前滋賀県知事・嘉田由紀子さんが
武藤貴也議員のことにつき、
「彼ほどの自己中心的な方はめずらしいです。その彼がシールズの活動を「極端な利己的考え」と非難したことに驚きいっております。」
と評されているようです
(宮武嶺 @raymiyatake さんのツイート〔15:29 - 2015年8月9日 〕)。
「極端に利己的考え」とは、
自分自身のことだったのですな。
なお、下に〔資料〕として
転載した「幸せの青い鳥」の報告は、
内容において
山本 あつしさんの8月7日0:44 付 のフェースブックの記事に同じです。
☆ 記事URL:https://www.facebook.com/atsushi.yamamoto.5855/posts/843675875727570
投稿日時から考えて、
山本 さんの記事の方がオリジナルなのでしょう。
ただ、どっちにしても、
前滋賀県知事の嘉田由紀子さんのコメントのソースが
明らかにされていません。
この点、記事の信憑性において
若干の疑問が残ります。
恐らく
日刊ゲンダイの記事と平仄があうので、
正しいでしょうが
(拙稿「一晩で自民党議員になった、武藤貴也!」参照。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/96a35b9703d482d23407b170522ef6b4)。
〔資料〕
「武藤貴也議員のことについてー前滋賀県知事の嘉田由紀子さんのコメント」
サイト「幸せの青い鳥」(2015/8/9(日) 午前 6:02)
☆ 記事URL:http://blogs.yahoo.co.jp/kotyannomama/17799774.html
武藤貴也議員のことについて、前滋賀県知事の嘉田由紀子さんが以下のようなコメントを出されています。
紹介させていただきます。
...
昨日も知り合いの知事から「嘉田さん、武藤さん知っているの?武藤さんは嘉田さんの政策ブレインだったと公言しているようだけど、どうなってんの?」と質問を受けました。そこで、少し長くなりますが武藤さんと嘉田との接点について、詳しく説明させていただきます。
政治信条として、滋賀県四区選出の武藤貴也さんの今回のシールズに対する発言については強い反感を覚えます。私自身は先日、7月22日に「チームしが」代表として声明文を出させていただいたように、安保法制案の衆議院での強行採決に抗議をし、参議院での法案の廃案を強く訴えています。また戦争については、「だれも殺さず、殺されず、殺させず」という人道的理念を表明しております。
武藤さんを紹介する「ウイキペデイア」に次のような記述がありました。
「2009年4月27日、嘉田由紀子知事を支持する会派の政策スタッフであったが、自民党から立候補することになったことについて、「自民と意見の合わなかったところもあるが、合ったところもある。合わなかったことについては、調整役になって、よりよい政策にすれば嘉田県政のためになる」と発言[1]。」
まず、武藤貴也さんは政策の柱を自己都合で変える方でした。2009年4月、嘉田政策を実現するために連携していた県議会の「対話の会・しがネット」会派の事務局員であった武藤さんは、滋賀県議会の自民党関係者から近くに迫る衆議院議員選挙の自民党国会議員候補に公募しないか声をかけられたようです。当時の滋賀県政の最大課題はダム問題でした。嘉田知事と自民党会派が、県議会が流会になる(2008年12月)ほど対立をしていたのが大戸川ダムや丹生ダムなど、琵琶湖辺のダム問題でした。
その時、武藤貴也さんは県議会の「対話の会・しがネット」会派の事務局員として、特に木沢成人県会議員と意気投合して、徹底的なダム反対を主張して論陣を張っておりました。事務局員の役割を超えて、嘉田が山田・橋下・野呂知事と2008年11月にだしたダム凍結の「四知事合意」声明文は生ぬるいと批判するほどでした。
その人が、自分が自民党の国会議員候補者になれるとなると、一晩にして「ダム推進」に変わりました。私は我が耳を疑うほど驚きました。こんなに簡単に理念や政策を変える人がいるのだと。つまり政策の柱や理念を「自分が国会議員になりたい」という自己都合で変える政治家でした。
また、私が知る限り、武藤さんは、会合の約束の時間も守らず、それでも謝罪もなく、自己中心的な方でした。彼が2012年に一期目の衆議院議員選挙に当選して、定期的に県の幹部を交えて知事と国会議員との意見交換会を行いました。その時にいつも彼は遅刻していました。しかし謝罪はありません。周囲の人間はあきれていました。彼ほどの自己中心的な方はめずらしいです。その彼がシールズの活動を「極端な利己的考え」と非難したことに驚きいっております。私は彼のこれまでの言動から、彼を全く信用していません。
なお「対話の会」について、少し補足させてもらいます。
2006年に新幹線の新駅や滋賀県内の6つのダムなど必要性の低い公共事業の見直しを県民と約束をして県民の皆さんの支持をいただき、滋賀県知事に当選をしましたが、ダムや新幹線新駅などの公共事業推進の自民党会派と鋭く対立しました。そこで2007年には「知事は変わった!次は県議会だ!」という目的で、「対話でつなごう滋賀の会」(寺川庄蔵代表)が県議会選挙に候補者をたて5名が当選しました。民主党も当選者を増やし、結果的に滋賀県政始めての「自民党会派の過半数割れ」が起こりました。
二元代表制の地方自治としては、「対話の会」は嘉田の政策実現を支援する地域政党ですが、代表は嘉田ではなく、首長とは独立した民間人の寺川庄蔵さんでした(ここが首長の橋下さんが代表を務めた地域政党「維新の会」とのちがいです)。また県議会の会派「対話の会・しがねっと」は清水鉄次さんを代表とする五人会派として2007年4月に結成されました。
清水さんによると2007年当時「対話の会」は新人が多く県議会での活動支援の事務員が必要ということで、知り合いを通じて当時公共政策論の学生だった武藤貴也さんを2007年の10月頃にアルバイト事務員として採用したということです。この採用の経緯は後から嘉田は知らされました。
武藤貴也議員のことにつき、
「彼ほどの自己中心的な方はめずらしいです。その彼がシールズの活動を「極端な利己的考え」と非難したことに驚きいっております。」
と評されているようです
(宮武嶺 @raymiyatake さんのツイート〔15:29 - 2015年8月9日 〕)。
「極端に利己的考え」とは、
自分自身のことだったのですな。
なお、下に〔資料〕として
転載した「幸せの青い鳥」の報告は、
内容において
山本 あつしさんの8月7日0:44 付 のフェースブックの記事に同じです。
☆ 記事URL:https://www.facebook.com/atsushi.yamamoto.5855/posts/843675875727570
投稿日時から考えて、
山本 さんの記事の方がオリジナルなのでしょう。
ただ、どっちにしても、
前滋賀県知事の嘉田由紀子さんのコメントのソースが
明らかにされていません。
この点、記事の信憑性において
若干の疑問が残ります。
恐らく
日刊ゲンダイの記事と平仄があうので、
正しいでしょうが
(拙稿「一晩で自民党議員になった、武藤貴也!」参照。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/96a35b9703d482d23407b170522ef6b4)。
〔資料〕
「武藤貴也議員のことについてー前滋賀県知事の嘉田由紀子さんのコメント」
サイト「幸せの青い鳥」(2015/8/9(日) 午前 6:02)
☆ 記事URL:http://blogs.yahoo.co.jp/kotyannomama/17799774.html
武藤貴也議員のことについて、前滋賀県知事の嘉田由紀子さんが以下のようなコメントを出されています。
紹介させていただきます。
...
昨日も知り合いの知事から「嘉田さん、武藤さん知っているの?武藤さんは嘉田さんの政策ブレインだったと公言しているようだけど、どうなってんの?」と質問を受けました。そこで、少し長くなりますが武藤さんと嘉田との接点について、詳しく説明させていただきます。
政治信条として、滋賀県四区選出の武藤貴也さんの今回のシールズに対する発言については強い反感を覚えます。私自身は先日、7月22日に「チームしが」代表として声明文を出させていただいたように、安保法制案の衆議院での強行採決に抗議をし、参議院での法案の廃案を強く訴えています。また戦争については、「だれも殺さず、殺されず、殺させず」という人道的理念を表明しております。
武藤さんを紹介する「ウイキペデイア」に次のような記述がありました。
「2009年4月27日、嘉田由紀子知事を支持する会派の政策スタッフであったが、自民党から立候補することになったことについて、「自民と意見の合わなかったところもあるが、合ったところもある。合わなかったことについては、調整役になって、よりよい政策にすれば嘉田県政のためになる」と発言[1]。」
まず、武藤貴也さんは政策の柱を自己都合で変える方でした。2009年4月、嘉田政策を実現するために連携していた県議会の「対話の会・しがネット」会派の事務局員であった武藤さんは、滋賀県議会の自民党関係者から近くに迫る衆議院議員選挙の自民党国会議員候補に公募しないか声をかけられたようです。当時の滋賀県政の最大課題はダム問題でした。嘉田知事と自民党会派が、県議会が流会になる(2008年12月)ほど対立をしていたのが大戸川ダムや丹生ダムなど、琵琶湖辺のダム問題でした。
その時、武藤貴也さんは県議会の「対話の会・しがネット」会派の事務局員として、特に木沢成人県会議員と意気投合して、徹底的なダム反対を主張して論陣を張っておりました。事務局員の役割を超えて、嘉田が山田・橋下・野呂知事と2008年11月にだしたダム凍結の「四知事合意」声明文は生ぬるいと批判するほどでした。
その人が、自分が自民党の国会議員候補者になれるとなると、一晩にして「ダム推進」に変わりました。私は我が耳を疑うほど驚きました。こんなに簡単に理念や政策を変える人がいるのだと。つまり政策の柱や理念を「自分が国会議員になりたい」という自己都合で変える政治家でした。
また、私が知る限り、武藤さんは、会合の約束の時間も守らず、それでも謝罪もなく、自己中心的な方でした。彼が2012年に一期目の衆議院議員選挙に当選して、定期的に県の幹部を交えて知事と国会議員との意見交換会を行いました。その時にいつも彼は遅刻していました。しかし謝罪はありません。周囲の人間はあきれていました。彼ほどの自己中心的な方はめずらしいです。その彼がシールズの活動を「極端な利己的考え」と非難したことに驚きいっております。私は彼のこれまでの言動から、彼を全く信用していません。
なお「対話の会」について、少し補足させてもらいます。
2006年に新幹線の新駅や滋賀県内の6つのダムなど必要性の低い公共事業の見直しを県民と約束をして県民の皆さんの支持をいただき、滋賀県知事に当選をしましたが、ダムや新幹線新駅などの公共事業推進の自民党会派と鋭く対立しました。そこで2007年には「知事は変わった!次は県議会だ!」という目的で、「対話でつなごう滋賀の会」(寺川庄蔵代表)が県議会選挙に候補者をたて5名が当選しました。民主党も当選者を増やし、結果的に滋賀県政始めての「自民党会派の過半数割れ」が起こりました。
二元代表制の地方自治としては、「対話の会」は嘉田の政策実現を支援する地域政党ですが、代表は嘉田ではなく、首長とは独立した民間人の寺川庄蔵さんでした(ここが首長の橋下さんが代表を務めた地域政党「維新の会」とのちがいです)。また県議会の会派「対話の会・しがねっと」は清水鉄次さんを代表とする五人会派として2007年4月に結成されました。
清水さんによると2007年当時「対話の会」は新人が多く県議会での活動支援の事務員が必要ということで、知り合いを通じて当時公共政策論の学生だった武藤貴也さんを2007年の10月頃にアルバイト事務員として採用したということです。この採用の経緯は後から嘉田は知らされました。
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