サイト「兵頭に訊こう」(管理人:兵頭正俊氏)は、
佐賀藩士山本常朝が
武士道について
「武士道というは、死ぬことと見つけたり(武士道とは死ぬことである)」
と述べた
『葉隠聞書』を
奴隷精神の極致であると喝破されてます。
☆ 記事URL:http://m-hyodo.com/international-dispute-5/
考える材料として、
下に、
『葉隠聞書』の
「武士道というは、死ぬこと」と理念づける箇所を
下記に引用しておきます。
「二つ二つの場〔注〕にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわりて進むなり。図に当たらず、犬死になどいうことは、上方風の打ち上りたる武道なるべし
二つ二つの場にて、図に当たるようにすることは及ばざることなり。われひと、生くる方が好きなり。多分好きの方に理がつくべし。
もし図にはずれて生きたらば、腰ぬけなり。世の物笑いの種となるなり。この境危うきなり。図にはずれて死にたらば、犬死に・気違いにて、恥にはならず。これが武道の丈夫なり。
毎朝、毎夕、改めては死に、改めては死に、常住死に身になりて居る事は、武道に自由を得、一生落ち度なく、家職を仕果たすべきなり。」
兵頭氏の現代語訳は、
次の通りです。
――生か死かどちらかを選択しなければならないときは、死ぬ方を選ばなくてはならない。別にそれ以上の意味はない。覚悟をきめて前に進むだけだ。当てが外れて死ぬのは犬死にだ、などというのは都会風の軽薄な武士道である。
生死をかけるような場面では思いどおりに行くかどうかはわからない。わたしだって生きる方が好きである。人間は生きる方に考えようとする。
もし、思い通りにゆかずに生きながらえたなら、それは腰ぬけである。その境目はとても難しい。逆に、当てが外れて死ねば、犬死にであり気違いざたであるが、これは恥にはならない。これが武士道の本筋である。
毎朝毎夕のように死ぬことを決心して、常に死んだ身になっていれば、武士道と自分は一体となり、一生落ち度がなく、職務をまっとうすることができるのだ。――
上の文章をさらっと読んで、
気づくのは
「図に当たらず」という結果に
対する評価です。
葉隠は、
こう理解します。
その結果は、
死に値するのだ、と。
だからこそ、
図に当たらなかったにかかわらず
生きていた場合、
「腰ぬけ」
という非難を免れず、
世の物笑いの種となるんだというわけです。
しかし、思い通りにならないのは、
思い通りに
なしえなかった者の責任なのか
ということです。
不可能を
命じた者に何の責任もないのか
ということ、
大いに問うべきです。
兵頭氏が
「奴隷精神の極致」
と厳しく断ぜられるのは、
その故でしょう。
〔注〕二つ二つの場:二つに一つの意味です。つまり二者択一ということです。
*http://www.geocities.jp/sybrma/307hagakure.html
佐賀藩士山本常朝が
武士道について
「武士道というは、死ぬことと見つけたり(武士道とは死ぬことである)」
と述べた
『葉隠聞書』を
奴隷精神の極致であると喝破されてます。
☆ 記事URL:http://m-hyodo.com/international-dispute-5/
考える材料として、
下に、
『葉隠聞書』の
「武士道というは、死ぬこと」と理念づける箇所を
下記に引用しておきます。
「二つ二つの場〔注〕にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわりて進むなり。図に当たらず、犬死になどいうことは、上方風の打ち上りたる武道なるべし
二つ二つの場にて、図に当たるようにすることは及ばざることなり。われひと、生くる方が好きなり。多分好きの方に理がつくべし。
もし図にはずれて生きたらば、腰ぬけなり。世の物笑いの種となるなり。この境危うきなり。図にはずれて死にたらば、犬死に・気違いにて、恥にはならず。これが武道の丈夫なり。
毎朝、毎夕、改めては死に、改めては死に、常住死に身になりて居る事は、武道に自由を得、一生落ち度なく、家職を仕果たすべきなり。」
兵頭氏の現代語訳は、
次の通りです。
――生か死かどちらかを選択しなければならないときは、死ぬ方を選ばなくてはならない。別にそれ以上の意味はない。覚悟をきめて前に進むだけだ。当てが外れて死ぬのは犬死にだ、などというのは都会風の軽薄な武士道である。
生死をかけるような場面では思いどおりに行くかどうかはわからない。わたしだって生きる方が好きである。人間は生きる方に考えようとする。
もし、思い通りにゆかずに生きながらえたなら、それは腰ぬけである。その境目はとても難しい。逆に、当てが外れて死ねば、犬死にであり気違いざたであるが、これは恥にはならない。これが武士道の本筋である。
毎朝毎夕のように死ぬことを決心して、常に死んだ身になっていれば、武士道と自分は一体となり、一生落ち度がなく、職務をまっとうすることができるのだ。――
上の文章をさらっと読んで、
気づくのは
「図に当たらず」という結果に
対する評価です。
葉隠は、
こう理解します。
その結果は、
死に値するのだ、と。
だからこそ、
図に当たらなかったにかかわらず
生きていた場合、
「腰ぬけ」
という非難を免れず、
世の物笑いの種となるんだというわけです。
しかし、思い通りにならないのは、
思い通りに
なしえなかった者の責任なのか
ということです。
不可能を
命じた者に何の責任もないのか
ということ、
大いに問うべきです。
兵頭氏が
「奴隷精神の極致」
と厳しく断ぜられるのは、
その故でしょう。
〔注〕二つ二つの場:二つに一つの意味です。つまり二者択一ということです。
*http://www.geocities.jp/sybrma/307hagakure.html
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