世に対するスコットランドの★反乱を支援した。
翌1297年夏、ロバートのもとに、エドワード1世配下の軍司令官で自身とも関係のあったサリー伯ジョン・ド・ワーレンを支援するようにとの急な手紙が届いたが、ロバートはこの命に従おうとはせず、逆にエドワード1世への反乱を支持し続けた。
7月7日にロバートとその盟友は、アーヴァインの降伏 (Capitulation of Irvine) と呼ばれる条約によってエドワード1世と妥協した。 スコットランドの領主たちは自らの意思に反して海の彼方の者に仕えることを良しとせず、エドワード1世に対する忠誠の宣言への返答としての新たなる暴力的活動を許容するようになった。
グラスゴー司教、執事長ジェームズ及びアレグザンダー・リンゼイ卿が、ロバートが自身の娘であるマージョリーを人質として差し出すまでの間、その保証人となるや(ただしロバートは人質を差し出すことはなかったが)、ロバートは即座に再びスコットランドのための積極的な闘争を行った。
「スターリング・ブリッジの戦い」の後の短期間に、ロバートは再びスコットランドを離れて「アナンデイル (Annandale)」 の地を荒廃させ、エアにあったイングランドの城塞を焼き払っている。 しかし、エドワード1世が「フォルカークの戦い」で勝利して舞い戻ってくると、ロバートが有していたアナンデイルとキャリック (Carrick) の両地は没収され、エドワード1世の配下の者に支配権が委ねられた。
フォルカークの敗北を受けて★ウィリアム・ウォレスが「スコットランドの守護者」の地位を辞すると、ロバートとジョン・カミンが“共同の守護者”という形で後釜に座ったものの、両人ともその意見の相違から★面識は全くなかった。カミンは、ジョン・ベイリャルの甥でかつその支持者であり、さらには何人ものスコットランド王位請求権者の一人であったことから、ロバートとは敵対関係にあったのである。
1299年にはセント・アンドルーズ司教ウィリアム・ランバートンが、ロバートとカミンとの間を取りなすことが出来るように、3人目の、そして中立した形での「守護者」の地位に任命された。 翌1300年にロバートは“共同の守護者”の地位を最終的に辞任して、ギルバード・ドゥ・アンフラヴィル (Gilbert de Umfraville, Earl of Angus) が後を継いだ。
1301年5月にはアンフラヴィル、カミン、ランバートンも「共同の守護者」を辞任し、後任のジョン・ドゥ・スールズ (John de Soules) が「唯一の守護者」となった。スールズはロバート、カミンのいずれの派閥にも属さず、また愛国者であったことから、あらゆる方面からの指名を受けたのである。スールズは積極的な活動をとる「守護者」であり、ジョン・ベイリャルがスコットランド王位に返り咲くための行動も再開した。
同年7月、エドワード1世は第6次スコットランド遠征に出立した。ボスウェル (Bothwell Castle) とターンベリーの両城を奪取したにもかかわらず、わずかな損害しか与えることは出来ず、1302年1月には9ヶ月の休戦に同意している。 その頃ロバート・ブルースは愛国側に立っていたにもかかわらず、他の貴族とともにエドワード1世に服従している。
「ジョン・ベイリャル」がスコットランド王位奪還のために戻ってくるとの噂があった。恐らくはジョン・ベイリャルによって任命されたであろうスールズは、他の大多数の貴族とともにその帰還を支援した。ところがこれは噂でしかなく、ジョン・ベイリャルが戻ってくることはなかった。
しかし、ロバートがエドワード1世への支持を宣誓したにもかかわらず、同年3月にメルローズ修道院の修道士に手紙を宛てていることが記されているのは興味深い。 このことが、★ロバートのエドワード1世に対する有用性を効果的に弱めることになったからである。 修道院の賃借人に自軍に奉仕することへの呼びかけ(この時は国民意識は呼び起こさなかった)に対する釈明こそロバートが、国を守るための“王国全体の共通の軍隊”の場合を除いて★“今後は一切たりとも”修道院に対して奉仕を求めないことの誓約だったのである。 同年にはロバートはアルスター伯リチャード・ドゥ・バラ (Richard de Burgh, 2nd Earl of Ulster) の娘であるエリザベス・ドゥ・バラと再婚して、ディヴィッド、ジョン(夭折)、マティルダ(トマス・アイザックと結婚、1353年7月20日に死去)およびマーガレット (1345年にサザランド伯ウィリアム・ドゥ・モラヴィア (William de Moravia, 5th Earl of Sutherland) と結婚)の★4人の子供を儲けている。
1303年にエドワード1世は再びスコットランドに侵入してエディンバラに達し、パースの手前まで行軍している。 エドワード1世は7月までパースに滞在し、ダンディー、ブレヒン及びモントローズ (Montrose, Angus) を経て、8月にはアバディーンに到着している。 南のダンファームリンへの道に引き返す前に、ここからマレーを通ってバデノッホ (Badenoch) に行軍している。 スコットランド全土はエドワード1世の従属下におかれ、★ウィリアム・ウォレスを除く全スコットランドの指導者が1304年に降伏した。 “スコットランドの保護者”であったジョン・カミンもまたエドワード1世に服従した。
アレグザンダー3世により制定されたスコットランドの法と権利その他は、エドワード1世の承諾とスコットランド貴族の助言のもとで変えることが必要とされた。
1304年6月11日に、エドワード1世によるスターリング城包囲に際してスコットランドの同胞たちによる勇気ある抵抗を見せつけられたロバートとウィリアム・ランバートンは、互いの“友好と全ての者達に対する同盟” の協定を結んだ。 仮に★秘密協定を破ったならば、総額10000ポンドを罰として支払うことになっていた。この協定は、両人とも既にイングランドに降伏していたにもかかわらず、深い愛国心の証であると大概は解釈されている。
スコットランド側が防備を固めたことで、エドワード1世は王国としてのそれを破壊することにした。 暴力に物を言わせる形でスコットランドの貴族と都市民からの忠誠を獲得し、議会では後のイングランド議会と並んでスコットランド支配を設立するのに見合う人物を選出することに固執した。
一見したところではスコットランド人が政府に参加したようには見えるものの、内実はイングランドの圧政下に置かれていたのであった。 エドワード1世の★甥である「リッチモンド伯」がスコットランド政府を従属させるための先頭に立った。
上述のことが行われている間に、★ウィリアム・ウォレスはグラスゴー付近で捕えられ、1305年8月23日にロンドンで四つ裂きの刑に処せられた。
同年9月エドワード1世はロバートに対して、そのキルドラミー城 (Kildrummy Castle) を“自ら進んで答えるような状態に保つよう”命じた。これはすなわち、エドワード1世にとってロバートは完全に信頼できる人物ではなく、密かに陰謀を練っているのではないか疑っているとの意思表示だったのである。 もっとも同じ文句は、エドワード1世とその副官で長年の友であった「エイマー・ド・ヴァレンス (Aymer de Valence, 2nd Earl of Pembroke) 」との協定でも現れている。
エドワード1世のさらなる不信の兆候は10月10日に、ギルバート・ドゥ・アンフラヴィルの土地をロバートに与えるという、★わずか6ヶ月前にした約束を取り消したことにも現れていた。
キャリック伯として、そして今やアナンデイル卿としてのロバートは、スコットランドでは広大な領地と財産を、イングランドでは男爵領と幾つかの小規模な財産を保持するようになり、スコットランド王位を請求しうる最有力者となった。 同時に守るべき大家族の主でもあった。仮に王位を請求するとしたら、いまだに続いている国内の争いに身を投じなければならず、仮に失敗するとしたら全てを犠牲にしなければならないということをロバートは皆知っていたのである。
ダンフリーズでのジョン・カミンの殺害
ロバートは自身の一族全てと同様に、自身に王位を継承しうる権利があることを完全に信じていた。しかし王位を得るための行動が、イングランド軍とスコットランド軍からの支持を代わる代わる受けたものであったことから、 “スコットランド王国の共同体”間ではロバートに対する不信感が大きく広がることとなった。加えて、ロバートの野心の障害となったのがジョン・カミンであった。ジョン・カミンはイングランドと対決するという頑なな意思を、ロバートよりも遥かに抱いていたのである。同時にスコットランドで最も積極的な貴族であり、スコットランドならびにバカン、マー、ロス、ファイフ、アンガス、ダンバーおよびストラサーンの各伯領を有する関係者をも含む、イングランドの多くの積極的な貴族とも関係があったのである。自身はキルブライド、カーキンティロッホ、レンジー、ベドルール、スクレスバラの領主であり、またバンフ、ディングウォール、ウィグタウン、アバディーンの州長官でもあった。また、父方からはドナルド3世の、母方からはディヴィッド1世 の血を引いていたことから、スコットランド王位の請求を積極的に行っており、ジョン・ベイリャルの甥でもあった。
バーボアとフォードウンによれば、1305年夏の後半にジョン・カミンは、ロバートが決起する際には彼が王位につくのを有利にするために自身のスコットランド王位継承権を放棄するが、その見返りとしてロバートのスコットランドの領地を拝領するという秘密の同意に誓い、署名して押印をしたという。
ジョン・カミンとの間で取り決められた同意の細部が本当か否か定かではないが、エドワード1世はいまだイングランドの宮廷に留まっていたロバートの逮捕に踏み切った。ロバートにとっては運が良いことに、親友かつエドワード1世の婿である「ラルフ・ドゥ・モンザマー (Ralph de Monthermer, 1st Baron Monthermer) 」がエドワード1世の意図を見抜いて、12ペニーと一組の拍車を送り届けた。 ここからヒントを得たロバートは、従者とともに夜中のうちにイングランドの宮廷を脱出した。ロバートと従者はスコットランドへの道を急ぎ、ダンフリーズでジョン・カミンとの運命の会見をするのである。
バーボアによれば、ジョン・カミンはロバートとの合意内容をエドワード1世に対して漏らしていて、ロバートはジョン・カミンとの会見を1306年2月10日にダンフリーズ (Dumfries) のグレイフリアーズの教会で行うことを取り決めており、そこで★ジョン・カミンの裏切りを非難して、両人はやがて殴り合いにまで発展したという。
ダンフリーズの修道院に付属する教会の高い祭壇の前で、★ロバートはジョン・カミンを殺害した。『スコットランド年代記』 (Scotichronicon) によれば、ジョン・カミンはロバートの攻撃から生き延びていて治療を受けており、ロバートの支持者であったロジャー・ドゥ・カークパトリック (Roger de Kirkpatrick) とジョン・リンゼイは教会に戻ってロバートのやり残したことを完遂した。
しかしバーボアはそのような話は述べてはいない。にもかかわらず、ロバートにとってグレイフリアーズにて死の影は投げかけられており、自身にはもはや国王になるかあるいは逃亡者になるかの選択肢しか残されておらず、自らのスコットランド王位継承権を主張して同国の独立のための武力闘争を開始することにした。双方の支持者が剣を抜き、修道院の墓地は戦場と化した。
ロバートとその一派はそれから、ダンフリーズ城を襲撃した。同城のイングランド守備隊は城を引き渡し、ロバートとその支持者は一日で3度の勝利を収めたのであった。
ロバートはダンフリーズからグラスゴーへ馬を急がせ、そこでロバート・ウィシャート司教 (Robert Wishart) の前に跪き、自身の暴力と不敬を告白して司教から赦免を叶えてもらった。ウィシャートの手によって、ロバートが再起できるように国中の聖職者たちが嘆願した。しかしその甲斐なく、ロバートは上記の罪で破門された。
現在でも残るイングランド側の記録では、事の顛末は全く異なっている。それによると、カミンの殺害はスコットランド王位を得るための計画であった。その証拠として、エドワード1世は教皇に宛てた手紙の中でロバートの破門を求めているのである。ロバート1世がカミンを殺すという背信行為の情報をエドワード1世が得ていたと述べる記録は、イングランドではこれまでのところ一つも見出されていない。イングランド側では、エドワード1世は死の数日前までカミンが殺害された報を聞いていなかったと述べている。
※スクーンでの戴冠、スコットランド国王ロバート1世の誕生
※エディンバラ城に設置されているロバート1世の戴冠式の場面を描いた像。
ダンフリーズでカミンが殺されてから6週間後の1306年3月25日、パース付近のスクーンにおいて、正式かつ厳粛な儀式のもと、ロバートは「ウィリアム・ドゥ・ランバートン司教 (William de Lamberton) 」から王冠を授けられ、ここに★スコットランド国王ロバート1世が誕生した。
ウィシャートがイングランドの目を盗んで密かに隠していた王家のローブと衣服が司教の手によって運び込まれてロバート1世に着せられた。マレーとグラスゴーの両司教はアサル伯、メンテイス伯、レノックス伯、マー伯と同じく出席した。スコットランド国王たる偉大なる紋章が、ロバート1世の玉座の後ろに据え付けられた。
ロバート1世によって殺害されたカミンの従兄弟、第3代バカン伯ジョン・カミン (John Comyn, Earl of Buchan) の妻で、マクダフ家=ファイフ伯家による権利の主張、すなわち自身の弟であるファイフ伯ダンカン4世 (Donnchadh IV, Earl of Fife) へのスコットランド王位を求めていた(もっともダンカン4世は十分な年齢には達してはおらず、その上エドワード1世の拘禁下におかれていた)イザベラ・マクダフIsabella MacDuffは到着するのが戴冠式の翌日になってしまい、出席できなかった。そのため2度目の戴冠式が執り行われ、キャリック伯、アナンデイル領主そしてスコットランド国王であるロバート1世の頭の上に王冠が再び置かれた。
(出展; /Wiki)
ーーー 初版20240409 昨日の東京都心大手町最低気温15.4℃ 最高気温23.2℃ 駐車場の白い桜(ソメイヨシノではない)はもう葉桜です、、
ー時節項追記前日深夜未明迄 ※8月の内容が中心 ① ▷14日から「かなり高温になる」可能性 日本各地に高温に関する「早期天候情報」~気象庁 20:32 ▷9火 東海・関東で 警報級大雨か 17:29 ▷エアコン 試運転 お早めに 10:05 > 今やないと命にかかわる暑さの日本ですから、、 ▷雨の範囲広がる 関東では夜に 本降り 9:12 【地震関連】 ▷輪島市で入学式 新小学1年生 35%減 17:43 ▷共産委員長 首相を批判「許し難い」20:47 ▷宮崎で 震度5弱 津波の心配なし ➊ ▶台湾メディアも称賛 捜索支える 犬 15:18 ▶露で記録的洪水 6000人超 避難 18:19 ▶ようやく家に 台湾地震 4日孤立 8:00 ② ▷岸田首相渡米 政権立て直しへの 思惑 21:18 > …いまさら何を。今までもそうだった(逆効果の事が多かったようにも見えるが、、 ▷宮内庁インスタ 好調 今月から運用 22:20 ▷愛知知事 リニア巡り川勝氏に 怒り 13:47 ▷川勝知事 10水にも辞表 提出へ 16:54 > 結局6月までやらんのか ▷陸自公式X 「大東亜戦争」と表現 21:08 ▷「桜苗木」贈呈へ 訪米で 岸田首相 > 要る?有難く思われる? ▷安保環境に「脅威」 84% 読売調査 8:00 ▷国の10基金※ 「無駄」と判断 廃止へ 21:52日 ※特定の事業に対し複数年度に渡って貯めて置き必要な時に使えるもの。溜め込まれて使われないことから「埋蔵金」と批判されていた。 ➋ ▶露制圧の原発に 攻撃 ウは関与否定 13:15 ▶イラン苦慮 身長に報復 検討か 16:15 ▶北 4月中旬 衛星打ち上げか 16:57 ▶ト氏陣営 一夜で77億円 調達 19:47 ▶ガザ検問所 搬入制限 食料腐る 23:04日 ▶日米豪比 南シナ海で初 共同訓練 23:41日 ▶米財務官 米中関係は「改善」 と認識 7:59 ▶南部撤収は 侵攻の準備 イスラエル 8:59 ▶ト氏 ウ領土割譲案 米報道 11:15 ③ ▷春告げる「トキシラズ」水揚げkg@8千円台 去年より高値 通常より1周早く3水解禁~根室 22:00 ▷読売新聞とNTT 生成AIで 共同提言 21:23 ▷眼鏡 レンズの供給遅れ 長期化へ 17:56 ▷ファミマとローソン 初の 共同配送 16:09 ▷ダイハツ 小型車業務 受託大勢に 16:37 > もう創業させて大丈夫なんだろうか?(政府はちゃんとやったのか? ▷23年度倒産件数 9年振り 高水準 18:07 ▷清澄白河 何故 コーヒー激戦区 19:29 > そうなんだ、、 ▷三菱重工 出戻り歓迎で応募 殺到 6:58 ▷日本版ライドシェア 都内で 開始 10:38 ▷実質賃金 23カ月連続マイナス 最長 9:52 ➌ ▶▷クルーズ旅 予約満杯 外国人も殺到 15:46 ④ ▷頻繁な耳掃除 NG? 病気リスクも 20:25日 ▷日本初 脂肪減少薬 販売開始 18:16 ▷男性の不妊検査 都が実質 無料化へ 10:09 ➍ ▶前立腺がん 40年までに倍増 英研究 12:05 ⑤ ▷去年1年で2勝 男子プロゴルフ。蝉川泰果 住友生命とスポンサー契約 22:35 ▷宮城野親方が希望 まわし姿で 指導 19:48 ▷平野美宇 風呂で電気 点けない 21:38 > だからどうした? ▷大正末期の消えた純銀杯発見 茨木CC設立準備組織「サースデー倶楽部」の優勝カップ ゴルフ収集家がネットで入手 12:04 ▷魔裟斗 教育に熱心なパパ友 多い 12:33日 ▷羽生弓弦氏 地元宮城で 初の単独公演 0:32 ➎ ▶トルコサッカー 開始2分 試合放棄 15:55 > ? 何があったの? ▶松山 1つ伸ばし7位フィニッシュも厳しい自己評価 「(マスターズへは)今のままじゃ大変な思いする」11:55 ⑥ ▷無料配布の 支援食品 やまぬ転売 18:17 ▷クラス分けやり直し 臨時休校 滋賀 22:01 ▷志願者2万人超 減少 日大で入学式 21:18 ▷統一教会 即時抗告 過料決定に不服 17:26 ▷事件被害者の顔 AIが学習 困惑 8:14 ➏ ▶離陸中のボーイング機 トラブル 米 9:43 ⑦▷➐▶ ⑧ ▷もやしは 洗う?or洗わない? 正しい食べ方は… 6:15 > …洗わなくて良い。出荷前に洗浄してあるから。 ▷民家の水槽から マリモ 専門家驚き 18:42 ▷上野の双子のパンダ 別々に 展示へ 21:33 > 料金も2倍かかる? ▷職場の花見 令和で 様変わり 15:44 > 場所取り&準備は上司が率先、とも ▷400種超新種発見 千葉の「新種ハンター」科学者・駒井智幸氏(58) 22:47日 > 岩手の海まで目鼻だった宮古出身。北大生物学部卒、元県立中央博物館長、甲殻類専門家。今年㋀に405種目のエビ発見。世界のトップ2%科学者でもあるとの事、、(前にどこかで書かせて頂いた記憶も…) ※エビは世界に約1万7千種、日本に2千種居る ▷かくれキリシタン 減 子孫の証言 18:00日 ▷「全然+否定語」 国語調査官の見解 11:16 ➑ ▷▶宮崎駿作品 中国で興収 日本超え 18:38 ▶▷Number|i 最大級米フェス 出演へ 18:18 ▶最低でも20km 木星衛星エウロパの表面の氷 衝突地形から推定 21:01 ⑨ ▷筒香嘉智 「結局は巨人」でファンがっかりもDe番記者「巨人は危うい賭け」と警鐘 20:13 ▷広・中村奨成の登録抹消 チャンス生かせず 4打席無安打 18:31月 > 新人はどんどんコレで良いと思う。下手に思い込ませぬ方が、、ね ▷史上最年少D1(2004) 元神・辻本賢人は今… 11:02 > …現在35歳、2009年20歳で戦力外。米球界挑戦で渡米し野球はそこで終わり。現在は長髪顎髭の俳優風の面立ちで、早起きの、日本の雑誌や書籍の翻訳家なのだとか。 気になっていましたがコレでスッキリ。。👇 ▷神・村上 甲子園開幕の9火広島戦 先発へ「周頭は大事」11:52 > 先週2火のDe戦では3回5失点KOだった ▷筒香嘉智 巨人入り 決定的に 6:10 【NPB順位表👇;出展:スポナビ】 移動日なので無し(※日曜日終了時点のものです) ➒ ▶三冠王獲得が更に 現実味 大谷が改善実戦している三振率と空振り率 11:20 ▶大谷を抑えた今永 米メディア 称賛 16:20 > 完全に悪者? ▶今永昇太 4回無失点も 無念の降板 9:17 > 2戦目も好投だった様子。両国で対応できてますね、、 ▶大谷 雨中断後も 快速飛ばし三塁打 11:26 【MLB試合結果】《A》▶BJ3‐8NY ▶Ath7‐1T ▶WS3‐5Roy ▶GA[中止]Tw ▶RS12‐2A▷吉田5DH 4‐1 打点1 .242 ▶Ast3‐1TxR 《N》▶DB2‐5ブレー ▶F2‐3Nat ▶Met3‐1Red ▶マーリ10‐3Kaj ▶D1-8Cub▷鈴木2RF 3‐0 打点1 .286 ▷今永4回43球2安打0失点3K 付かず 通算1勝0敗 防0.00 ▷大谷2DH 4‐2 打点1 .320 ▶Pd2‐3G▷松井7裏3番手 1回1/3I 7球0失点 H 通算1勝0敗2H 《I》▶Ori2‐3P ▶マリナー4‐12ブリュ ▶Ray3‐2Roc ⑩ ▷美容師・坂巻哲也さん 死去 ブームを牽引 20:38 ➓▶ ⑪【性被害・J関連】▷
👉NPB順位《セ》 ※4/9 17:05 第2週後半3戦終了時 1 De 6勝3敗0分 ー 次戦 中 横浜S 2 中 5勝3敗1分 0.5 3 神 4勝5敗0分 1.5 次戦 広 甲子園 3△巨 4勝5敗0分 0 次戦 ヤ 鹿児島 5△ヤ 3勝4敗1分① 0 6▼広 3勝5敗0分① 0.5 👉NPB順位《パ》 ※同上 3カード目 17:18最終更新 1 ソ 6勝3敗0分 ー 次戦 ハ 熊本 1△西 6勝3敗0分 0 次戦 ロ 県営大宮 3 ハ 4勝4敗0分① 1.5 4 ロ 4勝5敗0分 0.5 5 楽 3勝5敗0分① 0.5 次戦 オ 京セラD 6▼オ 3勝6敗0分 0.5 ※ 丸数字は雨天中止・移動日など 未消化数
ー (画像・ 2) 実際のウォレスとされる肖像画 /istockサーウィリアムウォレス - ウィリアムス
(画像・ 3上下) エドワード一世 上/長脛王 エドワード1世 団塊のブログ 下/系図_イングランド animalia-life
(画像・ 4) スコットランド国王息子 ロバート一世 /Wiki RoberttheBruce
(画像・ 5) 地図 /ブレイブハート - スコットランド独立 世界の歴史まとめ
ー ※以下は時節項画像 👇
➒👉(画像・ 6上中下) 上;現在の辻本。周辺の人の9割は元阪神のプロ野球選手であったことを知らないとか /ヤフーニュース
中1; 指名時のもの。 海外留学は(中学野球の)練習がきつくて行ったのだとか /朝日新聞デジタル
中2; 二軍戦初登板時のもの。 肘がやや高く腕が伸びてますね /四国新聞
下;2005年当時のドラフト入団選手。 能見、岡崎、広島行った赤松らと同期だったんですね /BBM2005阪神 KT 辻本賢人 アメブロ
2004年ドラフト 自由獲得選手
能見 篤史 (27) 投 手 大阪ガス
岡崎 太一 (21) 捕 手 松下電器
選択選手
1巡目 (選択権なし)
2巡目 (選択権なし)
3巡目 (選択権なし)
4巡目 橋本 健太郎 (24) 投 手 日本新薬
5巡目 大橋 雅法 (18) 捕 手 北陽高
6巡目 赤松 真人 (22) 外野手 立命館大
7巡目 高橋 勇丞 (18) 外野手 済美高
8巡目 辻本 賢人 (15) 投 手 マタデー・ハイスクール★
9巡目 玉置 隆 (18) 投 手 市和歌山商高
10巡目 水落 暢明 (19) 投 手 信太高
能見はかつて「(プロ入りして)20代の頃はまともなピッチングできなかった」…と云っていたが、辻本と一回り年上、27でプロ入りだから、2-3年間の話だったのですね、、
(画像・ 7)/
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