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『785段 』、、
奥社迄は『1368段』あるのだとか。。
-- บันได /bandai バンダイ [名]階段;はしご ขึ้นบันได /khʉ̂n bandai 階段を上る;はしごを上る ※コトバンク先生作 บันไดเลื่อน /banday lʉ̂an バンダイ ルアン エスカレーター ※ごったい先生作 ลิฟต์ /Lift̒ エレベーター ※G先生作
ーーーーーーーー M:【金刀比羅宮(ことひらぐう) とは 】
香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。
明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現と称し、通称は「讃岐の金毘羅さん(さぬきのこんぴらさん)」で知られる。明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」である。
※金刀比羅宮
本宮拝殿
本宮拝殿
所在地 香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
位置 北緯34度11分2.41秒 東経133度48分34.33秒座標: 北緯34度11分2.41秒 東経133度48分34.33秒
主祭神 大物主神(相殿)崇徳天皇
社格等 国幣中社
本殿の様式 大社関棟造
札所等 さぬき十五社13番
※御朱印:金刀比羅宮(本宮前神札授与所)・白峰宮・厳魂神社(奥宮)
金刀比羅宮の参道
★真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。 金毘羅大権現は隆盛し、本堂本尊十一面観音を凌駕し、後発の寺中であった金光院が全山を支配することとなる。 目にあたる部分に寺院があり山容が象の頭に見えることから、また、釈迦が千人の弟子に説法をしたと云われるインドの伽耶山も象頭山と呼ばれ山容が似ていることから★当山は象頭山と呼ばれた。
明治初年に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。 ★全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。
当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、★19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。 時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。
境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。 金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
長く続く参道の石段は★奥社まで1368段ある。 例大祭に合わせて毎年、石段を利用した「こんぴら石段マラソン」が開かれている。
祭神
※大物主命
崇徳天皇
由緒
金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。
大宝元年十月の晴れ渡った青空から一竿の旗が舞い降りて象頭山に立ったため、この地に宮を建て旗宮と称したとある。
別の説として、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する★護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。
また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える★讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡の雲気神社が金刀比羅宮という記述がある。
保元元年(1156年)讃岐国に配流された崇徳上皇は讃岐で崩御する前年の長寛元年(1163年)に当山境内の古籠所に参籠し、その附近の御所之尾を行宮したと伝えられていることから、崩御の翌年の永万元年(1165年)に本社相殿に奉斎したとされている。 修験道の御霊信仰の影響であると云われている。
歴史
★1573年(元亀4年)松尾寺金光院院主・宥雅が、金毘羅堂を建立し金毘羅大権現を祀る。 その際に坂出の天皇寺の奥之院になっている城山または金山に古来より祀られていた金毘羅神を勧請したのではとの説がある。
その後、1579年(天正7年)★長宗我部元親が侵攻してくるとその敵方だった長尾氏の一族であった院主の宥雅は宝物などを持って堺に亡命する。(この人物を後の時代に金毘羅宮は★正当な院主と認めず宝物の返還要求の訴訟を起こして勝利している。)
長曽我部元親はこの山の松尾寺(金毘羅宮は松尾寺別当だった)を殊更に重視し土佐から宥厳を院主に据え、1584年(天正12年)には二天門(持国天・多門天を安置、現在は賢木門)を建立するなど寄進をした。
しかし、秀吉軍との戦いで5年ほどで長曽我部勢力は讃岐から退去する。 ある意味元親と宥厳も金毘羅宮の再建者との見方が出来るのであるが★現代に於いてこの二人の名前は金毘羅宮では抹消されている。 江戸半ばに讃岐では戦国期の寺社の荒廃はすべて長曾我部の侵略の為とする風潮があり、現代になっても地元ではその構図が続いている為である。
金毘羅宮には多くの歴史的建造物があり、それらには立派な説明板が付けられているがこの再建に於いて最初に建立され名称変更された賢木門にだけ付けられていない。
なお、有名な江戸時代末期の民謡『金毘羅船々』の歌詞に「金毘羅信仰忘れちゃいけない シュラシュシュシュ 長宗我部元親 神罰恐れて 逆さに建てたる賢木門」という一節があり、元親の事跡を伝えている。
そして、1600年に宥厳は元親により土佐へ呼び戻され、その弟子の宥盛が跡を継ぎ金光院院主となる。 宥盛は翌年には徳島・松山に金毘羅権現を勧請し四国のみならず東北地方まで巡り信仰を広め、荒廃していた境内を整備した。
宥盛は死の直前には神体を守るために★天狗に身を変えたとの伝説もあり、今は讃岐三天狗の一狗で金剛坊と呼ばれる(他は八栗寺の中将坊と白峯寺の相模坊)。
1606年自らの像を作って本殿脇に祀り1613年亡くなった後しばらくして観音堂後堂の威徳殿に尊体は法衣長頭襟姿で脇に不動明王と毘沙門天を配し秘仏として祀られていたが、現在は奥社に祀られている。
江戸時代
近世に入ると、高松藩主の生駒氏により崇敬され、代々社領が寄進された。1642年(寛永19年)に★高松藩主が徳川光圀の兄である松平頼重に交代すると、頼重は当宮を崇敬して社領を加増したほか、正保4年(1647年)330石の社領地を大名ではなく将軍が安堵する朱印地とすることに成功した。
これにより当宮を管理する別当職の金光院の地位も向上し、将軍の代替わりの度に出府して謁見することが許され、また別当が交代する時にも参府して将軍に謁見する「継目御礼」が認められた。
その後も、頼重は寄進を続け主な建物だけでも1651年に仁王門(現在の大門)を新築、1659年に本社造営、1673年に13間5尺余(高さ約25m)と云われる大型の多宝塔の建立など山内の建物は一新され多くの参拝者を呼び発展の礎となった。
なお、近世期には象頭山から神職は除かれ、金光院が当宮の管理運営を完全に掌握し、社領地の司法や行政も管掌していた。
金毘羅講燈篭
江戸時代に★江戸の商人が寄進した燈篭で、香川県丸亀市の港に一基が現存し、寄進者の名を冠し「太助燈篭(たすけどうろう)」と呼ばれている。
★高野山の僧であった宥盛が本坊に造った★護摩堂での祈祷で大きな木札を賜った漁師たちの中で難破し沈没した際に船に祀っていた大きな木札に捉まって命拾いしたという話が全国に広まり、漁師達の間でますます隆盛した。
また、金光院院主が宥光のときには★参拝の土産物として○に金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和国から技術者を招いたといわれる。
1689年刊行の四国遍礼霊場記(真念の情報による寂本の著書)に「巡礼の数にあらずといえども讃州の壮観名望の霊区なれば遍礼の人象頭山に往詣せずといふ事なし」と挿絵入りで札所以上にページをさいて紹介している。 さらに「大物主の命天竺にゆきましてかしこにて金毘羅といひしとかや・・金毘と三輪一躰と尺し給ふ事あり」と由緒を語りことさらの扱いとなっている。
江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がった。 各地で金毘羅講が組織されて「金毘羅参り」が盛んに行われるようになり、★伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれる。 その様子は、浮世絵の東海道五十三次の一つである「沼津」や、滑稽本の東海道中膝栗毛に描かれている。 奉納も多く行われ、奉納された★石碑を収めるために本来直線だった参道を曲げたほどであった。
1753年(宝暦3年)桃園天皇より勅願所となり、1760年(同10年)5月には「日本一社の綸旨」を賜わり、安永8年(1779年)には幕府祈願所になり、明治初年に至るまで毎年春秋の2回、禁中より御撫物(おなでもの)が金光院に下賜され、宝祚悠久(ほうそゆうきゅう)を祈願してきた。
江戸時代後期には、由加山(蓮台寺、由加神社本宮)が同じ権現である喩伽権現を祀っているということで、瀬戸内海周辺で一番人気のあった当山にあやかろうと本州方面から当山への道中であったこともあり、★金毘羅大権現と喩伽権現の両方を参拝する「両参り」をアピールし成功していた。
さらに明治期には、★西大寺が当社の不動明王と毘沙門天(詳細は後述)を牛玉所(ごうしょ)殿に迎え「三所参り」として西大寺も参拝することを勧めた。
また、四国内でも、隆盛を極めつつあった金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする山伏寺が各地に現れたため、上述の日本一社の綸旨をいただき、それらが当山とは無関係であると示すことを図ったが、実現は困難であった。
★江戸時代末期には民謡「金毘羅船々」が歌われ始める。
明治期
※琴陵宥常像
金刀比羅本教総本部
明治元年(1868年)3月の神仏分離令に際し、★第19代金光院別当であった琴陵宥常(ことおかひろつね1840年~1892年)は当山の存続を守るため神仏混淆であった「象頭山金毘羅大権現」を「琴平山金刀比羅宮」と改称して神道の神社とし、御本社金毘羅大権現は、主祭神の名を大物主神と定め相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀り、象頭山松尾寺金光院は廃されそのまま社務所になり、他の五つの塔頭は廃止となり、自らは復飾し大宮司就任を許されずも社務職にとどまりさまざまな変更をした。明治元年9月13日には勅祭神社とされる。
主な堂宇の変革として、観音堂は大年社を経て三穂津姫社となり本尊十一面観音菩薩(重要文化財)は宝物館に展示され、金堂は天御中主神ほか二神を祀る旭社となり本尊薬師如来と十二神将は不明となる。
観音堂後堂に祀られていた宥盛は「厳魂彦命」と名を変え、明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座され★宥盛像は不明、その脇仏とみられる不動明王と毘沙門天の二体は破却の危機に直面したが塔頭の★萬福院住職宥明によって救い出され岡山に渡り、その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年)岡山市の西大寺の住職★光阿によって同寺に移され、その二体で金毘羅大権現とし、牛玉所権現(五大明王)とともに牛玉所殿に祀られ現在に至る。
慶長9年(1604年)金光院本坊内に護摩堂が造られたとき迎えられた初代の不動明王立像は2代目を迎えたとき塔頭の多門院に本尊として移されていたがこの時海岸寺に移され、★2代目の不動明王は宝物館に展示されている。
護摩堂と同時期に横に造られた大師堂は廃止となり、大師像(県指定文化財)は現在の松尾寺へいち早く遷座される。 多聞天と持国天を有した二天門は賢木門となる。金剛界大日如来を本尊とする多宝塔は廃棄され今は馬の銅像が立つ。
大門は左右の金剛力士像が武者像に変わり存続、経蔵は文庫になり、鐘楼は麓の興泉寺北緯34度11分24.11秒 東経133度49分23.76秒 へ売却。その他にも阿弥陀堂・不動堂・摩利支天堂・毘沙門堂・孔雀堂・行者堂・三十番神社などが摂末社に変更され多くの仏像経巻仏具等が売却または焼却された。
なお、神仏分離に反対していた重鎮の宥暁が住職である普門院が唯一再興し、松尾寺普門院として法灯を継承し、明治5年に「浦の谷」で焼かれた仏像仏具から逃れたいくつかの仏像を所蔵している。
近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に国幣小社に列格し、明治18年(1885年)に国幣中社に昇格した。
現代
古くから信仰を集め、こんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。
総本部は金刀比羅宮の大門近くにある。 金刀比羅本教は神社本庁に属さない独立した包括宗教法人であるが、金刀比羅宮自体はかつては神社本庁の被包括法人であり、別表神社に指定されていた。
令和元年(2019年)の天皇即位に伴う大嘗祭当日祭に供される臨時の神社本庁幣帛料が送付されなかったことなどを理由として、2020年6月5日に金刀比羅宮は神社本庁に対して「被包括関係を廃止する」との通知を送付した。 2020年11月、神社本庁からの離脱が承認され単立神社となった。
※金刀比羅宮
境内
象頭山の中腹に鎮座し、参道の石段は本宮まで★785段(標高251m)、奥社まで登ると★1368段(標高421m)になり、その真上にあたる琴平山頂上は標高524mである。
※本宮エリア
本宮
本殿:1878年再建。桧皮葺・大社関棟造り。祭神は 大物主神と★崇徳天皇を合祀。
幣殿:桧皮葺・大社関棟造り。
拝殿:桧皮葺・大社関棟造り。
神饌殿:本殿の向かって右、入母屋造・檜皮葺。神饌を調進する所。
北渡殿:神饌殿と拝殿をつなぐ回廊。
北透垣:神饌殿のさらに右側にあり本殿背後の神職も入ったことがないとされる禁足区域の森(この森の中に洞窟があり金毘羅大権現が鎮座しているという信仰があった)への進入を防ぐ。
直所:本殿の向かって左。詰所。
神楽殿:本殿の向かい。
神札授与所:本殿の向かい。
南渡殿:本宮と三穂津姫社をつなぐ約40mの回廊。
三穂津姫社(御別宮)
本殿:1876年造営。檜皮葺・王子造。祭神は三穂津姫神。
中殿:檜皮葺。
拝殿:檜皮葺・大社関棟造。
神饌殿:三穂津姫社の向かって右。
直所:三穂津姫社の向かって左。
祓除殿:直所の後ろに回廊でつながる。
御炊舎:三穂津姫社の向かい。1874年建立。
睦魂神社(むつたまじんじゃ・祠):南渡殿の奥の斜面。王子造・銅葺。祭神は大国魂神ほか二柱。
神庫・神輿庫:南渡殿の奥の斜面。
厳島神社(いちきしまじんじゃ・祠):三穂津姫社の向かい。入母屋造平入・檜皮葺。祭神は市寸姫尊。
緑黛殿(りょくたいでん):南西端。2004年5月竣工、建物は村野藤吾賞および日本芸術院賞受賞。参集所や斎館などの施設
高台:北東端。展望所で人工に造られた。讃岐平野が見渡せ讃岐富士が臨める。★四国八十八景87番。
※南渡殿、直所、本殿、拝殿、神木の楠
南渡殿、直所、本殿、拝殿、神木の楠
本殿、南垣
本殿、南垣
北渡殿、神饌殿、北透垣
北渡殿、神饌殿、北透垣
神楽殿
神楽殿
神札授与所
神札授与所
三穂津姫社拝殿
三穂津姫社拝殿
三穂津姫社神饌殿
三穂津姫社神饌殿
三穂津姫社直所
三穂津姫社直所
祓除殿
祓除殿
絵馬殿
絵馬殿
緑黛殿
緑黛殿
高台からの展望
高台からの展望
本宮エリアまでの上り
★参道の最初の1段
大鳥居:土器川にかかる祓川橋西詰に県道282号を跨ぐコンクリート製の大きな鳥居。扁額は無い。
大宮鳥居:JR琴平駅前、ことでん琴平駅横に立つ。
一之坂鳥居 [113段]
備前焼狛犬:一之坂鳥居の両側にいる。1844年奉納され、高さ約5尺(重要有形民俗文化財)
灯明堂・釣燈籠:石段に沿って立ち中に数基の灯籠が並んで吊るされている。1858年建築(重要有形民俗文化財)
金刀比羅本教総本部:1877年建築。教祖を金光院第四代院主宥盛、祭神は金毘羅大権現を金刀比羅大神として信仰する。
鼓楼(ころう)と清塚:大門傍にあり、中にある時太鼓は今も朝夕に打ち鳴らされる。造りが城に似ていることから「琴平城」とも呼ばれている。1710年建築。清塚は鼓楼脇にあり★清少納言の墓と時の別当は考えたと云われている。
大門(おおもん)[365段]:高松藩主松平頼重が1654年頃寄進し仁王門であったが今は門の中の両側に弓を持つ武者が控える。これより内が境内で、有栖川宮熾仁親王筆の「琴平山」の額が掲げられる。門をくぐると鎌倉時代から特別に境内での営業を許された五軒の「五人百姓」が加美代飴を売っている。
桜の馬場:約150mの平坦な石畳で春は両側に桜咲く道になる。
宝物館(登録有形文化財):明治38年(1905年)に建てられた石造、二階の宝物館。かつて観音堂の本尊であった重要文化財の十一面観音立像や護摩堂の本尊不動明王立像などを拝観できる。
御厩:神馬である月琴号・ルーチェ号の2頭の馬が飼われている。神馬は例大祭に随伴し、献馬式もおこなわれる。
こんぴら狗(いぬ)[431段]:飼い主に代わって代参した犬の像。
高橋由一館:近代の洋画家高橋由一の個人美術館。一般公開されている。
明道黌跡:明治時代の1884年から1896年まであった中等普通学校「明道学校」の跡地。同校は金刀比羅宮宮司・琴陵宥常によって設立され、皇典学のほか、歴史、経済学、生理学、化学、代数、幾何、英語、簿記などが学べた。教授に堀秀成らがおり、石榑千亦、山下谷次らを輩出した。現在はクスノキの巨木で知られる。
着見櫓:大名行列の見張所。
※表書院の庭園林泉
書院
※社務所門:切妻造平入・銅葺
社務所
表書院(重要文化財):万治2年(1659年)に建立された書院造りによる建物。内部の五間には円山応挙が、邨田丹陵が二間、森寛斎が一間の障壁画が飾られている。また前池躍魚と称される池泉鑑賞式庭園林泉や蹴鞠が催される前庭が鑑賞できる。一般公開されていて、大人料金800円。
白書院:明治10年建造、非公開
奥書院(重要文化財):非公開
四脚門(重要文化財):参道脇にある黒門から奥に見え通常は閉まっている。書院の正門。
木馬舎 [500段]:木製の等身大の馬が一頭。ここの右下にカフェ&レストラン神椿がある。
祓戸社(はらえどしゃ・祠):祭神は瀬織津姫ほか三柱。
火雷社(ほのいかづちしゃ・祠):祭神は火産霊神ほか五柱。
旭社(後述)[628段]
賢木門(さかきもん):唐破風と千鳥破風の棟が交錯する檜皮葺の屋根。天正12年(1584)長曽我部元親が寄進。元親軍の往来の邪魔になるので火をつけると暴風が起こり木の葉が数千の蜂となり襲いかかる神罰にあい恐れをなし、神仏に詫びて、その夜のうちに再興したところ慌てて柱を逆に建ててしまったことから「長曽我部の逆木門」と呼ばれた。
しかし、この逸話は長曽我部を辱めるための創作で、それまでここに門は無かった。万治3年(1660)京仏師弘教宗範咲の彫った持国・多門の二天が安置され、二天門となる。明治12年(1879)の改築の際に逆木門の「逆」の字を嫌い「賢木門」と書くようになった。
遙拝所:ここから伊勢神宮や皇陵を拝するところ。明治初年の建立。
闇峠 - 本宮手水舎 - マイナス1段 - 連籬橋
真須賀神社(ますがじんじゃ・祠):入母屋造。祭神は建速須佐之男尊と后神。
御年神社(みとしじんじゃ・祠):流造。祭神は大年神、御年神、若年神。
事知神社(ことしりじんじゃ・祠):流造・銅板葺。祭神は積羽八重事代主神ほか二柱。
本宮(前述)★[785段]:最後の133段の「御前四段坂」を上ると本宮前に。
※一之坂鳥居
一之坂鳥居
鼓楼
鼓楼
大門(おおもん)
大門(おおもん)
五人百姓
五人百姓
桜の馬場
桜の馬場
宝物館
宝物館
高橋由一館
高橋由一館
書院(重要文化財)
書院(重要文化財)
四脚門(重要文化財)
四脚門(重要文化財)
祓戸社
祓戸社
旭社(重要文化財)
旭社(重要文化財)
賢木門
賢木門
遙拝所
遙拝所
連籬橋、真須賀神社
連籬橋、真須賀神社
本宮は目前
本宮は目前
本宮エリアからの下り
大山祇神社(祠):本宮エリアからの下り石段の途中。流造。祭神は大山祇神。
旭社(重要文化財):天保8年(1837年)に二万両の寄進で建てられた銅瓦葺の二層入母屋造の建物で高さ約18m、神仏分離以前は金堂であり薬師如来と十二神将を金毘羅大権現として鎮座していたが、現在の祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神で本宮を参拝した後に参拝する習わしである。全体に多くの美しい彫刻がなされ、そのあまりの豪華さに江戸時代に参拝した森の石松は本殿へ行かず、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられる。旭社に向かって右前にある雨水を溜める大きな鉄瓶に一円玉が浮かぶと願いが叶うという。
廻廊:旭社の向かい。1854年建立、1901年改築。約32m。
本宮エリアから山頂へ
※本宮の神饌殿の右の北透垣の奥にある鳥居が上り口
常磐神社(祠):祭神は武雷尊、誉田和気尊。
白峰神社の随身像
白峰神社(しろみねじんじゃ)[923段]:本殿に祀られている崇徳天皇の神社として坂出市の白峯寺にある頓証寺殿を明治11年(1878年)4月に白峯神社とし当社の摂社としていたが、明治31年(1898年)9月に白峯寺へ返還し、当地に新たに白峰神社を創建して崇徳天皇を祀った。
本殿 :大正2年(1913年)建造、流造。祭神は崇徳天皇、待賢門院、大山祇神。
随身門:白峯寺頓証寺殿の勅額門から明治31年(1898年)に移された源為義・為朝像
拝殿:入母屋造
御守所:ご朱印あり。
菅原神社(祠):祭神は菅原道真命。
奥社・厳魂神社(いづたまじんじゃ):[1368段]の石段を登りきった先に鎮座する。戦国時代の別当金剛坊宥盛(慶長18年1月6日没)を明治に入り厳魂彦命として祀った。
本殿:檜皮葺・流造、明治38年(1905年)建立
向唐門:檜皮葺
拝殿:檜皮葺・入母屋造
御守所:ご朱印あり。
威徳巖:社殿に向かって左の岩壁で天狗とカラス天狗の彫物が掛けてある。
龍王社(祠):山頂にある。 (出展; /Wiki)
ーーーーーーーー M2:【金毘羅大権現 金光院別当「宥雅・宥巌・有盛」についての読書ノート 】2017年07月07日
金光院別当「宥雅」の「業績」について 房号「洞雲」
①金比羅堂を建立しながら正史からは「抹殺された存在」
②西長尾城主の甥(弟)で、金光院別当職を宥盛と争う。
③三十番神にかわる金比羅大権現を新しい守護神に据え、金比羅堂建立。背景に仏法興隆の三十番神だけでは、「現世利益」に対応できず。強力な霊力の新たな神の勧進が必要。
⑤滝寺からの伝来する十一面観音を本地仏として、その垂迹として金比羅神を草創。
⑥金比羅神の創始を鎌倉末期以前のことと改作
⑦「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合。
⑧三十番神の祭礼(法華8講)を金比羅大権現の祭礼として転用
⑨金比羅大権現は、松尾寺金光院を別当寺として出発
⑩長宗我部の侵入で長尾方に属した宥雅は、宝物を持って堺逃亡。
⑪仙石秀久の讃岐支配で帰国できると思ったが・・
生駒家に訴え出るも許されず「宥巌」に松尾寺を譲った?
⑫宥巌が没して宥盛が別当になると非を並び立て、生駒家に提訴
⑬生駒家での裁判。その時の記録が「洞雲目安申」。
「宥巌」なきあと別当を継承した「宥盛」への断罪するも失敗
⑭16世紀末には、松尾寺別当金光院から、金比羅大権現(社)別当金光院への衣替えを勧めた?
「洞雲目安申」には、次のように非難されている
「宥雅の悪逆、四国に隠れなき候、・・女犯魚鳥を服する身として、まひすの山伏と罷成」
本来の松尾寺の性格は?
①鎌倉前期 小松庄の琴平山の谷筋の墓所墓寺的な存在
②鎌倉末期 宥範の時代には、松尾寺・称名院や三十番神の混在。
③1585(天正13)年の仙石秀久からの禁制はあるが寄進状はなし。別当の金比羅大権現には寄進あり。
④金比羅大権現の勢力が松尾寺全体を席巻する状態?
⑤本地仏十一面観音。
本社前脇に海に向かって建っていた観音堂。
この本尊は大麻山の滝寺の本尊を移したもの。
前立十一面観音も、麓の小滝寺の本尊。
「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合は?
①中世の法勲寺の僧侶によって広められていた悪魚退治の物語。
松尾寺の僧侶は、その上に悪魚を神として祭る金比羅信仰の創設と流布。
②「宥範縁起」の中で悪魚が「神魚」に変身伝説、
それをインド仏教のクンピーラに宛てた。クンピーラはガンジスのワニの神格化。 中国で千手観音菩薩の守護神化し日本伝来。
③しかし、松尾寺の本地仏は十一面観音で千手観音ではなかったので改造工作?
④それまでの松尾寺の守護神は三十番神
古くから象頭山に鎮座していたのは三十番神。
⑤言い伝えは?
外来の金比羅大権現が後からやってきて、この地を「十年」ばかり貸してくれ。三十番神が承知すると、金比羅大権現は三十番神が横を向いている隙に、「千」に書き換えてしまった。
「古来の三十番神はひさしを貸して母屋を金比羅神に乗っ取られてしまった」というのが地元の言い伝え。
⑥この説話は旧来の地主神と後世に勧進された新参の神との関係を示すもの。
長宗我部元親の関与と宥巌
① 1583(天正11)年 長宗我部元親寄進 松尾寺仁王堂の棟札
②三十番神を修復し、仁王堂新築。後の二天門「こんぴらのさかき門」だが、こんぴらの名前は見えない。
後に松平頼重が新築して寄進したときには金比羅の二天門。
③同年に三十番神も建立
当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。
④元親は「四国の総鎮守」として金比羅大権現を創建?
⑤土佐軍占領下の金比羅。
金比羅大権現が松尾寺に取って代わる「変革」が起こった?
⑥第3代「別当宥巌」は元親の陣中にいた南光という修験者。
彼は土佐の当山派修験道のリーダーで、元親により金光院別当に任命
1600(慶長5)年死亡。後の金比羅大権現にとって、長宗我部に支配され、その家来の修験道者に治められていたことを隠す意図が生まれてきたのでは?
⑦後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585(天正一三)年まで以後は隠居としている。 実際は1600(慶長5)年まで在職 江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られる。
金比羅大権現の基礎確立した金光院別当宥盛について
①生駒藩家臣・井上家(400石)の嫡男で高野山で13年の修行
宥雅の法弟で、宥目見の兄弟子
②弟は助兵衛は生駒藩に仕え、大坂夏の陣で落命
③1586(天正14)年 長宗我部ひきあげ後に帰国。
後援者をなくした別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
④1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍
堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける
⑤金比羅神の神格化「由来書」の作成。
「金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。
善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
⑥修験僧「金剛坊」として多くの弟子を育て、道場を形成。
⑦土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首に。
⑧真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る。高野山南谷浄菩提院の院主を兼任
⑨三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと「接木」工作
⑦1606(慶長11)年自らの姿を木像に刻み。「長さ3尺5寸 山伏の姿 岩に腰を掛け給う所を作る」とあり修験姿の木像。自らを「入天狗道沙門」
この時期までの別当職は山伏・修験道の色彩が強い。
⑧1613(慶長18)年1月6日 死亡
観音堂の横に祭られ「金剛坊」と呼ばれる。
⑨1857(安政4)年 大僧正位追贈、金比羅の守護神「金光院」へ
⑩1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」創設。
⑪1905(明治38)年神殿完成、現在の奥社は、山伏であった有盛を祀る神社。行場であった磐の上には天狗面が掲げられている(出展; /金毘羅大権現 金光院別当「宥雅・宥巌・有盛」についての ...瀬戸の島から⇒https://tono202.livedoor.blog › archives)
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ーーー 初版20240915 昨日の東京都心大手町最低気温26.3℃ 最高気温34.5℃、、 全国では 長崎南島原口之津の37.8℃が最高気温、以下佐賀嬉野37.3℃ 兵庫豊岡37.0℃ 福岡太宰府・広島安芸加計・福岡同市・鳥取米子36.9℃ 長崎佐世保36.8℃ 佐賀白石・福岡糸島前原36.7 真夏日全国682-635-593 猛暑日152-119-69地点(順に11水-12木-13金)
ー時節項追記前日深夜未明迄 ※14土の内容が中心 ① ▷猛烈な暑さ 来週末に 収まる見込み 18:05 ▷台風13号 奄美直撃か 大荒れ予想 12:35 ▷異例の残暑 10月中旬頃まで 続く 21:22 ▷14土から三連休 真夏のような 暑さ 16:18 ①【震災関連】 ▷能登から青梅に 避難 就活励む学生 15:09 ➊ ▶洪水の救助に 水上バイク王者 ~タイ 13:22金 ② ▷明治神宮外苑再開発 見直し案で小池都知事「都民の理解と共感を」16:57金 > …やはりこの人の差金だったか ▷兵庫知事巡り 県に批判電話 5000件 16:19 ▷総裁選で討論会 政策論戦 本格化 15:11 > 肝心な処は結局同じ、変わらないかと ▷長崎県知事 資金集め 匿名性着目か 9:36 ▷立憲代表戦 ベテラン復帰も 論点 14:11 ▷電気・ガス補助金 再延長案 浮上 17:27 > 万博より先ずコチラでは? ▷万博整備 最大90億円追加 の方針 21:44 ▷警察の情報収集に 違法性 高裁 16:50金 ▷堀井学元衆院議員 有罪 確定 14:25金 ▷強制赴任巡り 和解 訴訟全面解決へ 18:08金 ▷石破氏 投票先1位 党員らに調査 17:27金 ▷総裁選9候補 裏金再調査は 否定的 20:12 > …だから誰も信用できない、、 ▷兵庫県知事 迫られる 失職か議会解散 1:07 ▷総裁選 「防災相」構想で 意見対立 22:58金 ➋ ▶ハリス氏巡り 発音誤り 市長に非難 15:56 ▶激戦州勝利へ ト氏陣営の 戦略 10:45 ▶北から 謎の騒音 韓国住民支障 20:20 > ゴミ風船の第二弾? ▶T・スウィフトの支持 選挙への 影響 19:48金 ※世界的人気歌手。ハリス氏への支持を表明したことで若年層の支持が得られたとしている。 ▶露軍砲撃 赤十字の職員5人 死傷 11:26金 ▶露 中国製エンジンの無人機 製造 23:41金 > やはり中国が武器供与か、、 ▶英 露への長射程兵器 容認か 7:38 ③ ▷缶チューハイ 多様化進む 低度数品 19:42 ▷埼玉 産地化目指す 「ポポー」とは? 9:02 ▷いきステ 再建 社内環境に変化 12:40 ▷小林製薬 糸楊枝 一次販売休止 17:49金 ▷長すぎる残暑 秋物商戦に 異変 21:08金 > 10月中旬まで続くという報道もありましたが、、 ▷セブン&i 外為法上「コア業種に」22:53金 ▷来週 東電管内で電力 逼迫か 20:51金 ➌ ▶◭米紙推薦の 山口市 乏しい観光効果 12:42 ▶底見えぬ 中国の不動産不況 識者は 12:25 ▶米の富豪ら 世界初 商用宇宙遊泳 21:29木 ▶米マクドナルド 格安セット 再延長 18:54 ▶中国 退職年齢引き上げへ 報道 16:49金 ◭▶USスチール買収 米が判断 延期か 8:06 > 日鉄の買収 両社が米大統領に 書簡 19:51金 ④ ▷先発薬 希望なら料金追加へ 仕組み 17:31 > いよいよ日本、悪政でドイツ化するのか、、呆 ➍▶ ⑤ ▷大橋悠衣 引退 最後のレースで涙 17:51 ▷バト フクヒロ ペア解消 17:48金 ▷異例 豊昇竜が敗戦後に 礼やり直し 19:05金 > 少年野球? ▷五十嵐有紗 バト協会に 「怒り」も 21:47金 > バト協会 またミス 大会出場できず 16:29 > 他に仕事で? 何をしている団体なんだろ? ➎ ▶ウッズ 腰の手術 復帰時期は未定 10:04 ▶◭サニブラウン 初DLファイナル 6位 7:35 ⑥ ▷JR東海 車軸11本目に 目安超え圧力 14:52 ▷道央道 バスが炎上 乗客避難 18:05 ▷イチョウ下敷き死亡事故 連鎖的な枝が折れたか ギンナン影響も~東京日野の緑地歩道 20:35金 ▷イルカに噛まれ 3年で53人 負傷 8:23 ▷リンゴの木 腐る病気拡大 原因 11:02金 ▷パラ銀の陸上選手 6人を 刑事告訴 21:14金 ➏ ▶中国から台湾へ 密航者 相次ぐ 18:08 ⑦ ▷「ロッキン」茨城に帰ってきた オビジェ新装 地元「感無量」18:30 ※ひたちなかの国営ひたち海浜公園で開かれる国内最大のロックインジャパンフェスティバル。 ▷逃げた大型犬3頭 水から戻る ~千葉 18:26 > 千葉は動物逃げられたのニュースが多いような… ➐▶ ⑧ ▷石棒の聖地 岐阜・飛騨市宮川 縄文時代の遺跡から1056本出土 8:29月9 ▷低山登り ブーム 何が魅力? 9:57 > 人に迷惑が掛からないので良い事かと ▷教材 しまじろう妹誕生 狙いは 13:41 ▷スマホ禁止 「飛騨職人宿舎」とは 12:46 ▷片手で 納豆食べる 女子高生開発 19:36 > ⁉ どうやるんだろ ▷私立大 6割が定員割れ 過去最多 21:31 ➑ ▶◭尻呼吸 日本に イグノーベル賞 7:59 ▶豚肉団子? タイの カバ赤ちゃん👇 22:23金 ⑨ ▷ハム敗れ SB勝ちで M一気に「8」土 ▷De 中に2-4敗れ 痛い1負けで60敗目 土 ▷巨、ヤに完敗 6表村上&サンタナ連続被弾 土 ▷De負けで 巨 今夜勝てばM点灯 土 ▷神・森下 2日連続死球 ざわつく 17:23 ▷神 甲子園7連戦 広島に連勝 土 > 神・岡田監 サヨナラ勝利も 苦言 20:10 ▷一青窈 ロー西戦始球式で 見事な投球に歓声 20:58 ▷オリ悲劇 8回だけで3人 負傷交代 23:05金 > 裏方も大変だったのでは? ▷広 5連敗 3位転落 金 > 9月 2勝9敗 23:14金 ▷神 先発全員安打で2位浮上 高橋4勝目、前川猛打賞&森下4試合連続 金 ▷ヤ・村上 青木の引退会見で 涙止まらず 16:10金 ⑨【ペナント結果】 《セ》▷ヤ4-1巨 ▷広3-4×神 才木付かず 森 ゲラ◌ ▷中4-2De 《パ》▷ソ10-1オ ▷ハ5-7楽 ▷西0-1ロ ⑨【順位表👇;出展:スポナビ】 ➒ ▶ド軍のエース 復帰が白紙に 予定のメニュー消化できず 土 > ド軍、地区優勝してもPSマッチ、大谷投げないと厳しそうだ、、 ▶大谷 10月登板 監督が可能性言及 10:48 > 10月と云う事はPSマッチでかな? ▶菊池雄星 移籍後負けなし 5連勝 13:40 ▶NYジャッジ 豪快逆転満塁52号 17試合振り14土 > 16試合ノーアーチは自己ワーストだったとも ➒【MLB試合結果】 《A》▶Ori0-1T ▶RS4-5NY▷吉田4DH 4-2 2点 1本 .288 ▶Ray3-1Ga ▶Ath2-0WS ▶Ast5-3A▷菊池7回85球 3安打3失点 6K2四 勝◌ 通算8勝9敗 183K 防4.31 ▶TxR4-5マリナ 《N》▶Met11-3Ph ▶マーリ1-4Nat ▶D2-6ブレ▷大谷1DH 4-0 .290 ▶Cub5-9Roc▷鈴木3DH 5-1 .273 ▶ブリ2-1DB ▶Pd5-0G 《I》▶Roy8-3P ▶Kaj3-4BJ▷ヌート7RF 3-1 .247 ▶Red8-4Tw ⑩ ▷共テレ元会長、ドラマ作家で吉永小百合(79)の夫 岡田太郎さん死去。94歳。 16:45 ▷「よせばいいのに」「わたし祈ってます」などのムード歌謡で知られる敏いとうこと伊藤敏(サトシ)さん 死去。84歳。 7:31 ➓▶ ⑪【J等性被害・芸能関連N】 ▷稲垣・草薙・香取 音楽番組 出演 19:50 ▷ネットゲームから 子の性被害 増加 10:21 ◮⇗元AKB本田仁美 韓国で 再デビュー 13:50金
⑨👉 NPB順位《セ》9/14土 21:19第25週後半第2戦終了時 1 巨 68勝55敗6分② ー 次戦 中 東京D② 2 神 67勝58敗6分12 2 次戦 ヤ 甲子園② 3 広 63勝58敗5分⑤ 2 次戦 De マツダS② 4 De63勝60敗2分⑥ 1 5 中 54勝69敗8分13 9 6 ヤ 54勝70敗4分③ 0.5
👉NPB順位《パ》セパ45カード目(調整週)。同上21:59更新 1 ソ79勝45敗3分② M8 次戦 オ 京セラD② 2 ハ67勝52敗8分② 9.5 次戦 楽 楽モバ② 3 ロ65勝58敗6分14 4 次戦 西 ベルーナD② 4 楽61勝61敗3分➃ 3.5 5 オ58勝68敗3分14 5 6 西41勝86敗2分14 17.5 ※ 「勝敗分」後ろの丸数字①~は、雨天中止・移動日などで 未消化数。 付いてない球団が最も消化数が多い。丸数字はそことの消化試合数の差。👇
※ 👉 最多消化チームの所には、残り試合数(全143試合) ※ 日木の次戦は翌日日程。そうでない場合は日付表記。※👇 ※ 👉次戦後ろの➋➌は初日からこのカードの試合数。 ①②は中数日や移動日含みの2戦、地方球場遠征や、消化試合等変則日程。 ※ 揺れ、誤植ご容赦 <()>
※神 残13試合 広1・巨2・De5
広 残18試合 巨3・De3
巨 残15試合 De5 🔴チェック了
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(画像・ 1上下) 片道30分、とありましたが、休まずだと概ね1.3秒少々@1段 ということになりますのでお元気な方でないときついかと 上/1368段目の階段に挑戦!こんぴら 旅色
【訂正】 30分は奥社までの時間でした👇
参拝には、どのくらいの所要時間がかかりますか? 石段1段目から785段目の御本宮まで片道約40分、御本宮から583段登った奥社までさらに片道30分かかります。 もちろん人によってかかる時間は違いますので、目安としてお考えください。2023/04/27 (出展;/ゴールデンウィーク Q&A - 金刀比羅宮
⇒https://www.konpira.or.jp › 20230427_GW_QA › article)
下/一生に一度はこんぴらさん♪ トラベルマルシェ
(画像・ 2) /琴平町観光マップ
(画像・ 3) この担ぎ手さん達は通算で何回参拝されているのだろうか、、 /金毘羅さん名物「石段籠(カゴ)」 毎日新聞
「宥珂(=宥雅)上人様
当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
…とあって、当時、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。 (出展;/ライブドアブログ)
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⑧👉(画像・ 5上下) う~ん、、こんなに黒いのあったっけ? 丸いのは分かるけど、、 上/豚肉団子? タイのカバの赤ちゃん Yahoo
下;気になって調べてみました。豚肉団子、ルークチン・ムー・… ピン(炙り)? トート(揚げ)かな? /肉団子「ルークチン」ลูกชิ้น は重宝な食材 わが心はタイにあり
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