のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

朝日新聞 / 「国に棄てられた数知れぬ浮浪児 『1匹2匹と数えられ』」

2018年08月13日 22時42分26秒 | 天皇制と戦争
蝦夷@SoilF1278さんのツイート。

――国に棄てられた数知れぬ浮浪児 「1匹2匹と数えられ」:朝日新聞デジタル〔20:51 - 2018年8月13日〕――


<追記>

PassyKis@passykisさんのツイート。

――日本の隠したい真実と恥
東京大空襲により疎開していた多くの子供たちは家も家族も失い孤児となった。生きるために盗みをし上野駅地下道で生活をしていた子供達を、国は「かりこみ」という名のもとで鉄格子に押し込めた。トラックで山奥に連れて行かれ捨てられた子供達もいた。非道以外の何物でもない〔9:34 - 2018年8月15日 〕――





2018年8月16日深夜 記



〔資料〕

「国に棄てられた数知れぬ浮浪児 「1匹2匹と数えられ」」

   朝日新聞(2017年8月18日20時45分)

☆ 記事URL:https://www.asahi.com/articles/ASK7Z4CHWK7ZULZU006.html


戦争孤児の会代表の金田茉莉さん=山本和生撮影


戦争孤児の会代表、金田茉莉さん

 戦争で親を奪われた戦争孤児は、戦後史の闇に埋もれた存在だ。自身もその一人である金田茉莉さんは、30年にわたり、孤児たちの証言や資料を集め、未来への「遺言」として伝えてきた。82歳になったいまも、日々パソコンに向かい、孤児の目でみた戦後日本の現実を書き残す。
 ――若いころに右目の視力を失い、最近は左目も悪くされて、細かい字が読めないそうですね。それでも書き続ける。執念に似た思いを感じます。
 「72年前の終戦の後、東京・上野の地下道は浮浪児であふれ、数え切れない子どもたちが餓死し、凍死しました。生きた証しすら残せず、『お母さん』とつぶやき、一人で死んでいった。いま書いている本の題は『なぜ浮浪児になったのか』にしようと思います。歴史の闇に埋もれた実態を明らかにして、汚名をそそぎたいのです」
 ――汚名、とは?
 「浮浪児と呼ばれた子どもの大半は戦争孤児です。学童疎開中に空襲で家族を失った子もたくさん路上にいました。だれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられた。『浮浪児に食べ物をやらないで』という貼り紙まで街頭にありました」
 ――学童疎開中なら小学生の年代です。親を失った子の心中を思うと、胸が苦しくなります。
 「私が通っていた東京の国民学校では、宮城県に集団疎開中の小学生66人が、空襲で孤児になりました。私の家族は最初は行方不明で、『私の手足がなくなってもいいから生きていて』と毎日必死に祈りました。しかし4カ月後、母と姉の遺体が隅田川で見つかったと知らされて。妹の遺体は見つからぬままです。父は早くに病死していて、親戚宅を転々としました。全国の疎開孤児は、膨大な数だったと思います。孤児施設も極度に不足しており、引き取る親戚がなければ、農家などへ養子にだされました」
 ――いきなり、養子ですか。
 「里親のもとで愛情深く育てられた人もいますが、戦後の混乱期で人心はすさんでいました。働き手を軍隊にとられ、どこも人手不足でした。こきつかわれ、学校に通えないことも珍しくない。文句を言う親も、行政のチェックも、何もありませんでした」
 ――孤児たちはなぜ、路上をさまようようになったのでしょう。
 「当時5年生だった男性は、集団疎開から戻った上野駅で迎えがなかったそうです。パニック状態になり、焼け跡で家族を捜しても見つからず、日が暮れて駅に戻りました。『生きていないと親に会えない』と思い、盗みを始めたと打ち明けてくれました。同じ境遇で一緒に地下道にいた3年生の男の子は、何日間も何も口にできず、『お母さん、どこにいるの』と言った翌日、隣で冷たくなっていた、と。いったん親戚や里親に引き取られても、重労働や虐待に耐えかねて家出をして、浮浪児になった子も数多くいました」
     ◇

 ――国は戦争孤児を守ってくれなかったのでしょうか。
 「戦後、戦争孤児の保護対策要綱を決め、集団合宿教育所を全国につくる方針を示しました。しかし、予算も規模もまったく不十分でした。見かねた民間の篤志家や施設が私財をなげうち、孤児を保護したものの追いつかず、街に浮浪児があふれました」
 ――国の支援不足が浮浪児を生んだ、と。
 「そうです。戦争孤児は、国に棄(す)てられた。私はそう思っています。20代のころに、当時の厚生省(現厚生労働省)に戦没者遺族への補償を受けられないか、問い合わせました。生活苦で、わらにもすがる思いで。でも『軍人・軍属の遺族ではないので、対象ではない』と言われた。同じ戦争犠牲者でも、民間の空襲被害者は差別されているのです」
 ――どう、国は対処すべきだったと思いますか。
 「学童疎開は国策として実施されたのに、戦争に負けると孤児たちは放り出されました。せめて義務教育が終わるまで、国の責任で養育すべきでした。食糧難で窮乏している親戚に託したり、急場しのぎに養子に出したりという対応は、無理があったのです」
 ――戦争孤児の総数は、正確にはわかっていないのでしょうか。
 「政府は1946年の帝国議会で、戦争孤児の総数を『3千名前後』と答弁しました。混乱期とはいえ、あまりの過小評価です。48年にようやく厚生省が全国一斉調査をして、孤児は12万人以上いたことがわかりました。病死などとされたその他8万人余りも内訳は不明で、実質的には大半が戦争孤児だと私は考えています。しかもこの調査は、養子になった孤児や沖縄県の孤児、路上にいた浮浪児は含まれていません。実数は、さらに多かったと思います」
     ◇
 ――路上の孤児は排除、取り締まりの対象になっていきます。
 「狩り込み、と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、『1匹、2匹』と動物のように数えられました。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言を聞きました。30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に『捨てられた』そうです」
 ――信じがたいできごと…

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