上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

中山道69次を歩く (高宮~武佐)夜行バスで行く

2024年04月30日 | 街道を歩く
   




【25日目 近江國 滋賀県】 令和6年(2024)4月25日(木)曇り→晴れ
 歩行距離:高宮駅~武佐駅 22.1km(累計531.3km) 
 行  程:24日前橋駅22:58=(9,400円)=6:30京都駅7:03=(1170円)=7:55彦根駅8:04=(250円)=8:13高宮駅8:35--8:52高宮宿--9:07法土の一里塚--10:30石畑の一里塚--12:15愛知川宿--12:50愛知川の一里塚--13:24小幡追分--14:20石塚の一里塚--15:55西生来の一里塚--16:05武佐宿--16:44武佐駅16:54=(180円)=17:00近江八幡駅--コンフォートイン近江八幡泊(朝食付4550円)

 貧乏旅行も終盤戦、京都まで夜行高速バスを利用




夜行高速バスは初体験
横に3列で前後に少しずれてリクライニングとフット&レッグレストが付いて快適だが
やはり熟睡は出来ず朝首が痛くなったので首枕があると良かったかもしれない。



【64 高宮宿着】


京都駅から前回終点、近江鉄道高宮駅まで戻り出立



高宮宿の街並み



座・楽庵 高宮布の問屋布惣跡
高宮布は高宮の周辺で産出された麻布、夏の着物に適し、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重された




高宮神社 高宮宿の氏神で、縁結び、夫婦和合、開運厄除けの神
明治三年(1870)の大水害で、多くの旧記が流され沿革は殆ど判っていない




多賀神社大鳥居
多賀神社の祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)で、天照大神の親神にあたるところから「お伊勢に参らばお多賀に参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」と謡われ、高宮宿は多賀大社の門前町として賑わった




紙子塚
貞享元年(1684)の冬、この小林家に一泊した芭蕉は酒のもてなしも無く腹が立ったのか
「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」詠んだ
小林家は芭蕉と知ると新しい紙子羽織を贈り、庭に塚を作り古い紙子を収めて紙子塚と命名した
いつの世も現金なものだ



脇本陣跡
門前には高札場があり、慶長十三年(1608)からは問屋を兼ねた




本陣跡 表門のみが残されている





浄土真宗本願寺派三光山円照寺 明応七年(1498)創建
このあたりから、浄土宗と浄土真宗の寺が続く
浄土真宗の寺は屋根がせり上がった立派な本堂が特徴的





「無賃橋」「むちん橋地蔵」
天保3年(1832)、彦根藩は高宮宿の有力者らに命じて犬上川に橋を架けさせ、渡り賃を払わなくても良い橋にしたことから「むちんばし」と呼ばれるようになった。
「むちん橋地蔵尊」は 昭和52年(1977)に橋の改修工事の際に、発掘された2体の地蔵尊を祀っている。




法土一里塚 江戸日本橋より百二十里目  9:07 高宮駅から1.5km
四の井川を新安田橋で渡り高宮から旧法士村(ほうぜむら)に入った所
石碑は一里塚の「一」の字のところで割れていた




真言宗豊山派延命山月通寺
山門前に「不許酒肉五辛入門内」と刻まれた石標は延命山地福寺といわれ禅寺であった頃の名残
「不許酒肉五辛入門内」とは酒や匂いの強いもの持ち込み禁止ということで
五辛(ゴジン)とは葫(にんにく)・韮(にら)・薤(らっきょう)・葱(ねぎ)・蘭葱(ひる)
結界を表すもので他に「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)「禁葷酒」「山門禁葷酒」「不許芸遊客」などがある。葷(くん)は五葷、五辛(ごしん)ともいう





浄土宗摂取山了法寺 大正元年(1912)の開基で
浄土宗は法然、浄土真宗は親鸞


真宗大谷派甑谷山(そうやざん)還相寺(げんそうじ)
開基不詳、真宗のお寺にしては地味



鹿島神社
茨城県の鹿島神宮を本社とし、武甕槌神(たけみかづち)を祭神とする神社で、武神であるところから武家の崇敬を篤く受けた



松並木彦根市モニュメント
近江上布(高宮布)の麻を背負った婦人、菅笠を被った旅人、近江商人の像
彦根市から出る側には「またおいでやす」反対側には「おいでやす彦根市」
彦根市,鳥居本宿の江戸口には近江商人、旅人、虚無僧の像のモニュメントがあった




犬神郡豊郷町に入る


豊郷は「間の宿 石畑」



豊郷町のマンホールは、江州音頭の発祥地として「提灯」と「踊る人」。町の花つつじ、 中央の「町章」は豊郷の「とよ」を図案化したデザイン



日枝神社 村の鎮守



豊郷の街並み



豊郷小学校旧校舎群
昭和十二年(1937)丸紅専務古川鉄次郎の寄付とアメリカ人ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計で建てられた、鉄筋造りの小学校で、東洋一といわれた
*ウィリアム・メレル・ヴォーリズ:1880年 - 1964年、1941年帰化し一柳米来留、建築家でありメンソレータムの近江兄弟社を設立したり、マッカーサーと近衛文麿との仲介工作を行うなど多才

外国人も近江商人になるとは、「人傑いずるは地霊による」のかもしれない


石畑の一里塚跡 江戸日本橋より百二十一里目 10:30 高宮駅より5.5km




石畑(間の宿)碑
石畑は高宮宿と愛知川宿の中間に位置し間の宿として発展し、立場茶屋があった




くれない園・伊藤忠兵衛翁碑
商社伊藤忠と丸紅の創業者、伊藤忠兵衛の顕彰碑



金田池碑
湧水があり、田の用水や旅人達の喉を潤してきた
モニュメントの上の藤棚には白い藤が咲いてる



柳池分水工
農業用水を分配する利水施設。 江州音頭が描かれている




又十屋敷一里塚碑
江戸末期より蝦夷と内地との間を北前船で交易し、財を成した近江商人藤野喜兵衛屋敷跡
明治に我国初の鮭缶の製造を始め、後にアケボノ缶詰になった
屋敷前に郷町石畑にあったものをここに移した「中山道一里塚址」




江州音頭発祥地碑と臨済宗永源寺派日吉山千樹寺
この地域では浄土宗・浄土真宗以外の寺は珍しい 



歌詰橋
天慶三年(940)平将門は藤原秀郷によって東国で討ち取られ首を京まで運ばれる途中
この橋まで来ると、将門の首が秀郷に襲いかかってきた、秀郷はとっさに歌を詠んでほしいと頼むと首は歌に詰まって橋上に落ちたという伝説がある




沓掛三叉路旗神豊満大社道標




【65 愛知川(えちがわ)宿着】 12:15 高宮駅より10.5km




旧愛知川町のマンホール
愛知川街を流れる5河川と愛知川祇園納涼祭の「花火」がデザインされている
愛知川町は2006年に秦荘町と合併し愛荘町になっている



郡分延命地蔵堂 愛知川宿北入口標石
手前の橋が郡堺




真宗大谷派負別山宝満寺
開基は真言宗であったが鎌倉時代に浄土真宗になった
本堂は近世浄土真宗大伽藍、せり上がった大屋根が特徴



本陣跡
「愛知川ふれあい本陣」交流館 旧近江銀行をリニューアルした
中に入ると天井は高く、大金庫が残されていたが鉄製の扉は戦時中供出されて今は無い



八幡神社と高札場




問屋跡
街中に手作りの暖簾がかかっているが2008年から地域活性化事業で始めた「のれんアート」
毎年テーマを決めて募集しているが今年のテーマは「あれ」



街路灯には愛知川宿を行き交う旅人が載っている



「料理旅館竹平楼」  宝暦八年(1758)創業 建物は国登録有形文化財



愛知川宿の京方出口
手前を流れる不飲川(のまずがわ)の橋には愛知川の伝統工芸「びん細工てまり」のモニュメントが飾られている



愛知川の一里塚 江戸日本橋より百二十二里目 12:50 高宮駅より10.5km





恵知川の無賃橋祇園神社
愛知川は以前は「恵知川」と書いた
無賃橋は天保二年(1831)地元有志によって建設され、祇園神社は天保九年(1838)無賃橋の守護神として勧請された。無賃橋は現在御幸橋となっている。




【五箇荘】愛知川宿と武佐宿の中間で近江商人誕生の地



愛知川左岸(京側)の灯篭
愛知川右岸(江戸側)の祇園神社の灯篭と対をなし「睨み灯籠」とも呼ばれている
遠くに見えるのは伊吹山だろうか



秋葉山常夜燈 近江に入ってからあまり見られなくなった火伏の神秋葉山


このあたりの火伏の神は愛宕神社




五箇荘 旧小畑村には小幡人形窯元があり、「小幡でこ」とも呼ばれる土人形



東近江市(旧五箇荘町)のマンホール
中央は五箇荘町の五の字を図案化、周りは毘沙門亀甲模様というそうだ



五箇荘の街並み




道標「右京みち 左いせ ひの八日市みち」 黄色→が中山道
五箇荘小幡から八日市を経て東海道の土山宿を結ぶ、御代参街道との分岐
江戸時代中期、皇族の名代が伊勢神宮や多賀大社への参詣に通ったことから御代参街道と名が付いた


大神宮常夜燈




松井家住宅、昭和三十九年(1964)まで五個荘郵便局として使用された
大正十四年(1925)に竣工した木造二階建、モルタル仕上げ(国有形文化財)




天保十五年(1844)建立の常夜燈
道標を兼ね「右京道 左いせ ひの 八日市」左方面が伊勢への御代参街道




市田庄兵衛家住宅 明治初期の建築で市指定文化財




金毘羅常夜燈は天保八年(1837)の建立



旧片山家住宅(茶屋本陣跡)ういろう(外郎)が名物だった



観音正寺道標「三十二番かんのん正寺」享和三年(1803)建立
西国三十二番札所、繖山(きぬがささん)観音正寺への道標




石塚の一里塚 江戸日本橋より百二十三里目 14:20 高宮駅より14.7km



天秤の里像
天秤棒は売り手と買い手が釣り合ってこその商売



清水花の名水
湖東三名水;米原市の「醒井(さめがい)の水」、彦根市の「十王村の水」、東近江市五個荘の「清水鼻の水」
古代日本の五畿七道の30里ごとに置かれた駅家(えきか:馬約15頭)が設けられた地





東近江市五箇荘と近江八幡市安土町の堺


旧安土町の町章のデザイン

旧安土町のマンホール
永楽通宝は安土城を築城した信長家の家紋、Sewerageは下水道の意

近江八幡市のマンホール
八幡堀の両側に白壁の蔵の風景と奥には八幡山。 近江商人のそろばん玉の柄の暖簾と市の木・サクラのデザイン


大神宮常夜燈



中山道は左に、右は西国33観音32番札所観音寺





老蘇森(おいそのもり:国指定史跡)と奥石神社(おいそじんじゃ:延喜式内社)



轟橋常夜燈
常夜燈脇から「飛び出し坊や」は滋賀県東近江市発祥で今年50周年だそうだ



奥石神社御旅所
奥石神社の祭礼の際、神輿を仮に鎮座しておく場所



浄土宗圓明山西福寺泡子延命地蔵尊



西生来一里塚 江戸日本橋より百二十四里目 15:55 高宮駅から19.7km



【66武佐宿着】 16:05 高宮駅より20.0km


大門跡 武佐宿江戸口




牟佐神社(武佐宿の氏神)と高札場跡



奥村脇本陣



旧八幡警察所武佐分署庁舎(明治19年建築:国登録有形文化財)と武佐宿の街並み



武佐宿常夜燈モニュメントと武佐宿解説板
享保十三年(1728)安南国(ベトナム)より八代将軍吉宗に献上された象は武佐宿に宿泊した


武佐宿の街並み



武佐宿本陣跡



八風街道道標「いせ みな口 ひの 八日市 道」
八日市、鈴鹿山系の八風峠を越えて伊勢に至る



松平周防守陣屋跡 武佐の地は川越藩松平家の飛び領地



愛宕山常夜燈と愛宕山碑 火伏の神



ベンガラ塗の家並みが続く武佐の街並み



愛宕山常夜燈と愛宕山碑 西の高札場があった



近江鉄道武佐駅
本日はここまでで、宿の近江八幡駅へ向かう



夕飯は初めて入る「餃子の王将」
「硬焼きそば&餃子&生中」で1.411円とリーズナブル



これまでの記録はこちら



初めて乗る夜行高速バスと初めて入った餃子の王将
馬齢を重ねてからの初物は勇気がいりますが
長い街道歩きを如何に安く乗り切るかが課題でもあります
しかし浅知恵はかえって高くつくこともありますが
それも旅の良い思い出にしようと思う今日この頃です

 ↓そんな訳で 押していただくとたすかります





 地図


参考1:「ちゃんと歩ける中山道69次」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡:GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア
参考6:「長野県:歴史・観光・見所」
参考7:日本の街道を歩く旅


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