《補われた知と対をなすもの-36》
「自己のない心の樹」
本当の自身の願いは、「補われた知の樹と自己のない心の樹」によりる自身の純粋な強制という自由の中に存在するのに、環境と自身への適応の在り方の選択という大きな不自由と、小さな自由に身を置くことになった・・・・・神がかりになるように仕向けた者たちは、理性をあまり必要としない記憶をさらなる専門的一方向の領域(さらに狭くなった世界)で、限界へ向けて予測に応用していた。「自己のない心の樹」を無視するがあまりに概念を仲立ちする不自由な直感や覚知に捉われ、幅狭になってゆく「知と心」に気づかなかった・・・・・最終的に双方が必要としていたのは、何かと何かとの和と差という理解だった。現実の世界に限界に近づける何かを持ち上げ、さらに限界へ近づける何かを削除するという、ともに強制的な理解が必要となっていた(各箇所で現在でも息づいている)・・・・・最終的に行き着いた理解は「削除」・・・・・敵も自身も削除する理解という限界へ至った・・・・・つづく。
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