
典拠:Stephen Stapczynski @SStapczynski さんのツイート〔14:53 - 2015年2月12日 〕
「絶対的な悲惨はない」
ということが言いたいのかな。
アウシュビッツにも祈りはあったろう。
また、笑った日もあったろう。
それは事実として、
なるほどその通りだろうと思う。
しかし、人間として
普通に享受しえる
「平安」が処刑されるユダヤ人に許されたわけはなかろう。
どんなことでも、
確かに相対化して考えられる。
しかし、特殊を否定するのは誤りだ。
一様でない悲惨、苦境が
それぞれの人に特殊な形で背負われている。
語られるべきは、
それぞれの人が背負っている
「ワースト」であり、「ベスト」なんだと思う。
たとえば、小説家である
曽野綾子さんが自己の戦時体験を「ベスト」なものとして
語るのは勝手だろう。
ただ、それをもって
「どこまでも『ベター』に過ぎず、あなたの『ワース』と異ならない」
かのようにぬかすのは、
欺瞞であり、生きた時代の体験の悪用だな。
戦争中、日本でぬくぬくと暮らしていた人間が
アウシュビッツの
悲惨を吹聴しては可笑しいだろう。
しかし、「悲惨」を知らないことをもって、
「英知」と呼ぶべきではない。
曽野綾子のような女性が
作家であり続けられた事実に驚愕する。
これは、
紛れもない戦後の悲惨だ。
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