小川一@pinpinkiriさんのツイート。
――毎日新聞のストーリー「今も闘う空襲の被害者」です。戦勝国のイギリス、敗戦国のドイツですら民間の戦争被害者に一定の補償をしています。しかし日本は違います。「戦時災害援護法案」が89年までに14回国会に提出されましたが与党自民党の反対でことごとく廃案に。〔6:02 - 2018年5月20日 〕――
〔資料〕
「今も闘う空襲の被害者(その2止) 戦争止める力にも」
毎日新聞社(2018年5月20日 )
☆ 記事URL:https://mainichi.jp/articles/20180520/ddm/010/040/170000c

衆院第1議員会館で開かれた集会で、マイクの前に向かう全国空襲被害者連絡協議会の安野輝子さん(右)=東京都千代田区で3月8日、小川昌宏撮影
◆空襲被害 国に救済法求め運動
民間「受忍」 司法の壁
私が安野(あんの)輝子さん(78)=堺市=と初めて会ったのは8年前、2010年の夏だった。東京で開かれた全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)の結成集会。最初は「支援者かな」と思った。当事者とは思えない柔和な笑みをたたえ話していたからだ。しかし国を相手とした大阪大空襲国家賠償訴訟の原告団23人の先頭に立つ、代表世話人だった。
実家があった鹿児島県川内市(現薩摩川内市)への空襲で、左脚の膝から先を失った後は、隣村にある祖父の実家で暮らした。「トカゲのしっぽみたいに、脚が生えてくると思っていたんですよ」。73年前のことを、そう振り返る。食べ物は乏しかった。「母は魚などが手に入ると、私に食べさせてくれました。『傷が治るように』って」。安野さんと、3人の兄弟がいた。末弟は栄養失調で、2歳で逝った。自分たちが食べたため、弟に十分に回らなかったからかもしれない。安野さんは今もそう考えている。

安野輝子さんの、小学生時代の集合写真。自分の両足部分を黒く塗りつぶした
豊かだった生家は燃えてなくなった。出征していた父は復員したが、やがて家を出た。敗戦の翌春、地元の小学校に入学した。松葉づえの安野さんは、雨の日などは歩きづらく登校できなかった。「体育の授業は傍観者でした。運動会も修学旅行も参加できず、小学校6年間で通ったのは3分の1くらいです」。中学も満足には通っていない。「何も悪いことをしていないのに……」。家族の幸せは、国が始めた戦争で打ち砕かれた。
母は家族を養うため、実家のあった大阪に引っ越した。家にこもっていた安野さんは自立をうながされ、洋裁を習うべく、大阪市内の学校に3年通った。「デザインをして、生地を決めて。一枚の布から洋服、ドレスができてゆく。それが面白くて」。やがて洋裁師として独り立ちし、仕事に熱中した。
ある運動団体の活動を報じる新聞記事を母が安野さんに見せたのはその頃、1972年のことだった。
第二次世界大戦によって、日本人およそ310万人が死んだ。うち民間人は80万人とされる。米軍による空襲では、およそ50万人が亡くなった。
日本政府は52年の独立回復後、元軍人・軍属らには補償や援護をしてきた。その累計は60兆円に及ぶ。が、民間人に対する補償には、頑として応じなかった。雇用関係があろうがなかろうが、国が始めた戦争で被害に遭ったという点では同じはずだ。「差別だ」と民間人が憤るのは自然だろう。しかし戦後しばらく、多くの人たちは自分の生活を再建するのに精いっぱいで、政治や司法、行政に働きかける余裕はなかった。
先駆的な役割を果たしたのが、故・杉山千佐子さんだ。45年3月25日の名古屋大空襲で顔をえぐられる重傷を負った。29歳だった。大学の寮母として働きながら72年、全国戦災傷害者連絡会(全傷連)を結成。57歳で始めたその闘いでは主に野党・社会党(当時)と連携し、国に補償を求める運動を展開した。
全傷連の総会が名古屋であることを記事で知った母は、安野さんに出席を勧めた。ただ、今のように既製服が一般化していない時代。オーダーメードの注文はたくさんあった。「洋裁の仕事が面白かったし、面倒くさいなと思っていた」。それでも足を運んだことが安野さんの進路を決めた。
全傷連会員は最大760人に上った。藤原まり子さん(73)はその一人。のちに国に補償と謝罪を求める大阪大空襲国賠訴訟の原告団として、安野さんとともに闘う。藤原さんは45年3月13日午後9時過ぎ、大阪市内で生まれた。その2時間後、B29による大空襲が始まり、左脚に大やけどを負った。中学2年のとき、手術で大腿(だいたい)部から下を切断した。「自分だけじゃない」。多くの戦争被害者と会い、安野さんたちは互いに励まされた。そして元軍人・軍属と民間人の間に政府が掘った、差別という深い溝を知り、杉山さんが始めた運動に身を投じた。

3月13日深夜から翌日未明にかけての空襲で大阪の街は大被害を受けた。焼け跡を片付ける人たち=大阪市で1945(昭和20)年3月14日
安野さんはそれまで、義足のことを他人に知られないようにしていた。障害者の団体として活動する以上、隠すことはできない。覚悟を決めた。
「声を上げたら、法律はできると思っていました」。国が始めた戦争で同じような被害に遭いながら、その国に補償される人とされない人がいる。そんな不条理が続くはずはないと信じた。
戦勝国のイギリス、敗戦国のドイツですら民間の戦争被害者に一定の補償をしている。しかし、日本は違った。全傷連の運動を受け、社会党などの野党は73年、「戦時災害援護法案」を国会に提出した。以来、89年まで実に14回提出されたが、与党自民党の反対でことごとく廃案となった。「その後は法案も出なくなって。藤原さんと『私たちは何事もなかったかのように死んでゆくんだね』と話していたんです。まるで虫けら扱い」
活動が再びエネルギーを得たのは03年、自衛隊がイラクに派遣されたときだ。「子どもの頃、母に『どうして戦争に反対しなかったの。戦争がなければこんなにつらい目に遭わなかったのに』と言ったんです。母は『気がついたら戦争が始まっていた』と」。テレビで自衛隊が海を渡る光景を目にして「何もしなければ、またいつの間にか戦争になる。子や孫の世代に、自分と同じような苦しみを経験させたくない」と思った。「戦争をしたら被害者に補償をしなければならないと、国に分からせること。それが戦争を食い止める力にもなる」
ところが所管の厚生労働省などは相手にしようとしない。そこで08年、23人が国に謝罪と補償を求める訴訟に踏み切った。大阪地裁、同高裁とも敗訴。安野さんらの被害を認定しながら、いずれも訴えを退けた。最高裁で14年に確定した。
民間人空襲被害者たちの国賠訴訟としては、名古屋大空襲が87年、最高裁で敗訴が確定している。そのとき、被害者たちに立ちはだかったのが「戦争被害受忍論」の法理、つまり「戦争で国民全体が被害にあった。だからみんなで我慢しなければならない」という理屈だった。これが、のちの裁判に影響する。07年には東京大空襲の被害者131人がやはり提訴したが、東京地裁、同高裁で敗訴。最高裁で13年に確定している。
「『みんなで我慢』といっても、実際は違うんですよ」。そう指摘するのは戦後補償史に詳しい瑞慶山(ずけやま)茂弁護士(74)だ。沖縄戦やフィリピンなど南洋で戦争被害に遭った民間人の国賠訴訟で弁護団長を務めている。
まず、前述のように元軍人と軍属は補償を受けている。また、国と雇用関係のなかった民間人への補償も拡大してきた。たとえば沖縄戦被害者の一部、あるいは敗戦によって海外の資産を失った引き揚げ者たち、さらに被爆者にも、国は援護や補償をしてきた。受忍論の法理はとうに破綻しているのだ。
「残された生、わずか」
東京、大阪大空襲の原告団らは法廷闘争と並行し、立法運動にも力を入れた。多くの判決が「立法による解決」、つまり「国会がしかるべき法律を作って、被害者の救済にあたるべきだ」という指摘をしたからだ。10年の全国空襲連結成に続いて、立法を推進する超党派の議員連盟も組織され、活動を始めた。

民間人空襲被害者救済を訴える横断幕を持つ安野輝子さん(右端)、車いすで訴える故・杉山千佐子さん、東京大空襲で孤児になった故・城森満さん(左の帽子の男性)=東京都千代田区永田町で15年12月8日、栗原俊雄撮影
国賠訴訟の敗訴確定後、全国空襲連は元弁護団と協力して議連への陳情や「空襲被害者救済法」の法案作り、世論を喚起するための集会などをしてきた。運動のシンボルになったのは杉山さんだ。法案が提出されなくなった後も、最晩年まで精力的に活動した。たとえば15年12月8日。国会前の集会でマイクを握った。「とうとう100歳になりました。まだ援護法のえの字もできていない。足をなくした者、手をなくした者。何人も引き連れてやってきたが、だめでした」。それでも諦めなかった。「二度と戦争のない国にしないといけない。頑張りましょう」
「杉山さんが元気なうちに、何としても立法を」。それが合言葉だった。しかし翌16年9月。杉山さんは旅だった。101歳。45年に及ぶ闘争、長く細い戦後補償への道を切り開こうとした後半生だった。「すごい方でした。私たちの活動を照らす明かりが消えてしまった。でも運動を続けて、杉山さんに良い報告ができるようにしたい」と安野さんは話す。
杉山さんが国会前で演説した集会で、隣に立っていたのが東京大空襲裁判の原告団副団長、城森(きもり)満さんだ。私は10年近く、取材でお世話になっていた。
東京・本所区(現墨田区)の生まれ。父母と妹、弟2人の6人家族だった。大空襲で両親と、一番可愛がっていた下の弟を失った。自分は千葉県に学童疎開をしていて助かった。親戚に引き取られたが、戦後の混乱期でそこも生活は楽ではなく、肩身の狭い思いをした。苦労して高校、大学も出た……。つらい記憶を、穏やかな表情で話してくれた。
杉山さんが亡くなった後も、城森さんは積極的に発言した。昨年12月6日、衆議院第2議員会館での集会で、あいさつをした。空襲被害者救済法について「テンポは遅いけれど着実にまとまってきた」と期待しつつ、体調が優れないことに触れ「これ以上引き延ばされるとあの世にいっちゃいます」。私は驚いた。いつも元気で、姿勢もいいという印象が強かったからだ。城森さんは、気を取り直したように「遅くとも法案の成立を見てあの世に行きたい。まだ頑張りますから、皆さん、よろしく」と結んだ。
それから10日後の16日、自宅で亡くなった。85歳だった。生前、安野さんには「あなたに会うと、可愛がっていた弟を思い出すんだよ。あなたと同い年だったんだ。一緒に頑張ろう」と語っていた。
全国空襲連結成以来、弁護団や国会議員らと相談して作った法案は、何度か変わった。当初は負傷者だけでなく、空襲で保護者を失った孤児らも対象になっていた。だが今、国会提出が準備されているものでは、身体障害者手帳を持つ生存者が中心で、亡くなった人や孤児は含まれない。特別給付金は1人50万円、この額も当初案よりずっと低い。「私の義足一つ買えませんよ。70年以上苦しんできた結果がこれですか。それに、亡くなった人にこそ補償が必要なのに」。財源や早期可決の可能性を考慮した妥協案とはいえ、全国空襲連の中心メンバーである安野さんの気持ちは複雑だ。
「何としても今国会で」。ここ数年は集会のたびに国会議員がそう口にする。16年12月、衆院議員の河村建夫・元官房長官が議連の会長に就任。法案作成と各党の協議のピッチが上がった。しかし、17年の通常国会では成立どころか、提出さえできなかった。現在開かれている国会でも、給付対象者の範囲を巡り議連内で異論があることや、審議の遅れなどの影響で、法案提出は難しい状況だ。
私は10年以上、空襲被害者の補償問題を取材している。命を削って闘っている高齢者たちを見ると胸が痛む。杉山さん、城森さんだけではない。運動で主導的な役割を果たしてきた人たちも、死亡や病気などで動ける人が少なくなった。大阪の場合、原告団23人のうち「5人くらい」。そう話す安野さん自身、「足がしょっちゅう痛い。義足が当たる皮膚が弱ってしまって」。
実は法案にもう一つ、誤解されないかと気掛かりな言葉が入っている。「慰藉(いしゃ)」だ。「慰めてほしいのではありません。差別せず、同じ人間として国にしっかりと補償、謝罪をしてほしいんです」。安野さんはそう訴える。「私たちが生きるのはあとわずかです」
何の罪もない人たちに国の負の遺産を押しつけたまま、日本国は歴史を刻んでゆくのだろうか。そうであってはならない。安野さんたちの活動を、これからも報道し続けたいと思う。
――毎日新聞のストーリー「今も闘う空襲の被害者」です。戦勝国のイギリス、敗戦国のドイツですら民間の戦争被害者に一定の補償をしています。しかし日本は違います。「戦時災害援護法案」が89年までに14回国会に提出されましたが与党自民党の反対でことごとく廃案に。〔6:02 - 2018年5月20日 〕――
〔資料〕
「今も闘う空襲の被害者(その2止) 戦争止める力にも」
毎日新聞社(2018年5月20日 )
☆ 記事URL:https://mainichi.jp/articles/20180520/ddm/010/040/170000c

衆院第1議員会館で開かれた集会で、マイクの前に向かう全国空襲被害者連絡協議会の安野輝子さん(右)=東京都千代田区で3月8日、小川昌宏撮影
◆空襲被害 国に救済法求め運動
民間「受忍」 司法の壁
私が安野(あんの)輝子さん(78)=堺市=と初めて会ったのは8年前、2010年の夏だった。東京で開かれた全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)の結成集会。最初は「支援者かな」と思った。当事者とは思えない柔和な笑みをたたえ話していたからだ。しかし国を相手とした大阪大空襲国家賠償訴訟の原告団23人の先頭に立つ、代表世話人だった。
実家があった鹿児島県川内市(現薩摩川内市)への空襲で、左脚の膝から先を失った後は、隣村にある祖父の実家で暮らした。「トカゲのしっぽみたいに、脚が生えてくると思っていたんですよ」。73年前のことを、そう振り返る。食べ物は乏しかった。「母は魚などが手に入ると、私に食べさせてくれました。『傷が治るように』って」。安野さんと、3人の兄弟がいた。末弟は栄養失調で、2歳で逝った。自分たちが食べたため、弟に十分に回らなかったからかもしれない。安野さんは今もそう考えている。

安野輝子さんの、小学生時代の集合写真。自分の両足部分を黒く塗りつぶした
豊かだった生家は燃えてなくなった。出征していた父は復員したが、やがて家を出た。敗戦の翌春、地元の小学校に入学した。松葉づえの安野さんは、雨の日などは歩きづらく登校できなかった。「体育の授業は傍観者でした。運動会も修学旅行も参加できず、小学校6年間で通ったのは3分の1くらいです」。中学も満足には通っていない。「何も悪いことをしていないのに……」。家族の幸せは、国が始めた戦争で打ち砕かれた。
母は家族を養うため、実家のあった大阪に引っ越した。家にこもっていた安野さんは自立をうながされ、洋裁を習うべく、大阪市内の学校に3年通った。「デザインをして、生地を決めて。一枚の布から洋服、ドレスができてゆく。それが面白くて」。やがて洋裁師として独り立ちし、仕事に熱中した。
ある運動団体の活動を報じる新聞記事を母が安野さんに見せたのはその頃、1972年のことだった。
第二次世界大戦によって、日本人およそ310万人が死んだ。うち民間人は80万人とされる。米軍による空襲では、およそ50万人が亡くなった。
日本政府は52年の独立回復後、元軍人・軍属らには補償や援護をしてきた。その累計は60兆円に及ぶ。が、民間人に対する補償には、頑として応じなかった。雇用関係があろうがなかろうが、国が始めた戦争で被害に遭ったという点では同じはずだ。「差別だ」と民間人が憤るのは自然だろう。しかし戦後しばらく、多くの人たちは自分の生活を再建するのに精いっぱいで、政治や司法、行政に働きかける余裕はなかった。
先駆的な役割を果たしたのが、故・杉山千佐子さんだ。45年3月25日の名古屋大空襲で顔をえぐられる重傷を負った。29歳だった。大学の寮母として働きながら72年、全国戦災傷害者連絡会(全傷連)を結成。57歳で始めたその闘いでは主に野党・社会党(当時)と連携し、国に補償を求める運動を展開した。
全傷連の総会が名古屋であることを記事で知った母は、安野さんに出席を勧めた。ただ、今のように既製服が一般化していない時代。オーダーメードの注文はたくさんあった。「洋裁の仕事が面白かったし、面倒くさいなと思っていた」。それでも足を運んだことが安野さんの進路を決めた。
全傷連会員は最大760人に上った。藤原まり子さん(73)はその一人。のちに国に補償と謝罪を求める大阪大空襲国賠訴訟の原告団として、安野さんとともに闘う。藤原さんは45年3月13日午後9時過ぎ、大阪市内で生まれた。その2時間後、B29による大空襲が始まり、左脚に大やけどを負った。中学2年のとき、手術で大腿(だいたい)部から下を切断した。「自分だけじゃない」。多くの戦争被害者と会い、安野さんたちは互いに励まされた。そして元軍人・軍属と民間人の間に政府が掘った、差別という深い溝を知り、杉山さんが始めた運動に身を投じた。

3月13日深夜から翌日未明にかけての空襲で大阪の街は大被害を受けた。焼け跡を片付ける人たち=大阪市で1945(昭和20)年3月14日
安野さんはそれまで、義足のことを他人に知られないようにしていた。障害者の団体として活動する以上、隠すことはできない。覚悟を決めた。
「声を上げたら、法律はできると思っていました」。国が始めた戦争で同じような被害に遭いながら、その国に補償される人とされない人がいる。そんな不条理が続くはずはないと信じた。
戦勝国のイギリス、敗戦国のドイツですら民間の戦争被害者に一定の補償をしている。しかし、日本は違った。全傷連の運動を受け、社会党などの野党は73年、「戦時災害援護法案」を国会に提出した。以来、89年まで実に14回提出されたが、与党自民党の反対でことごとく廃案となった。「その後は法案も出なくなって。藤原さんと『私たちは何事もなかったかのように死んでゆくんだね』と話していたんです。まるで虫けら扱い」
活動が再びエネルギーを得たのは03年、自衛隊がイラクに派遣されたときだ。「子どもの頃、母に『どうして戦争に反対しなかったの。戦争がなければこんなにつらい目に遭わなかったのに』と言ったんです。母は『気がついたら戦争が始まっていた』と」。テレビで自衛隊が海を渡る光景を目にして「何もしなければ、またいつの間にか戦争になる。子や孫の世代に、自分と同じような苦しみを経験させたくない」と思った。「戦争をしたら被害者に補償をしなければならないと、国に分からせること。それが戦争を食い止める力にもなる」
ところが所管の厚生労働省などは相手にしようとしない。そこで08年、23人が国に謝罪と補償を求める訴訟に踏み切った。大阪地裁、同高裁とも敗訴。安野さんらの被害を認定しながら、いずれも訴えを退けた。最高裁で14年に確定した。
民間人空襲被害者たちの国賠訴訟としては、名古屋大空襲が87年、最高裁で敗訴が確定している。そのとき、被害者たちに立ちはだかったのが「戦争被害受忍論」の法理、つまり「戦争で国民全体が被害にあった。だからみんなで我慢しなければならない」という理屈だった。これが、のちの裁判に影響する。07年には東京大空襲の被害者131人がやはり提訴したが、東京地裁、同高裁で敗訴。最高裁で13年に確定している。
「『みんなで我慢』といっても、実際は違うんですよ」。そう指摘するのは戦後補償史に詳しい瑞慶山(ずけやま)茂弁護士(74)だ。沖縄戦やフィリピンなど南洋で戦争被害に遭った民間人の国賠訴訟で弁護団長を務めている。
まず、前述のように元軍人と軍属は補償を受けている。また、国と雇用関係のなかった民間人への補償も拡大してきた。たとえば沖縄戦被害者の一部、あるいは敗戦によって海外の資産を失った引き揚げ者たち、さらに被爆者にも、国は援護や補償をしてきた。受忍論の法理はとうに破綻しているのだ。
「残された生、わずか」
東京、大阪大空襲の原告団らは法廷闘争と並行し、立法運動にも力を入れた。多くの判決が「立法による解決」、つまり「国会がしかるべき法律を作って、被害者の救済にあたるべきだ」という指摘をしたからだ。10年の全国空襲連結成に続いて、立法を推進する超党派の議員連盟も組織され、活動を始めた。

民間人空襲被害者救済を訴える横断幕を持つ安野輝子さん(右端)、車いすで訴える故・杉山千佐子さん、東京大空襲で孤児になった故・城森満さん(左の帽子の男性)=東京都千代田区永田町で15年12月8日、栗原俊雄撮影
国賠訴訟の敗訴確定後、全国空襲連は元弁護団と協力して議連への陳情や「空襲被害者救済法」の法案作り、世論を喚起するための集会などをしてきた。運動のシンボルになったのは杉山さんだ。法案が提出されなくなった後も、最晩年まで精力的に活動した。たとえば15年12月8日。国会前の集会でマイクを握った。「とうとう100歳になりました。まだ援護法のえの字もできていない。足をなくした者、手をなくした者。何人も引き連れてやってきたが、だめでした」。それでも諦めなかった。「二度と戦争のない国にしないといけない。頑張りましょう」
「杉山さんが元気なうちに、何としても立法を」。それが合言葉だった。しかし翌16年9月。杉山さんは旅だった。101歳。45年に及ぶ闘争、長く細い戦後補償への道を切り開こうとした後半生だった。「すごい方でした。私たちの活動を照らす明かりが消えてしまった。でも運動を続けて、杉山さんに良い報告ができるようにしたい」と安野さんは話す。
杉山さんが国会前で演説した集会で、隣に立っていたのが東京大空襲裁判の原告団副団長、城森(きもり)満さんだ。私は10年近く、取材でお世話になっていた。
東京・本所区(現墨田区)の生まれ。父母と妹、弟2人の6人家族だった。大空襲で両親と、一番可愛がっていた下の弟を失った。自分は千葉県に学童疎開をしていて助かった。親戚に引き取られたが、戦後の混乱期でそこも生活は楽ではなく、肩身の狭い思いをした。苦労して高校、大学も出た……。つらい記憶を、穏やかな表情で話してくれた。
杉山さんが亡くなった後も、城森さんは積極的に発言した。昨年12月6日、衆議院第2議員会館での集会で、あいさつをした。空襲被害者救済法について「テンポは遅いけれど着実にまとまってきた」と期待しつつ、体調が優れないことに触れ「これ以上引き延ばされるとあの世にいっちゃいます」。私は驚いた。いつも元気で、姿勢もいいという印象が強かったからだ。城森さんは、気を取り直したように「遅くとも法案の成立を見てあの世に行きたい。まだ頑張りますから、皆さん、よろしく」と結んだ。
それから10日後の16日、自宅で亡くなった。85歳だった。生前、安野さんには「あなたに会うと、可愛がっていた弟を思い出すんだよ。あなたと同い年だったんだ。一緒に頑張ろう」と語っていた。
全国空襲連結成以来、弁護団や国会議員らと相談して作った法案は、何度か変わった。当初は負傷者だけでなく、空襲で保護者を失った孤児らも対象になっていた。だが今、国会提出が準備されているものでは、身体障害者手帳を持つ生存者が中心で、亡くなった人や孤児は含まれない。特別給付金は1人50万円、この額も当初案よりずっと低い。「私の義足一つ買えませんよ。70年以上苦しんできた結果がこれですか。それに、亡くなった人にこそ補償が必要なのに」。財源や早期可決の可能性を考慮した妥協案とはいえ、全国空襲連の中心メンバーである安野さんの気持ちは複雑だ。
「何としても今国会で」。ここ数年は集会のたびに国会議員がそう口にする。16年12月、衆院議員の河村建夫・元官房長官が議連の会長に就任。法案作成と各党の協議のピッチが上がった。しかし、17年の通常国会では成立どころか、提出さえできなかった。現在開かれている国会でも、給付対象者の範囲を巡り議連内で異論があることや、審議の遅れなどの影響で、法案提出は難しい状況だ。
私は10年以上、空襲被害者の補償問題を取材している。命を削って闘っている高齢者たちを見ると胸が痛む。杉山さん、城森さんだけではない。運動で主導的な役割を果たしてきた人たちも、死亡や病気などで動ける人が少なくなった。大阪の場合、原告団23人のうち「5人くらい」。そう話す安野さん自身、「足がしょっちゅう痛い。義足が当たる皮膚が弱ってしまって」。
実は法案にもう一つ、誤解されないかと気掛かりな言葉が入っている。「慰藉(いしゃ)」だ。「慰めてほしいのではありません。差別せず、同じ人間として国にしっかりと補償、謝罪をしてほしいんです」。安野さんはそう訴える。「私たちが生きるのはあとわずかです」
何の罪もない人たちに国の負の遺産を押しつけたまま、日本国は歴史を刻んでゆくのだろうか。そうであってはならない。安野さんたちの活動を、これからも報道し続けたいと思う。
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