のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

昭恵夫人は、塚本幼稚園の名誉校長。教育勅語の普及に邁進されてます

2016年08月08日 11時56分39秒 | 天皇制と戦争
kamitori 緑と平和の地球が一番! @kamitoriさんのツイート。

――RT @kijitora0510 教育勅語を教える学校の名誉校長は安倍首相夫人。こんな幼いうちから「同期の桜」を歌わせている(写真の歌は軍隊行進曲)。
(塚本幼稚園)〔23:29 - 2016年8月6日 〕——

小学校も併設されているようです。

kikyou@自衛隊新基地建設反対 @otokanaariaさんが

こんな報告。

――安倍昭恵はいろいろやばい

瑞穂の國記念小學院
http://mizuhonokuni.ed.jp/index.html1:02 - 2016年8月7日 〕——



ちなみに、

教育勅語とは、

次のような教えです。

――朕(ちん)惟(おも)フニ、我(わ)ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、德ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。我(わ)ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此(こ)レ我(わ)ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。爾(なんじ)臣民(しんみん)父母(ふぼ)ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相(あい)和シ、朋友(ほうゆう)相(あい)信ジ、恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆ニ及ボシ、學(がく)ヲ修(おさ)メ、業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ、以(もっ)テ智能ヲ啓發シ、德器(とっき)ヲ成就シ、進(すすん)デ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)ジ、國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ、一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレバ義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)ジ、以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ。是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕(ちん)ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民(しんみん)タルノミナラズ、又(また)以(もっ)テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足(た)ラン。
斯(こ)ノ道ハ實(じつ)ニ我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)ノ遺訓ニシテ、子孫臣民(しんみん)ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所(ところ)、之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ、咸(みな)其(その)德ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽(ぎょめいぎょじ)——

☆ 記事URL:http://www.tukamotoyouchien.ed.jp/educationcontent.html

喜んで我が子を死地に追いやる、

戦中、

特攻を支えた

「銃後の守り」の御本尊、

教育勅語の精神を

復活させるのに熱心な昭恵夫人であります。

物心つく頃より軍国教育をやるべし

という持論(?)を

こんなところで実践されているのですかな。





他方、昭恵夫人は、

2012年11月に完成したナムのひろば文化会館の

落慶法要にも招かれ、

「命の見つめ方」をテーマにして

講師をされています――。

何だか

場違いな講師による心得違いな演題に見えます。

何を話されたのでしょう?

☆ 記事URL:http://namosquare.org/culturalcenter/ceremony.html



そもそも

「正福寺」

という寺、真宗のようですが、

寺の住職は

どういう考え方の人なのでしょうね。

検索すると、

この間の相模原事件の容疑者、

植松を

ドストエフスキーの

小説「罪と罰」の

ラスコリーニコフになぞらえて、

「一人一人の『いのちの息遣い』が聞けていない」と

非難されてました

(2016年8月号「相模原大量殺傷事件で考えさせられた『いのちの尊厳』」参照。*http://namosquare.org/onstage/onstage.html)。

この人、

仏教界の三宅洋平と呼んであげましょうかね、

安倍昭恵を講師に呼ぶくらいだから、

法話には

「命は戦場で散らす」点にメッセージ性を与えたい、

したがって、

戦場でないところでの殺人はダメだとでも、

考えている御仁なんでしょうか。

確かに、

戦場でないところでは、

被殺者の「いのちの息遣い」が聞けるのに聞かなかった点で

殺人者の反規範性がより強く窺えます。

ただ、その程度の思索では、

仏教者として、

根本的なところで

「すべてのいのちは量りない(ママ)いのちと心でつながっている」

ということが

分かっていない恐れがありますな。

思うに、

生活能力によって序列をつける考え方自体が

誤っているように感じます。

僕は、

ドストエフスキーの

「罪と罰」でなく、

シェークスピアの

「マクベス」

を思い出しました。

劇中、魔女が言う、

「綺麗は、汚い。汚いは、綺麗」

なんですよ。

ただ、価値観のひっくり返しは伴わない、

すなわち、ネトウヨらしい

主客転倒した考え方に襲われただけなのでしょう

(拙稿「ネトウヨ転倒論法、炸裂! 「ストップ! “全体主義”」だって。おぞましいな」参照。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/ed658cc1172530b50998475beb54aaa5)。

障害者の施設で働くというのは、

価値観を変える絶好のチャンスだったはずです。

つまり、

優生思想の逆の世界観に生きるということです。

具体的に言うと、

「べてるの家」の理念である

「昇る人生から降りる人生へ」といった、

現代日本の社会と

真逆の価値観を持って世を渡ることです。

雨宮処凛さんの言葉を借りれば、

「全身から力が抜け、よろけてしまいそうなほど素晴らしい」

(「雨宮処凛が行く! 障害者の世界は、「豊か」だ。の巻」参照。*http://www.magazine9.jp/article/amamiya/29637/

障害者が主となった

(あるいは、主となりえる)世界観

――ヨーロッパでは、ノーマライゼーション。

米国では、メインストリーム。

日本では、「べてるの家」の理念として結晶した

人間関係の在り方――に

目覚めれば、

僕が体験したような充実を手にしただろうに、

と思います

(拙稿「障害者を介護する。それは、自分が楽器になることにも似ているな」参照。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/602417eae1cb68d3ba797c206d96c1e0)。

植松容疑者は、

このようなノーマライゼーションやメインストリームの

運動を

「綺麗ごと」だから、

あるいは、観念的な理想論に過ぎず、現実に適用できないものとして

切って捨てたのでしょうな。

実は、

現実に適用できるんです!!

僕は、

体験してます。

「汚い」と見える彼ら知的障害者たちって、

実際に接すれば、

とても力に溢れていて綺麗なんです。

そこのところは、

素直な心があれば、

肌で分かるはずなんですよ。

然るに、

植松容疑者においては

それが見切れなかったというのが

彼の

人間としての未熟さの現れであるとともに、

現実を見ないようにするがために

大麻を吸い、

入れ墨に酔い痴れ

自分をごまかした結果の副作用だったと受け止めています。

「価値の反転」なんです、必要なのは。

「立場の転換」ではありません。

立場を変えてしまって、

健常者こそ、

以前にも増してより強く

「ノーマル」になる、「メイン」になるんだ

と思ってしまったのでは、

仕事場が全く面白くなかったはずです。

その自分の鬱積した気持ちで

周りを見るから

「保護者の疲れきった表情、職員の生気の欠けた瞳」などと言って

内に閉じこもらざるを得なくなったのです。

知的障害の施設で働いた人間として

天に誓って言います。

僕は、無茶苦茶愉快でした、彼らとともにいた歳月。

「職員の生気の欠けた瞳」など、

僕に言わせれば、

とんでもない言いがかりです。

せっかく正規の職員になりながら、

脱力系

「わが身の春をエンジョイする」

スタッフの心境になれなかったとして、

それは、

考え違いをしているからでしょう。

上記、寺の坊さんが

「量りない」命のことに言及されています。

そのような普遍的な命、

無量寿な

仏様の慈悲の目から見れば、

彼ら、寅さんのような人(知的障害者)こそ好ましい人間像なんだ

と思います。

そういう見方が昔からあればこそ、

彼らは、

「福子(ふくこ)」

と呼び習わされていました。

今、その概念を

蘇らせることが現代社会を救う鍵なんではないでしょうか。

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