のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

SNSを考えて、自我が崩壊しそうになるような徒労感

2015年02月24日 22時28分25秒 | 日々の思い
――たった30分くらいネットから離れてSNSについて改めて考えたらメリットの無さ感に自我が崩壊しそうになった・・・〔14:00 - 2015年2月23日 〕――

という坂東ぎょにく@自由とは恐ろしいものだな @gyonikunet のツイートには、

共感の苦笑を浮かべる方が多いのではないでしょうか。

僕も近頃、

この「自我が崩壊しそうになった」体験しました。

メリットの無さ感は、

どこから来るのでしょうか。

年齢的なものがあるかもしれないです。

自分の能力を忘れて

ブログに没頭している最中、

突如、徒労感に打ちひしがれるのです。

この感覚に近いこと、

五木寛之氏も書いておられるようでした

(下記〔資料〕参照)。

いわく、人の言葉の届く範囲というのは、

驚くほど狭いのである云々。

大作家にしてこれです。

我々、普通の人間がSNSでどんなに務めても

自分の記事が

読んでもらえる方たちの数など

たかが知れています。

好調のときで、

せいぜい2、3人?

4、5人まで行けば上等ですよね。

誰にも読んで頂いてないと最初から諦めていた方が

正解かもしれないです。

だもんで、久しぶりに、

何のためにブログなどを書いているのか、

しばし、考えることとなりました。

僕の場合は、

死ぬ一瞬に自分の生の意味を見出そうとしてます。

独居生活していて

(明日死ぬのではないか…)

と考えてしまうことって多いのです。

かくして、

毎日、毎日が死の前日です。

死の間際、

走馬灯のように過去が甦ると言います。

僕は、

そういう思い出を前にしたとき、

胸を張っていたいです。

子どもがいないので、

未来は誰にも託せません。

それでも

生きて何らかの意味があるとすれば、

自分だからこそ

出来る何かを見出すことでしょ?

それでこれかな、

と思ったのがブログ記事の投稿です。

若い人は、

将来があるから、

思いっきり正直にはなれないでしょう。

現に、

特定秘密保護法が施行されてから

政府に批判的な

ツイートの投稿数が

ガタ減りです。

その点、

僕は、消え入りそうな

命の残り火で

かえって自由なのです。

しかし、結局、

誰の耳にも僕の声が届かないのでは、

という疑問。

もしくは、

届いたとしても

何の役にも立たないのではないかという

無力感で、

足腰が冷え切ってしまいそうになります。

それが

冒頭に述べた

「徒労感」の中身と思います。

最近、

アップした曲に

「グリーン・スリーブス」があります

(拙稿「Estampie♪ - Greensleeves (この曲、映画「ロミオとジュリエット」の挿入歌に似てる!)」参照。
http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/15caf33b61ec812e36fd033c5d1f7e78)。

この曲、

老いて初めて感動できる曲じゃないかと

思いました。

ただ、それだからこそか、

三野義広さんの訳された歌詞、

「グリーン・スリーブス もう お前を知る者はいない」は、

痛いですね。

グリーン・スリーブスって、

憧れの人であると同時に自分自身でもあるからです。

死ぬまでの道程で、

「お前を知る者はいない」という

諦念は、

なかなか受け入れ難いです。

しかし、

「これでいい。大海の一滴であることが幸せである」

と思える

人生の最後の瞬間を迎えられたら良いですな。


〔資料〕

「再び『下山の思想』を探す④」 

   日刊ゲンダイ(2月20日付〈19日発行〉)エッセイ:五木寛之氏・文


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