のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

我々を縛る過去のモノたち

2015年10月19日 14時20分43秒 | 社会運動
SeraphimLucifer@SeraphimLuciferさんのツイートです。

――歴史とは過去を学び、過去を知り、今の世の世の成り立ちを考え、教訓として活かすべきものであり、今を生きる者達が過去に縛られる為の代物では決して無い。今を生きる者達が縛られるとすれば、法、道徳、規範、伝統、宗教的概念、思想等である。 〔10:58 - 2015年10月15日 〕――

人間を縛る掟は、

(1)法

(2)道徳

(3)規範

(4)伝統

(5)宗教的概念

(6)思想等

であるとのことです。

一見、もっともですね。

これに対して、

脱ぎ捨てる者として対置させられているのは、

「歴史」です。

教訓にならないものは、

過去して

否定的に括られています。

ここで、

ツイ―ッタ―の主は、

自信をもって宣言します。

「今を生きる者達が過去に縛られる為の代物では決して無い」んだと。

しかし、この宣言こそ、

時に対して、

謙虚さが欠けますな。

人間というのは、

常に「今」という「過去」と「未来」の接点に生きるしかないのです。

殊更に

「過去に縛られない」

と言って、

過去を忘却しようとして、

過去にしっぺ返しを食らうのが関の山です。

SeraphimLuciferさんの

思想的な欠陥は、

時間軸に社会性がないことです。

不都合な過去は、

自分が忘れても他人が覚えてくれています。

しかし、

この一見、不愉快な現象こそ

命そのものの息吹です。

過去に縛られるのが肯定される

「教訓となる」

場面というのは自己都合でしょう。

実は、

他人の都合で

過去に縛られるのが肯定される事態というのは、

結構あります。

それが実は、

SeraphimLuciferさんが列挙された

(1)~(6)です。

いずれもこれ、過去からの贈り物として

今も命脈を保っています。

かつて

サルトルが

マルクス主義が捨て去られない理由として

次のように述べました、

「資本主義が克復されていないから」と。

すなわち、

資本主義が機能して、

過去の遺物と言えない以上、

批判者のマルクスは、

不死鳥だ、

というわけですね。

以上の経緯を住友陽文@akisumitomo さんが

うまく整理して

ツイートされていたので紹介します。

――誤解されていると思うが、法もまた歴史、歴史が法を作るのだ。法によって拘束される、それは歴史によってと同じだ。そのためにこそ歴史はわれわれにとって不都合なことも含めて明らかにし、そこからまたわれわれを常に相対化しておかねばならない。〔15:22 - 2015年10月15日 〕――


最新の画像もっと見る

コメントを投稿