偶然のおかげで削ぎ落とされて行く自分自身の
心情は知らない・・・・。
経験は無垢な心情で得られるから
「生きること・活かすこと」を学べるんだよ^^
変わってゆく心情はなかなか自分では確認できないものだ・・・・。
特殊な出来事がない限り認めることは出来ないものだよ^^
仲の良い人にとってもあまりに近すぎて真剣に振り返らない限り、
意識できないものだ・・・・。
でも、
時々会う叔父さんや叔母さん達には成長したことや、
心情の変化を一発で確認できる^^
人の心を覗き見るような偏見の混じった見かたではなく、
無垢な心情で見る事が出来るからなんだろうね。
※無垢=純粋であること
時間が経とうと当時のお前のことはしっかり覚えている。
お前は毎日の物事の中で沢山の影響を受け
曖昧にしか覚えていないはずさ。
人はね、
そんな成長や心情の変化を目の当たりにするたびに、
自分自身の記憶に呼びかけているんだよ。
喜んだり、悲しんだり、見くだしたり、怒ったり・・・・
でもね。きっと、叔父さんや叔母さんも
日常生活で交わっている人たちには偏見の目をきかせ、
自由に選択し、暮らしやすいグループを作っていると思うよ^^
(兄弟よ義兄弟よ、ゴメンね^^;)
何かに対して純粋な目で見ることが出来るのは、
自意識は無く
稀なものに対して働く力なのかも知れない・・・・
無垢(純粋)な目って難しいよね。
意識的に働かせることは出来ないんだ。
それに近いことが出来るとするならなら、
ひざを折り曲げ同じ目線まで、
内股とふくらはぎに力を入れて
下がるまたは飛びあがること
(それとまねること)
かな・・・・?
でも、時代の一般性というものは便利さと効率という意識を摘み取り
変わってゆく・・・・。
作りだしているのはいつも無垢(純粋)な心
なのにだよ・・・・。
些細な細部でしかそれを発揮することはできない・・・・
でも逆に言えば、
些細なものから発したものが
一般性を配置しているんだね・・・・^^
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