「【戦後70年】玉音放送をめぐるクーデター? 日本人が意外と知らない、戦争にまつわる7つのこと」
と題する、
2015年07月31日 付 The Huffington Post ( 執筆者: Emi Kawasaki )の記事を
紹介する。
☆ 記事URL:http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/31/japans-longest-day_n_7892542.html?utm_hp_ref=japan
こんな内容だ。
(1)戦争で命を落とした人数は?
出典:米国国立第二次世界大戦博物館
Copyright ©2015 The Huffington Post Japan, Ltd. All Rights Reserved.
(上の画像は、コピーなので、国別死者数との関係が一目瞭然ではない。The Huffington Post では、人物のアイコンをクリックすると表示されるシステムになっている。国別死者数をきちんと確認したい人は、上掲「The Huffington Post 」のサイトに飛ぶように。)
この画像を見て、
ソ連と中国人の死者の多さに驚く。
ただ、それはそれとして、
「日本人の死者は230万人〜310万人にもおよぶ。日本史上、未曾有の死者が出た」
のは確かだ。
※ハフィントンポスト日本版調べ
Copyright ©2015 The Huffington Post Japan, Ltd. All Rights Reserved.
(画像をクリックすれば、拡大表示されます)
上掲サイトに次のような指摘があった。
「当時の平均寿命は23.9歳だった。死者の中には、軍人のほか、乳幼児も多く含まれるため、これほど低い数値になった。少なくとも死因の3分の1は食糧難による餓死ともいわれている。また、飢餓による病死を含めるとさらに 広範にわたる。このほか自殺も多かった」と。
(2)なぜ戦争は始まったの?
年表風に書くと次の通り。
The Huffington Post にあったものを
下に転載する。
〔戦争の経過資料〕
第一次世界大戦で、戦勝国となった日本とアメリカは、世界恐慌による不況を解決しようと新たな市場を模索し、アジアに目を付けた。
↓
1931年 資源の少ない日本は資源確保のため、東南アジアや中国大陸に利権を得ようとした。さらに、ソ連の南下に備えるため、朝鮮半島とのソ連との間に緩衝地帯を作り、国内の貧民が入植できる土地を作ろうとした(満州事変・上海事変)。
↓
アジア諸国に進出していく日本は、当時、利権を持っていたアメリカ・イギリス・オランダと衝突するようになる。
↓
1937年 満州事変以降、中華民国と対立していた日本は戦争を始める(日中戦争)。アメリカは中華民国に秘密裏に軍事援助を行いつつ、日本に経済的圧力をかけた。
↓
1941年 アメリカの経済圧力に苦しみ始めた日本は、物資を確保するために東南アジアに出兵する(南部仏印進駐)。これに対し、アメリカは中華民国などと連携し、日本に対する鉄鋼・石油の輸出を禁止する(ABCD包囲網)。石油がなければ、すべての産業がストップしてしまう当時の日本はさらに窮地に陥った。
↓
緊張が漂う中、日本は対米交渉を行いながら密かにアメリカとの開戦準備に入る。しかし、アメリカ側も水面下で準備を始める日本の行動を察知し、他国への内政不干渉、太平洋の現状維持などを求める「ハル・ノート」を突きつける。(アメリカの国務長官コーデル・ハルの名前からそう呼ばれた)
↓
「ハル・ノート」の内容に絶望した日本側は「開戦やむなし」に傾くことになる。
↓
1941年 12月8日に日本はハワイ真珠湾を攻撃する(真珠湾攻撃)。戦争の火蓋が切って落とされた(太平洋戦争)。
(3)日本軍は一枚岩じゃなかった? 陸軍と海軍の不和
不和の原因の一つとして、
「発祥の違い」が上げられている。
すなわち、
「幕末の頃、陸軍は長州藩、海軍は薩摩藩を中心に発足した。創設からライバル関係にあった上、両軍を統一指揮する国防省がなかったため、太平洋戦争の末期まで対立関係が続いていた。」(上掲サイト)
というわけである。
(4)「死にたくない」〜徴兵は断れなかったの?
「特別攻撃隊(特攻隊)」でさえ、志願を指名されれば断りきれなかったという。断れば、部隊内で壮絶ないじめが待っていたという話もある。また、生還した場合、再び攻撃に出るための訓練が行われたようだ。
(5)「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」? 戦時中の食事の実態
「太平洋戦争が始まる前は、都会と田舎では、貧富の差が大きかった。食料が豊富な都会では、西洋の文化が取り入れられ、食文化も華やかだった。一方、農村では、米を作っているにもかかわらず、収穫のほとんどを物納させられ、収入を得るために売っていたため、米を主食にすることは困難だった。しかし、太平洋戦争が始まると、都会と農村は逆転する。米や野菜を作っている農村のほうが、自給自足による食材の確保が可能だったのだ。」
という記述が示唆的だ。
自給自足できない状態で戦争などするものではない。
(6)「ポツダム宣言」のあと、日本で何が起きていた?
「ポツダム宣言は1945年7月26日、ドイツのポツダムにおいて、アメリカ・イギリス・中国が発した対日共同宣言である。(「ポツダム宣言」現代語訳の全文はこちら)」
「ポツダム宣言には、日本がこれを受け入れない場合、「壊滅あるのみ」と記されていた。アメリカ軍は8月6日に広島、9日に長崎に原爆を投下した。さらに、8月9日にはソ連が日本に対し参戦した。
陸軍があくまで「本土決戦」を叫ぶ中、昭和天皇は8月14日の御前会議で、ポツダム宣言を受け入れて降伏することを決意する。8月14日の御前会議から8月15日正午の玉音放送までの24時間。それは日本の「もっとも長い一日」とも言われる。陸軍内部によるクーデター(宮城事件)が起きていたからだ。」
(7)終戦を知らせた「玉音放送」で、昭和天皇が語ったこと
「こうして戦争は終わった――。1945年8月15日正午に、昭和天皇が終戦を知らせる「玉音放送」がラジオで放送され、国民は戦争に負けたことを知ることになった」。
「玉音放送の“玉音”とは、“天皇の肉声”のこと。玉のように清らかな音や声を意味し、敬いからそう呼ばれた。(「玉音放送」現代語訳の全文はこちら)」
と題する、
2015年07月31日 付 The Huffington Post ( 執筆者: Emi Kawasaki )の記事を
紹介する。
☆ 記事URL:http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/31/japans-longest-day_n_7892542.html?utm_hp_ref=japan
こんな内容だ。
(1)戦争で命を落とした人数は?
出典:米国国立第二次世界大戦博物館
Copyright ©2015 The Huffington Post Japan, Ltd. All Rights Reserved.
(上の画像は、コピーなので、国別死者数との関係が一目瞭然ではない。The Huffington Post では、人物のアイコンをクリックすると表示されるシステムになっている。国別死者数をきちんと確認したい人は、上掲「The Huffington Post 」のサイトに飛ぶように。)
この画像を見て、
ソ連と中国人の死者の多さに驚く。
ただ、それはそれとして、
「日本人の死者は230万人〜310万人にもおよぶ。日本史上、未曾有の死者が出た」
のは確かだ。
※ハフィントンポスト日本版調べ
Copyright ©2015 The Huffington Post Japan, Ltd. All Rights Reserved.
(画像をクリックすれば、拡大表示されます)
上掲サイトに次のような指摘があった。
「当時の平均寿命は23.9歳だった。死者の中には、軍人のほか、乳幼児も多く含まれるため、これほど低い数値になった。少なくとも死因の3分の1は食糧難による餓死ともいわれている。また、飢餓による病死を含めるとさらに 広範にわたる。このほか自殺も多かった」と。
(2)なぜ戦争は始まったの?
年表風に書くと次の通り。
The Huffington Post にあったものを
下に転載する。
〔戦争の経過資料〕
第一次世界大戦で、戦勝国となった日本とアメリカは、世界恐慌による不況を解決しようと新たな市場を模索し、アジアに目を付けた。
↓
1931年 資源の少ない日本は資源確保のため、東南アジアや中国大陸に利権を得ようとした。さらに、ソ連の南下に備えるため、朝鮮半島とのソ連との間に緩衝地帯を作り、国内の貧民が入植できる土地を作ろうとした(満州事変・上海事変)。
↓
アジア諸国に進出していく日本は、当時、利権を持っていたアメリカ・イギリス・オランダと衝突するようになる。
↓
1937年 満州事変以降、中華民国と対立していた日本は戦争を始める(日中戦争)。アメリカは中華民国に秘密裏に軍事援助を行いつつ、日本に経済的圧力をかけた。
↓
1941年 アメリカの経済圧力に苦しみ始めた日本は、物資を確保するために東南アジアに出兵する(南部仏印進駐)。これに対し、アメリカは中華民国などと連携し、日本に対する鉄鋼・石油の輸出を禁止する(ABCD包囲網)。石油がなければ、すべての産業がストップしてしまう当時の日本はさらに窮地に陥った。
↓
緊張が漂う中、日本は対米交渉を行いながら密かにアメリカとの開戦準備に入る。しかし、アメリカ側も水面下で準備を始める日本の行動を察知し、他国への内政不干渉、太平洋の現状維持などを求める「ハル・ノート」を突きつける。(アメリカの国務長官コーデル・ハルの名前からそう呼ばれた)
↓
「ハル・ノート」の内容に絶望した日本側は「開戦やむなし」に傾くことになる。
↓
1941年 12月8日に日本はハワイ真珠湾を攻撃する(真珠湾攻撃)。戦争の火蓋が切って落とされた(太平洋戦争)。
以上
(3)日本軍は一枚岩じゃなかった? 陸軍と海軍の不和
不和の原因の一つとして、
「発祥の違い」が上げられている。
すなわち、
「幕末の頃、陸軍は長州藩、海軍は薩摩藩を中心に発足した。創設からライバル関係にあった上、両軍を統一指揮する国防省がなかったため、太平洋戦争の末期まで対立関係が続いていた。」(上掲サイト)
というわけである。
(4)「死にたくない」〜徴兵は断れなかったの?
「特別攻撃隊(特攻隊)」でさえ、志願を指名されれば断りきれなかったという。断れば、部隊内で壮絶ないじめが待っていたという話もある。また、生還した場合、再び攻撃に出るための訓練が行われたようだ。
(5)「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」? 戦時中の食事の実態
「太平洋戦争が始まる前は、都会と田舎では、貧富の差が大きかった。食料が豊富な都会では、西洋の文化が取り入れられ、食文化も華やかだった。一方、農村では、米を作っているにもかかわらず、収穫のほとんどを物納させられ、収入を得るために売っていたため、米を主食にすることは困難だった。しかし、太平洋戦争が始まると、都会と農村は逆転する。米や野菜を作っている農村のほうが、自給自足による食材の確保が可能だったのだ。」
という記述が示唆的だ。
自給自足できない状態で戦争などするものではない。
(6)「ポツダム宣言」のあと、日本で何が起きていた?
「ポツダム宣言は1945年7月26日、ドイツのポツダムにおいて、アメリカ・イギリス・中国が発した対日共同宣言である。(「ポツダム宣言」現代語訳の全文はこちら)」
「ポツダム宣言には、日本がこれを受け入れない場合、「壊滅あるのみ」と記されていた。アメリカ軍は8月6日に広島、9日に長崎に原爆を投下した。さらに、8月9日にはソ連が日本に対し参戦した。
陸軍があくまで「本土決戦」を叫ぶ中、昭和天皇は8月14日の御前会議で、ポツダム宣言を受け入れて降伏することを決意する。8月14日の御前会議から8月15日正午の玉音放送までの24時間。それは日本の「もっとも長い一日」とも言われる。陸軍内部によるクーデター(宮城事件)が起きていたからだ。」
(7)終戦を知らせた「玉音放送」で、昭和天皇が語ったこと
「こうして戦争は終わった――。1945年8月15日正午に、昭和天皇が終戦を知らせる「玉音放送」がラジオで放送され、国民は戦争に負けたことを知ることになった」。
「玉音放送の“玉音”とは、“天皇の肉声”のこと。玉のように清らかな音や声を意味し、敬いからそう呼ばれた。(「玉音放送」現代語訳の全文はこちら)」
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