「小保方さん科学界追放も」
という見出しで
9日発行の日刊ゲンダイ紙が
「STAP論文の“不正”確定」
という理研の調査委員会の決定を報告していました。
まるで
裁判所の判決が出たような扱いです。
しかし、裁判所の判断なら、
必ず反対尋問の機会があたえられるはずでしょう。
本人抜きの
一方的な通告だから、
小保方さんの
「グーの音も出ない状態」
を報ずるのは
公平性に欠けるんじゃないかと思います。
日刊ゲンダイが
鬼の首を取ったように騒ぐ、
理研の調査委員会の
薄っぺらさは
“固陋”のいやらしさを
伴っています。
何をもって、
小保方さんを断罪しようとしているか、
確認しておきましょう。
実は、
独自判断でなく、
「画像の扱いのレクチャー」
をサイエンス紙頼みです。
つまり、投稿の論文仕様のチェックは、
外国メディアに任されている点に、
理研の研究機関の不在、
もしくは、役割の放棄という実態が
窺われるわけです。
遡ること、
2012年7月に
同趣旨の論文を提出した際、
審査した専門家から
「画像加工をする場合、
加工の有無が分かるよう両側に線を入れておく」
という指導を小保方さんになされていたらしいんですな。
それが後々の論文に生かされていないのは、
同人が
「悪意を持って、
画像加工をしていないように見せかけた」
証拠だとしているわけです。
しかし、論文の命は、
「STAP現象はあるのかないのか」に
あったはずです。
つまり、実験による
STAP細胞の再現可能性が大切なのです。
その点には
一切触れずに論文の撤回を求めるのは、
科学者としての
小保方氏を不正に排除する悪意を
逆に感じてしまいます。
犯罪で人を裁こうする場合、
証拠が求められます。
理研が
認定した証拠は、
すべてこれ、
状況証拠です。
画像の説明に付き、
かつて説明を受けたことを
失念していたとして
悪意が
あるのだというのなら、
科学の世界では
忘却は許されないことになります。
また、サイエンス紙から指導されたことをもって、
その指導に従った
修正をネイチャー紙に論文を
提出する際、
生かさなければならない
というのも可笑しな話です。
そんな約束事は、
どこにもなかったはずです。
結局、理研の新たな調査で判明したのは、
サイエンス紙からの
指導が
生かされなかった点のみです。
しかし、
画像のちぐはぐは、
結局、小保方氏自身の申告で
明らかにされたわけです。
それに対する
言及がないのはどうしてでしょう。
審議不十分の疑いがあります。
さて、もう一つ、気になったのは、
上掲紙が
小保方さんを
科学者として相応しからぬ人物として
判定するにつき、
提出された実験ノートを
引き合いに出していることです。
何がどう問題なのか――。
ノートに
「陽性かくにん! よかった」
という率直な感想とともに、
ハートマークも書いてあったようです。
(ええんじゃないの、それで)
と思いました。
ワシントン大学の生物学部の
鳥居啓子教授が
「絵日記のような実験ノートにびっくり。
理科の観察日記?」
とツイート〔1:21 - 2014年5月8日 〕したことが
取り上げられてありました。
しかし、この人とて、
ハートマーク自体を非難しているのでしょうか。
記述すべきことが
欠けているという意味での
別の欠陥を指摘されているようです。
ただしかし、何でもいいから
言えばいいってことではないです。
世界トップクラスの
学者であることを自認なさっているのなら、
この事件の影響力を考慮して、
何が足りないから駄目という判断の基準を
明瞭に提示すべきです。
データの画像処理に関しては、
何が許されて何が許されないのかにつき、
10年も前の素晴らしい解説として、
JCBの記事
「What's in a picture? The temptation of image manipulation」(リンク)を
取り上げておられます。
しかし、この記事のどこにも
実験ノートの
記載の仕方についての説明などありません
(同氏のツイート〔1:38 - 2014年5月7日 〕参照。
なお、JCBの記事については、
最後の結論―Conclusion―の部分のみ下に
〔資料〕として転載しておきました)。
さて、理不尽な
ハートマーク云々の話の取り上げ方を
見て感じたのは、
「小保方さんは、
科学者向きでない」という
傍証のつもりなのかということでした。
ここまで来ると、
本当に
魔女狩りにしか
僕の目には見えないです。
早稲田大学が
博士論文のチェックをして
博士号を剥奪したら、
科学界から
追放の可能性があると書いてありました。
文科省からの圧力もあって
そうするんでしょ?
しかし、そういう文科省、
どれほどルールをきちんと守っているのでしょう。
放射能の年間積算量は、
1ミニシーベルトだったはずが、
福島事故があったら
あっさりと引き上げました。
そこに
法の支配が求める
「恣意性の排除」
という要請が
貫かれていたでしょうか。
もっと言えば、
ハートマークが
シンボライズしているような
「慈愛」に
満ちた
教育行政を維持しえましたか。
教育にとって
もっとも大切な
「共に歩こう」という精神において
瑕疵が
あったのではないですか。
ハート・マークが蔑ろにされる社会って、
碌なものではないですよ。
そう思いませんか。
その点、
じっくり反省していただきたく
幾つかの
ハートマーク写真を
紹介します。
小保方さんに幼さを感じる
と言うのなら、
なおさらトカゲの尻尾切りのような真似は、
すべきではないです。
なお、これから紹介する
ハートマークの画像は、
The Cult Cat @Elverojaguarさんのツイートに
添付されていたものです。
出典として
年月日に元ツイートをリンクさせておきます。
出典:〔1:17 - 2014年5月8日 〕
出典:〔16:59 - 2014年5月9日 〕
出典:〔16:59 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:01 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:01 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:02 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:06 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:07 - 2014年5月9日 〕
以上です。
大変な力作揃いで、
「この写真、どれくらいの時間をかけましたか」
と聞きたくなりませんか。
ただ、男性的な感性に支配されている人には、
違和感があるかもしれません。
僕は、
これらの画像を眺めながら、
写真を撮る
驚異的な忍耐強さに
感服する同時に、
女性にとって
ハートマークというのは、
水戸黄門の
印籠についてる紋所みたいなもんだな
ということを納得しました。
いくら生物の
不思議に到達する理論的考察に
優れた人であっても、
小保方さんは、
年相応に
ハートマークを
崇拝しておったというだけの話じゃないですか。
そんな瑣末なことにこだわって、
一人の女性の将来を
奪い取っていい話ではないでしょ。
〔資料〕
「What's in a picture? The temptation of image manipulation」
JCB(July 6, 2004 // JCB vol. 166 no. 1 11-15 )
☆ 記事URL:http://jcb.rupress.org/content/166/1/11.full
Conclusion
*英文に続く括弧内の和訳は、exciteの機械翻訳文です。
Data must be reported directly, not through a filter based on what you think they “should” illustrate to your audience. For every adjustment that you make to a digital image, it is important to ask yourself, “Is the image that results from this adjustment still an accurate representation of the original data?” If the answer to this question is “no,” your actions may be construed as misconduct.
(データは、あなたが思うことに基づいたフィルタを通って、直接報告されてはなりません、それらはあなたの聴衆に説明するべきです。
デジタル画像に行うすべての調節については、あなた自身に尋ねることは重要です、「この調節にまだ起因するイメージはオリジナル・データの正確な表現ですか。」
この質問に対する答えが「no」である場合、あなたのアクションは不品行として解釈されるかもしれません。)
Some adjustments are currently considered to be acceptable (such as pseudocoloring or changes to gamma settings) but should be disclosed to your audience. You should, however, always be able to justify these adjustments as necessary to reveal a feature already present in the original data.
(いくつかの調節は、受理可能である(色が偽つけるか、ガンマ・セッティングへの変更ように)と現在考えられますが、あなたの聴衆に発表されるべきです。
しかしながら、オリジナル・データの中に既にある特徴を明らかにするのに必要なときに常にこれらの調節を正当化することができるに違いありません。)
We hope that by listing guidelines and publicizing examples of transgressions, all of us can become more vigilant, particularly in guiding junior colleagues and students away from the tempting dangers of digital manipulation. Just because the tools exist to clean up sloppy work digitally, that is no excuse to do sloppy work.
(私たちは、ガイドラインのリストおよび違反の例の公表によって、特に年少の同僚および学生をディジタル操作の誘惑する危険から遠ざけてガイドする際に、私たちがすべてより警戒しているようになることができることを望みます。
ツールが雑な仕事をディジタルできれいにするために存在するだけで、それは雑な仕事をする弁解ではありません。)
If you would have redone an experiment to generate a presentation-quality image in the days before the digital age, you should probably redo it now.
(もしデジタル時代の前の日でプレゼンテーション品質イメージを生成するために実験をやり直せば、恐らく今それをやり直すでしょう。)
という見出しで
9日発行の日刊ゲンダイ紙が
「STAP論文の“不正”確定」
という理研の調査委員会の決定を報告していました。
まるで
裁判所の判決が出たような扱いです。
しかし、裁判所の判断なら、
必ず反対尋問の機会があたえられるはずでしょう。
本人抜きの
一方的な通告だから、
小保方さんの
「グーの音も出ない状態」
を報ずるのは
公平性に欠けるんじゃないかと思います。
日刊ゲンダイが
鬼の首を取ったように騒ぐ、
理研の調査委員会の
薄っぺらさは
“固陋”のいやらしさを
伴っています。
何をもって、
小保方さんを断罪しようとしているか、
確認しておきましょう。
実は、
独自判断でなく、
「画像の扱いのレクチャー」
をサイエンス紙頼みです。
つまり、投稿の論文仕様のチェックは、
外国メディアに任されている点に、
理研の研究機関の不在、
もしくは、役割の放棄という実態が
窺われるわけです。
遡ること、
2012年7月に
同趣旨の論文を提出した際、
審査した専門家から
「画像加工をする場合、
加工の有無が分かるよう両側に線を入れておく」
という指導を小保方さんになされていたらしいんですな。
それが後々の論文に生かされていないのは、
同人が
「悪意を持って、
画像加工をしていないように見せかけた」
証拠だとしているわけです。
しかし、論文の命は、
「STAP現象はあるのかないのか」に
あったはずです。
つまり、実験による
STAP細胞の再現可能性が大切なのです。
その点には
一切触れずに論文の撤回を求めるのは、
科学者としての
小保方氏を不正に排除する悪意を
逆に感じてしまいます。
犯罪で人を裁こうする場合、
証拠が求められます。
理研が
認定した証拠は、
すべてこれ、
状況証拠です。
画像の説明に付き、
かつて説明を受けたことを
失念していたとして
悪意が
あるのだというのなら、
科学の世界では
忘却は許されないことになります。
また、サイエンス紙から指導されたことをもって、
その指導に従った
修正をネイチャー紙に論文を
提出する際、
生かさなければならない
というのも可笑しな話です。
そんな約束事は、
どこにもなかったはずです。
結局、理研の新たな調査で判明したのは、
サイエンス紙からの
指導が
生かされなかった点のみです。
しかし、
画像のちぐはぐは、
結局、小保方氏自身の申告で
明らかにされたわけです。
それに対する
言及がないのはどうしてでしょう。
審議不十分の疑いがあります。
さて、もう一つ、気になったのは、
上掲紙が
小保方さんを
科学者として相応しからぬ人物として
判定するにつき、
提出された実験ノートを
引き合いに出していることです。
何がどう問題なのか――。
ノートに
「陽性かくにん! よかった」
という率直な感想とともに、
ハートマークも書いてあったようです。
(ええんじゃないの、それで)
と思いました。
ワシントン大学の生物学部の
鳥居啓子教授が
「絵日記のような実験ノートにびっくり。
理科の観察日記?」
とツイート〔1:21 - 2014年5月8日 〕したことが
取り上げられてありました。
しかし、この人とて、
ハートマーク自体を非難しているのでしょうか。
記述すべきことが
欠けているという意味での
別の欠陥を指摘されているようです。
ただしかし、何でもいいから
言えばいいってことではないです。
世界トップクラスの
学者であることを自認なさっているのなら、
この事件の影響力を考慮して、
何が足りないから駄目という判断の基準を
明瞭に提示すべきです。
データの画像処理に関しては、
何が許されて何が許されないのかにつき、
10年も前の素晴らしい解説として、
JCBの記事
「What's in a picture? The temptation of image manipulation」(リンク)を
取り上げておられます。
しかし、この記事のどこにも
実験ノートの
記載の仕方についての説明などありません
(同氏のツイート〔1:38 - 2014年5月7日 〕参照。
なお、JCBの記事については、
最後の結論―Conclusion―の部分のみ下に
〔資料〕として転載しておきました)。
さて、理不尽な
ハートマーク云々の話の取り上げ方を
見て感じたのは、
「小保方さんは、
科学者向きでない」という
傍証のつもりなのかということでした。
ここまで来ると、
本当に
魔女狩りにしか
僕の目には見えないです。
早稲田大学が
博士論文のチェックをして
博士号を剥奪したら、
科学界から
追放の可能性があると書いてありました。
文科省からの圧力もあって
そうするんでしょ?
しかし、そういう文科省、
どれほどルールをきちんと守っているのでしょう。
放射能の年間積算量は、
1ミニシーベルトだったはずが、
福島事故があったら
あっさりと引き上げました。
そこに
法の支配が求める
「恣意性の排除」
という要請が
貫かれていたでしょうか。
もっと言えば、
ハートマークが
シンボライズしているような
「慈愛」に
満ちた
教育行政を維持しえましたか。
教育にとって
もっとも大切な
「共に歩こう」という精神において
瑕疵が
あったのではないですか。
ハート・マークが蔑ろにされる社会って、
碌なものではないですよ。
そう思いませんか。
その点、
じっくり反省していただきたく
幾つかの
ハートマーク写真を
紹介します。
小保方さんに幼さを感じる
と言うのなら、
なおさらトカゲの尻尾切りのような真似は、
すべきではないです。
なお、これから紹介する
ハートマークの画像は、
The Cult Cat @Elverojaguarさんのツイートに
添付されていたものです。
出典として
年月日に元ツイートをリンクさせておきます。
出典:〔1:17 - 2014年5月8日 〕
出典:〔16:59 - 2014年5月9日 〕
出典:〔16:59 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:01 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:01 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:02 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:06 - 2014年5月9日 〕
出典:〔17:07 - 2014年5月9日 〕
以上です。
大変な力作揃いで、
「この写真、どれくらいの時間をかけましたか」
と聞きたくなりませんか。
ただ、男性的な感性に支配されている人には、
違和感があるかもしれません。
僕は、
これらの画像を眺めながら、
写真を撮る
驚異的な忍耐強さに
感服する同時に、
女性にとって
ハートマークというのは、
水戸黄門の
印籠についてる紋所みたいなもんだな
ということを納得しました。
いくら生物の
不思議に到達する理論的考察に
優れた人であっても、
小保方さんは、
年相応に
ハートマークを
崇拝しておったというだけの話じゃないですか。
そんな瑣末なことにこだわって、
一人の女性の将来を
奪い取っていい話ではないでしょ。
〔資料〕
「What's in a picture? The temptation of image manipulation」
JCB(July 6, 2004 // JCB vol. 166 no. 1 11-15 )
☆ 記事URL:http://jcb.rupress.org/content/166/1/11.full
Conclusion
*英文に続く括弧内の和訳は、exciteの機械翻訳文です。
Data must be reported directly, not through a filter based on what you think they “should” illustrate to your audience. For every adjustment that you make to a digital image, it is important to ask yourself, “Is the image that results from this adjustment still an accurate representation of the original data?” If the answer to this question is “no,” your actions may be construed as misconduct.
(データは、あなたが思うことに基づいたフィルタを通って、直接報告されてはなりません、それらはあなたの聴衆に説明するべきです。
デジタル画像に行うすべての調節については、あなた自身に尋ねることは重要です、「この調節にまだ起因するイメージはオリジナル・データの正確な表現ですか。」
この質問に対する答えが「no」である場合、あなたのアクションは不品行として解釈されるかもしれません。)
Some adjustments are currently considered to be acceptable (such as pseudocoloring or changes to gamma settings) but should be disclosed to your audience. You should, however, always be able to justify these adjustments as necessary to reveal a feature already present in the original data.
(いくつかの調節は、受理可能である(色が偽つけるか、ガンマ・セッティングへの変更ように)と現在考えられますが、あなたの聴衆に発表されるべきです。
しかしながら、オリジナル・データの中に既にある特徴を明らかにするのに必要なときに常にこれらの調節を正当化することができるに違いありません。)
We hope that by listing guidelines and publicizing examples of transgressions, all of us can become more vigilant, particularly in guiding junior colleagues and students away from the tempting dangers of digital manipulation. Just because the tools exist to clean up sloppy work digitally, that is no excuse to do sloppy work.
(私たちは、ガイドラインのリストおよび違反の例の公表によって、特に年少の同僚および学生をディジタル操作の誘惑する危険から遠ざけてガイドする際に、私たちがすべてより警戒しているようになることができることを望みます。
ツールが雑な仕事をディジタルできれいにするために存在するだけで、それは雑な仕事をする弁解ではありません。)
If you would have redone an experiment to generate a presentation-quality image in the days before the digital age, you should probably redo it now.
(もしデジタル時代の前の日でプレゼンテーション品質イメージを生成するために実験をやり直せば、恐らく今それをやり直すでしょう。)
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