教科書やマニアルにはない考え方。

これはいずれ本を書くためのメモみたいなものなので、理解不能・誤字脱字でいっぱいです(^▽^;)

ガイアの発動(幻術)

2014年03月06日 | 日記

幻術にかかりうる危険性は私たち人間の「心」と「経験」と「情報、メッセージ、コード化」の「記憶」に依存し、心的な同一性が維持されなくなる可能性にゆだねられ、一見、具体的ではあるが非接触的な予測と現実、快と不快の連続的な変換の構成素の産出関係によって幻術とされる。その構成素の産出は、「心」と「経験」と「情報、メッセージ、コード化」の「記憶」の歴史でもある。もちろんその中で予測と現実、快と不快の選択をするのは自律的意思を持つ自我との葛藤にゆだねられる。通常その歴史は、接触の中にある経験により危険性を察知るが、付け込まれる非接触的な言語とイメージとの葛藤の中で「情報、メッセージ、コード化」により不可解な選択を生じさせる。永遠の平均値を持つスコラ学を信じ学び続ける私たちには十分な危険性があり、そして、自身の移り行く「心」の世界の様々な規制の中での貸し借り、または入力と出力の計算、支払いと受け取り、つまり社会的交換理論のもとに巻き込まれてしまう。それが幻術だ。

幻術をかけようとする者の起源とは、わかってもらおうとすること、あるいは強制することそれだけである。幻術にかかる者の起源は、スコラ学の学びの文化や道徳的に答えることと、それに馴染みある強制にこたえることだけである。実際、それに従属しないで失敗することは現在の規制を否定することに通じる非社会的な行動(行為)と見なされ、内的(心的)な攪乱状態の環境の内容の確認までは至らない。そこまでの関心がないのである。「天才と馬鹿」などの基準を定めるための原点でもあり、現在の信仰をありのままに表現した強制と共生の幻術の条件である。

幻術が物理的空間内で生じているということは、「心」が操られ「脳」を刺激し情報として残した実際の経験である。しかし、「心」の経験による「記憶」ではあるが、接触という体感ではなく非接触的なメッセージだけを受け取る独立したネットワークの中に存在することになる。本来、接触のない経験と体感は存在はない。子育てであれ、趣味であれ、恋愛であれ、仕事であれ、経験と体感をしながら「記憶」として残し、次の経験と体感による攪乱で新たな経験と体感により、新たな生産(生み出す方法や再生産)をするものだ。でも、「独立したネットワーク、それ自体も攪乱であり新たな生産(生み出す方法や再生産)をするのではないか?」とも考えられる・・・・・・つづく。

 



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