山崎 雅弘 @mas__yamazakiさんのツイート。
――昨日はルチャ・リブロの青木さんと、昨年見逃した映画『否定と肯定』を心斎橋でようやく鑑賞。冒頭から、今の日本で盛んに語られる「南京虐殺否定論」と同じ論法(理論というより論理的詐術)のホロコースト否定論が。歴史修正と差別思想の繋がりも含め、日本社会にとってもタイムリーな作品だと思う。〔14:47 - 2018年1月9日〕――
この映画、
僕も観ていなったので、
昨日、見てきた。
しかし、映画の行き帰りの
でき事の方が
身に染みた。
上映映画館は、
シネマートというところだった。
検索して、
「地下鉄御堂筋線、心斎橋で降りて南に向かって信号二つ目右折。
三角公園の手前」
にあると確認して、
いざ出発。
しかし、僕がとんでもない方向音痴で、
これだけの準備では
足りないこと、心斎橋についてから思い知った。
駅を降りてから、
どっちが南かが分からない!
近くにいた芋姉ちゃんに
「どっちが南?」
と尋ねてみた。
趣味の悪そうな格好に
親近感を感じた。
然るに、
顔を上げた
その女性の不審感に満ちた眼差しが
忘れられない
(出たな、引っかけ or 痴漢!)、
という気持ちが表情から読み取れた。
改めて
「どっちが南?」
と尋ねる僕に
こんな答えが返って来た。
「I can not speak Japanease」
「ははは。めんご」
無事に
目的地に着いたものの、
映画館は、
「ビッグステップ」
という建物内にあり、
外から見て、
ここに映画館があるとはとてもわからない。
駅から降りて、
どちらが南かが直ぐに分からなくなる地元、
大阪生まれの大阪育ちの僕があわや遭難かというとき、
救ってくれたのは、
コンビニ店の店員さんだった。
しかし、難は、
それで済まなかった。
映画鑑賞後、
「ビッグステップ」内の
食堂に入った。
尿意を催したが、
店内にトイレがない。
店の人に尋ねると、
トイレは外だという。
しかし、外のどこにあるのかが分からない。
うろうろしているとき、
娘さんが
「そっち」とか言って教えてくれた
(うおー~、女神じゃ。女神出現じゃ~~、フロアー中を走る
ほどの悦びに包まれた)。
僕が店の人に
トイレはどこじゃと尋ねていたとき、
会計しておられて、
僕の質問が耳に入ったのだろうな。
ありがたや、ありがたや。
それにしても、
ビッグステップの内装を引き受けた人間、
どういうつもりで、
トイレの入り口不明にしてあるのだろう。
トイレ難民が出るのを予想して
一見して分からないようにしているのだろうか。
久しぶりに
大阪界隈を歩いて
痛い体験満載だ。
しかし、同時にあった肯定感。
映画の
「否定と肯定」は、
さほどインパクトを感じなかった。
しかし、
迷路を歩いたような体験は、
鮮烈だったな。
帰宅してから思うのは、
「I can not speak Japanese」
と答えた女性の
敵愾心に満ちた目、
本当に日本語、分からなかったのかな。
折りしも、
往年のフランスの大女優、
カトリーヌ・ドヌーブさんの
こんな公開書簡が耳目を集めているという。
書簡によると、、
「私たちは、今のこのフェミニズムの動きに、女性としての自分を見いだせない。権力乱用を非難する以上に、男性や性的なものを憎悪する動きになってしまっているので」
とのこと。
強姦は、
確かに許しがたい犯罪行為だ。
ただ、だからと言って、
男性に言い寄られただけ、
あるいは、単に道を訊かれただけなのに、
それがいかにも犯罪のように過剰反応する行為に違和感を感じる。
強姦という
人な行動が
他方で、
ある種、パニック的な反応を
多くの女性に引き起こしているのかもしれないな。
〔資料〕
「女優ドヌーブ氏など仏女性100人、男性が女性を誘うのは「犯罪ではない」」
BBC(2018年01月10日)
☆ 記事URL:http://www.bbc.com/japanese/42631653
米映画界の関係者がハリウッドで長年黙認されてきた性的加害行動を強く糾弾するなか、フランスでは女優カトリーヌ・ドヌーブ氏ら100人の著名女性が9日、男性が女性を誘うのは犯罪ではないと公開書簡で主張した。
9日付の仏紙ル・モンドに掲載された公開書簡でドヌーブ氏たちは、昨年から次々と表面化する性的スキャンダルによって、新たな「ピューリタニズム(清教徒的な過剰な潔癖主義)」の波が起きていると警告した。
作家や学識者、表現芸術の関係者など著名なフランス人女性100人は、「ただ誰かの膝を触っただけ、あるいは誰かをキスしようとしただけで、多くの男性が問答無用に罰せられ、職を追われてきた」と批判している。
「強姦は犯罪だが、誰かを口説こうとするのは(たとえそれがしつこくても、あるいは不器用でも)犯罪ではない。そして、男性が紳士的にふるまうのは、決して男尊女卑な攻撃ではない」と、女性たちは書簡で主張している。
書簡に署名した女性たちは、昨年秋に米映画界の大物プロデューサー、ハービー・ワインスティーン氏が何十人もの女性を強姦、あるいは性的に暴行したと糾弾されたことを機に、「非難」の波が次々と押し寄せていると指摘。今や世界で新たな「ピューリタニズム」が進行していると主張している。
書簡の女性たちは、一部の男性による権力の乱用を指摘するのは正当で必要なことだが、ひっきりなしに続く糾弾の波は、収拾がつかなくなっていると指摘。このせいで、まるで女性が無力で、慢性的な被害者であるかのような雰囲気、女性をそのように見る風潮が生まれていると書いている。
「私たちは、今のこのフェミニズムの動きに、女性としての自分を見いだせない。権力乱用を非難する以上に、男性や性的なものを憎悪する動きになってしまっているので」と、書簡の女性たちは、ハリウッドを中心とした動きに距離を置いた。
ドヌーブ氏はこの書簡以前にも、誰それが性的な加害行動を女性にとったと男性を糾弾するソーシャルメディアでの運動について、当事者の男性を辱めるのが目的になっていると否定的な発言をしていた。
性的な加害行動を経験した世界中の女性と男性が、ソーシャルメディアで自分たちの経験をハッシュタグ「#Me too(私も)」を使って共有している。
フランスでは、ハッシュタグ「#Balancetonporc(いやらしい男を言いつけよう)」を使い、加害者の実名を挙げて恥をかかせようという動きが起きている。
女優のドヌーブ氏は1957年にデビューした後、100作品以上の映画に出演。アカデミー賞主演女優賞候補にもなっている。
(英語記事 Catherine Deneuve defends men's 'right' to hit on women)
――昨日はルチャ・リブロの青木さんと、昨年見逃した映画『否定と肯定』を心斎橋でようやく鑑賞。冒頭から、今の日本で盛んに語られる「南京虐殺否定論」と同じ論法(理論というより論理的詐術)のホロコースト否定論が。歴史修正と差別思想の繋がりも含め、日本社会にとってもタイムリーな作品だと思う。〔14:47 - 2018年1月9日〕――
この映画、
僕も観ていなったので、
昨日、見てきた。
しかし、映画の行き帰りの
でき事の方が
身に染みた。
上映映画館は、
シネマートというところだった。
検索して、
「地下鉄御堂筋線、心斎橋で降りて南に向かって信号二つ目右折。
三角公園の手前」
にあると確認して、
いざ出発。
しかし、僕がとんでもない方向音痴で、
これだけの準備では
足りないこと、心斎橋についてから思い知った。
駅を降りてから、
どっちが南かが分からない!
近くにいた芋姉ちゃんに
「どっちが南?」
と尋ねてみた。
趣味の悪そうな格好に
親近感を感じた。
然るに、
顔を上げた
その女性の不審感に満ちた眼差しが
忘れられない
(出たな、引っかけ or 痴漢!)、
という気持ちが表情から読み取れた。
改めて
「どっちが南?」
と尋ねる僕に
こんな答えが返って来た。
「I can not speak Japanease」
「ははは。めんご」
無事に
目的地に着いたものの、
映画館は、
「ビッグステップ」
という建物内にあり、
外から見て、
ここに映画館があるとはとてもわからない。
駅から降りて、
どちらが南かが直ぐに分からなくなる地元、
大阪生まれの大阪育ちの僕があわや遭難かというとき、
救ってくれたのは、
コンビニ店の店員さんだった。
しかし、難は、
それで済まなかった。
映画鑑賞後、
「ビッグステップ」内の
食堂に入った。
尿意を催したが、
店内にトイレがない。
店の人に尋ねると、
トイレは外だという。
しかし、外のどこにあるのかが分からない。
うろうろしているとき、
娘さんが
「そっち」とか言って教えてくれた
(うおー~、女神じゃ。女神出現じゃ~~、フロアー中を走る
ほどの悦びに包まれた)。
僕が店の人に
トイレはどこじゃと尋ねていたとき、
会計しておられて、
僕の質問が耳に入ったのだろうな。
ありがたや、ありがたや。
それにしても、
ビッグステップの内装を引き受けた人間、
どういうつもりで、
トイレの入り口不明にしてあるのだろう。
トイレ難民が出るのを予想して
一見して分からないようにしているのだろうか。
久しぶりに
大阪界隈を歩いて
痛い体験満載だ。
しかし、同時にあった肯定感。
映画の
「否定と肯定」は、
さほどインパクトを感じなかった。
しかし、
迷路を歩いたような体験は、
鮮烈だったな。
帰宅してから思うのは、
「I can not speak Japanese」
と答えた女性の
敵愾心に満ちた目、
本当に日本語、分からなかったのかな。
折りしも、
往年のフランスの大女優、
カトリーヌ・ドヌーブさんの
こんな公開書簡が耳目を集めているという。
書簡によると、、
「私たちは、今のこのフェミニズムの動きに、女性としての自分を見いだせない。権力乱用を非難する以上に、男性や性的なものを憎悪する動きになってしまっているので」
とのこと。
強姦は、
確かに許しがたい犯罪行為だ。
ただ、だからと言って、
男性に言い寄られただけ、
あるいは、単に道を訊かれただけなのに、
それがいかにも犯罪のように過剰反応する行為に違和感を感じる。
強姦という
人な行動が
他方で、
ある種、パニック的な反応を
多くの女性に引き起こしているのかもしれないな。
〔資料〕
「女優ドヌーブ氏など仏女性100人、男性が女性を誘うのは「犯罪ではない」」
BBC(2018年01月10日)
☆ 記事URL:http://www.bbc.com/japanese/42631653
米映画界の関係者がハリウッドで長年黙認されてきた性的加害行動を強く糾弾するなか、フランスでは女優カトリーヌ・ドヌーブ氏ら100人の著名女性が9日、男性が女性を誘うのは犯罪ではないと公開書簡で主張した。
9日付の仏紙ル・モンドに掲載された公開書簡でドヌーブ氏たちは、昨年から次々と表面化する性的スキャンダルによって、新たな「ピューリタニズム(清教徒的な過剰な潔癖主義)」の波が起きていると警告した。
作家や学識者、表現芸術の関係者など著名なフランス人女性100人は、「ただ誰かの膝を触っただけ、あるいは誰かをキスしようとしただけで、多くの男性が問答無用に罰せられ、職を追われてきた」と批判している。
「強姦は犯罪だが、誰かを口説こうとするのは(たとえそれがしつこくても、あるいは不器用でも)犯罪ではない。そして、男性が紳士的にふるまうのは、決して男尊女卑な攻撃ではない」と、女性たちは書簡で主張している。
書簡に署名した女性たちは、昨年秋に米映画界の大物プロデューサー、ハービー・ワインスティーン氏が何十人もの女性を強姦、あるいは性的に暴行したと糾弾されたことを機に、「非難」の波が次々と押し寄せていると指摘。今や世界で新たな「ピューリタニズム」が進行していると主張している。
書簡の女性たちは、一部の男性による権力の乱用を指摘するのは正当で必要なことだが、ひっきりなしに続く糾弾の波は、収拾がつかなくなっていると指摘。このせいで、まるで女性が無力で、慢性的な被害者であるかのような雰囲気、女性をそのように見る風潮が生まれていると書いている。
「私たちは、今のこのフェミニズムの動きに、女性としての自分を見いだせない。権力乱用を非難する以上に、男性や性的なものを憎悪する動きになってしまっているので」と、書簡の女性たちは、ハリウッドを中心とした動きに距離を置いた。
ドヌーブ氏はこの書簡以前にも、誰それが性的な加害行動を女性にとったと男性を糾弾するソーシャルメディアでの運動について、当事者の男性を辱めるのが目的になっていると否定的な発言をしていた。
性的な加害行動を経験した世界中の女性と男性が、ソーシャルメディアで自分たちの経験をハッシュタグ「#Me too(私も)」を使って共有している。
フランスでは、ハッシュタグ「#Balancetonporc(いやらしい男を言いつけよう)」を使い、加害者の実名を挙げて恥をかかせようという動きが起きている。
女優のドヌーブ氏は1957年にデビューした後、100作品以上の映画に出演。アカデミー賞主演女優賞候補にもなっている。
(英語記事 Catherine Deneuve defends men's 'right' to hit on women)
まあ、何事もそうなのでしょうけれど、行き過ぎは、完璧主義は、バランスを、欠いておかしなところに行きがちになりますよね。
ただ、山口敬之はアウトでしょう。
「I can not speak Japanese」という返答、本当と信じたいです。しかし、引っかけをかわす方法という気もするんですよね。大体、心斎橋を外国の女性、一人で歩くか、と思うわけです。もし、芝居をしたのだとすると、人を食ってますよ。できれば、嘘をつかず、かわす方法を選んで頂きたかったってことです。もちろん、強姦はアウトです。
暴力につき、肉体的なものだけでなく、精神的なものもあることがこの問題を複雑にしているようです。
女性は、セクハラについて、大抵被害者です。しかし、パワハラという点では、女性特有の侮蔑や憎悪の伝え方というのがあって、それって、必ずしも公平ではない、すなわち、男性から見て暴力的なわけです。ドヌーブさんは、その点を指摘されておられるのではないかと思うのです。
それと、もう一つ――。
トランプ大統領がセクハラで訴えられたとき、後ろでジョージ・ソロスが糸を引いていたと言われています。米国の全メディアを掌握してクリントン夫人を支えるためです。
ドヌーブがハリウッドと我々は一線を画すと明言しているのは、米国資本に支配されるのは真っ平ごめんという気持ちの表明でしょう。単に“性犯罪”という面でだけ捉えていると、Me Too運動の本質を見逃してしまうと思います。