河野聡子(TOLTA) @toltaroppoさんのツイート。
――この「教授」なる人物ですが、これを許している大学はどうかしていると思う。:私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?|文月悠光 @luna_yumi |臆病な詩人、街へ出る。〔15:14 - 2016年8月25日 〕——
詩人とは、
正直であることを職業にしてしまった人だと思う。
これをもって
異端と言う人は、
「正直な部分」は普通の人にとって
人に見せるものではなく、
心の奥座敷に鎮座させておくものだという
感覚の持ち主なのだろう。
そんなものを見せたがる人は、
自分の裸を売る人、
すなわち、娼婦だと…
これに対し、
文月悠光さんが煩悶しつつ
次のように言葉を綴る。
いわく〈現在の日本社会において詩人であること〉って?
言葉による暴力を許さないこと。この瞬間を切り取るためにペンを走らせ、声を上げること。醜い言葉を撃ちつづけること。
窒息しそうなこの世界に、言葉で風穴を開けること――。 云々。
この件を読んで、
如何に正直であり続けることが大変か感じるとともに、
昨夜、
「愛国心」を巡って
ツイッターで言葉を交わした内容を思い出した。
僕は、
若い人たちに
自民党支持の老人たちと論争するとき、
正直になって
「僕に、私に愛国心はない」と語る
無意味さ、
愚かしさを伝えたかった。
以下、再掲しておく。
ろーるず@moral_Iawさんが
次のようなツイート。
――「普通の日本人」というのは、たとえどれだけ日本の惨状を目の当たりにして、正しく認識できても、「それでも日本が好きだ」と言える人たちのことだろうな。左派が「だから日本が嫌いだ。日本人が嫌いだ」なんて言ってるうちは、絶対に普通の日本人はこちらになびいてくれないと思うよ。〔22:29 - 2016年8月25日 〕——
――割と右側の人間とも絡んだりしているうちに、彼らが左翼を嫌う理由も理解できるようになった。
「愛国心を捨て去れ」なんて主張に首肯できるのは、極めて特殊な人に限るんだよ。
だから左翼も、本心はどうあれ戦略的には「愛国者」の顔をしていなければ話にならない。〔22:36 - 2016年8月25日 〕——
これに、
僕は絡みついた。
――@moral_Iaw 「愛国心を捨て去れ」なんて言っている左翼の人っていますか。〔22:39 - 2016年8月25日 〕——
ろーるず@moral_Iawさんは、
率直に
――@gyokkirinn います。私も、理屈としてはそう思っています。〔22:40 - 2016年8月25日 〕——
と答えてくれた。
――@moral_Iaw あなた以外で誰かいますか?〔22:41 - 2016年8月25日 〕——
と、僕は、重ねて問う。
この後、DJバーネルさんの名前が出て、
この方も議論に参加。
――(=゚ω゚)ノ@gyokkirinn @moral_Iaw〔0:06 - 2016年8月26日 〕——
また、荒木 ゆかり@yukari_chan1969 さんも参加。
――@moral_Iaw @feedback515 @gyokkirinn
別に愛国心を捨てなくていいので、樹液が夏に出て冬に出ないように、愛国心を出してもいいと思う政治の基準値を一人一人がきちんと持つ方がいいですね。
年中愛国心が出ているのではまるで発狂していうようで...〔0:12 - 2016年8月26日 〕——
スポーツ競技で
「位置について」ということだね。
――真面目な話、私には「愛国心」が理解できません。私は大阪出身ですが「大阪府」を愛せよ、など意味不明もいいところで、また大雑把な概念としての「大阪」に対しても、親しみはありますが「愛」などないですよ。@yukari_chan1969 @moral_Iaw @gyokkirinn〔0:18 - 2016年8月26日 〕——
「バン!」
号砲が鳴った――。
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw なければないでいいのですよ。問題は、愛国心を利用しようとする人間は、間違いなく愛国心など持っていないということ、はっきりさせる必要があります。〔0:22 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw 森喜朗だけでなく、安倍晋三にしたって、1ミリだって愛国心など持っていないです。しかし、他人にはそれを持てと要求して、国民の大多数が持ってないことを嘆くのです。〔0:30 - 2016年8月26日 〕——
僕のツイートを誰かがリツイートしてくださった。
しかし、こうなると逆上してしまう(笑)。
ちょっと時間をおいて、その後、言いたいことを書き並べた。
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw 僕がこいつら本当に許せんなと思うのは、そういう人間の良心に関わるようなところで嘘をついているなと思うことです。他人の「愛国」といったデリケートな問題で嘘をつく人間に国防を任せたら国が滅びます。〔0:36 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw ちょっと話が飛躍していると思われるかもしれませんが、「愛国心」の議論って宗教論争に似ていると思いませんか。宗教論争では、信仰心のない方が有利です。損得勘定に忠実だからです。〔1:04 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw 大岡裁判で有名な逸話に、子どもを取り合って勝った方が負けたという話があるでしょ。実の親は、子どもの腕がおかしくなると考えて手を放す。その結果、取り合いに負けるという話です。〔1:06 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw 愛国心を巡る論争でも同じことが起こるんじゃないですか。相手を圧倒するには、愛国心などない方が論争に有利と覚えておいて、相手の愛国心のなさを暴いてやればいいと思うのです。〔1:10 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw そのためには迂闊に「愛国心など持ってません」と素直に認めない方がいいと思うのですな。愛国心を持っていないという点では、相手はあなた以上だよということが言いたかったのです。以上です。〔1:13 - 2016年8月26日 〕——
ツイッターにしろ、ブログにしろ
人との距離の取り方(感じ方)が難しい。
さっきは、
人が集まる気配を感じて逆上したのに、
最期のツイートを書く頃には、
すっかり太平洋独りぼっちの気分になっていた。
改めて、
荒木 ゆかり@yukari_chan1969さんの
――@feedback515 @moral_Iaw @gyokkirinn
ウソを吐いたり誤魔化すことしかしない政治家がいるような国は愛することなど出来ません。自身のできないことを他人にしかも安価ですることを要求するような世の中は、憎みこそすれ愛そうとはとても思えません。〔0:32 - 2016年8月26日 〕——
というツイートを拾い損ねていることに気づく。
自分に愛国心のないことを語れば、
「持て!」と
がなりたい相手にとっては
思う壺だ。
僕が言いたかったのは、
そういうことだ。
読み取ってくれるだろうと思い、
返信はしなかった。
〔資料〕
「私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか? 」
「Cakes」:臆病な詩人、街へ出る。 (2016年8月25日 )/文月悠光
☆ 記事URL:https://cakes.mu/posts/13716
その日、私は都内某大学の教壇に立っていた。〈現代の日本社会において詩人であること〉といった切り口で自由に語ってほしい、と知人の教授に頼まれたのだ。
詩人であること、か。なんだかむず痒い気持ちだ。
大学を卒業してから二年経つとはいえ、私は教壇よりも学生として席に座っている方がまだしっくりくる。でも、同世代の自分が教壇に立つことで、「詩人」を身近な存在として学生に受けとめてもらえるなら、と恐れ多くも講義のゲストを引き受けた。
当日は緊張で冷や汗をかきつつも、40人ほどの学生の前に立った。詩を書きはじめたきっかけや詩人の仕事について話し、紹介がてら作品を朗読した。
事が起こったのは、後半、教授による公開インタビューの時間に入ったときだった。教授は「ふづきさんにいくつか質問をします」を告げるなり、こう尋ねた。
「cakesの連載で『詩を書いていなかったら、キラキラした女子になれたのでは?』と編集者に言われた、とあるね。でも、果たしてそうなのか。逆のパターンもありえたんじゃないか。『女子大生風俗嬢』という本も話題になっていてね。詩人と娼婦は似た部分があると思うんだ。
もしかしたら、ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか。ふづきさんは娼婦についてどう思う?」
一体何を言い出すのだろう。「それを聞いてどうするんですか?」と口走りそうになるのを、ぐっとこらえる。この質問は、教授の仕掛けた一種の「プロレス」なのだろう。怒りに身を任せて、学生たちの前で取り乱すのは得策ではない。さて、どう答えるべきか……。
壇上で80あまりの瞳に見つめられ、ガラス張りの実験器具に入れられたような感覚に陥った。
壇上にいる間、私はひどく息苦しかった
私は「きわどい質問ですね……」と言葉を選びながら、次のように答えた。
「性風俗や水商売などのナイトワークに就く女性の多くは、経済的な事情を抱えていますが、その内情は多種多様です。『どう思うか?』と問われても、今ここで、その立場にいる女性の気持ちを想像するのは難しいですし、実情を知らないまま語るのは暴力的に思えます。向き合ってみないとわからない、というのが本音です」
私は学生時代、風俗嬢ライター・菜摘ひかるのエッセイを愛読し、一種の中毒のように何度も読み返していた。文章に描かれた、労働することの辛さや歓び、激しい渇望は、風俗嬢という職業の枠を超えて、私を強く惹きつけた。魅了される気持ちの中には、働くことへの憧れと、性の仕事に対する下世話な好奇心も入り混じっていたように思う。その「好奇心」の中に差別的な目線はなかっただろうか、とのちに深く恥じた経験がある。
だからこそ「どう思うか?」という質問に対する答えは、そうやすやすと見つからない。教壇の上では「向き合ってみないとわからない」と、距離を取るような言い方しかできなかった。
教授の表情は不満げだった。
「どうも、ふづきさんと娼婦の間に壁を感じるね。壁の向こうから語っているみたい」と納得できない様子。
私は内心ゲンナリしつつ、「壁、というか。当事者ではないのに、外側の印象だけで勝手に語ることはできません」と淡々と告げた。
あの無遠慮な質問に、どう振る舞うべきだったのだろう?
講義から数ヵ月が経った今も、私は嫌悪感に苛まれ、原稿を書き出しては手が止まっている。セクハラじみた質問に対して、私はあの日、動揺を隠すので精一杯だった。なぜもっと率直に反応できなかったのか。怒りと悔しさが渦巻いて、意識を離れない。
私は苦笑いなどするべきではなかった。あの場で、きちんと生の声で怒りを表明するべきだったのだ。
「娼婦ってなんですか? 自分の意志で性風俗の仕事を選んだ女性もいれば、やむにやまれず、その仕事に就いた女性もいるでしょう。それを『娼婦』とひとくくりにして、私がどう答えたら満足ですか?
『興味がある』と答えたら、私を『性に奔放な女』にカテゴライズするんですか? 『無理です。やりたくない』と答えたら、『性風俗業を蔑視する女』にくくるんですか? 誰もそんな風に一方的に決めつけられたくないんです」
今思えば、教授の用意した環境自体が、いささか勝手なものだった。
事前に講義の段取りを打ち合わせした際、私はある新聞記事を取り出し、こんな提案をした。
「学生の興味を引くような自己紹介が必要だと思うんです。先日、東京新聞でcakesの連載のことや、私の活動を取り上げてもらったので、この記事を学生に見てもらうのがわかりやすいんじゃないかと……」
「記事は見たよ。でも今日は、あえて事前情報なしに文月さんをぶつけてみようと思って。生の詩人を見せて、学生たちの目を覚醒させたいんですよ」と教授はしたり顔で、にやりと笑う。
ぶつける? 私は強いプレッシャーを感じ、思わず目を伏せた。
講義の開始時、教授からは次のように紹介された。
「この教室の中には、今就職活動に励んでいる方もいますが……。あなた方の先輩には、その道からあえて外れた『異端者』が存在するのです! 今日はその『異端者』を連れてきました!」
力強い教授の言葉とは裏腹に、私は顔からサーッと血の気が引くのを感じた。一方的に「社会を逸脱した異端者」のレッテルを貼られてしまった。
「私は詩人として、企業に就職せず、フリーランスで生活しています。……先ほど『異端者』と紹介していただきましたが、私自身はごく慎重に『どうしたら執筆を中心とした生活を維持できるだろう?』と考えて、この状態に落ち着きました」
私は教壇に立った瞬間、「異端者」のレッテルを剥がすところから話を始めた。仕方がない。とにかく「詩人=特殊な人」という印象を払拭しなければ。
壇上にいる間、私はひどく息苦しかった。「詩人」という偶像を介して話すことを強いられているようで、もどかしく、不自由な心地がした。今振り返ると、単なる緊張とも違う、一方的な負荷をかけられていたように思う。
講義の終了後、教授はとりなすように「あの質問は、場の空気をほぐそうと思って敢えてぶつけてみたんだ」と弁解した。
「ぶつけ」ないと気がすまないのか、「手渡す」気がないんだな、と思いながら、私は曖昧に苦笑いするしかなかった。
乱暴な質問で答え合わせをする人々
講義の一件にとどまらず、私は無遠慮な発言に反論することが苦手だ。目上の相手を怒らせたり、場の空気を壊したりすることが怖くて、半ば無意識にひるんでしまう。
その気質と、大人しそうな見た目のせいか、公私問わず、乱暴な質問をぶつけられることが少なくない。
朗読会に出演すれば、初対面の男性客に「朗読にエロスが感じられないね。最近セックスしてる?」と尋ねられ、父親ほど年の離れた人から「子宮のことを詩に書いているけど、産んで育てるという自分の女性性を意識しはじめたのは何歳から? 生理がきっかけなの?」と無邪気に質問される。
悪意なくそんな言動をとる人は、どこか無神経であるか、ひどくロマンチストなのだろう。彼らは相手の気持ちを汲むことなく、「こうであってほしい」という願望、支配欲を無自覚に“ぶつけ”てくる。
もちろん人は、男女問わず誰しも、他者に自分の願望を投影する。それ自体はごく自然なことで、なんら人を傷つけるものではない。ただし、自身の幻想を一切疑わず、「正しいもの」として誰かに押しつければ、その人の意思を踏みにじることになる。
私は乱暴な質問をぶつけられるたび、「私の意見を聞きたいのではなく、自分の求める幻想の〈答え合わせ〉をしに来たのだな」と虚しい気持ちにかられてきた。
私はどうしても納得がいなかった。なぜ大学の教室という公の場で、教授に「幻想」を“ぶつけ”られなくてはいけなかったのか。
「詩人と娼婦は似た部分があると思うんだ。ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか。ふづきさんは娼婦についてどう思う?」
そもそもこの発言は、あまりに短絡的ではないだろうか。女性詩人という「社会の枠から外れた少数者」であるだけで、「娼婦」になる可能性を公然と問いただす……。仮に私が男性の書き手ならば、売春の可能性など教授は思いもしないだろう。
けれど本音を言えば、こうして丁寧に解きほぐすまでもなく、あの発言は「気持ち悪い」ものだった。
「ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか」
その言葉は、私の耳にはこのように響いた。
「今は詩人の顔をして教壇に立ってるけど、お前は娼婦なんだぞ! 私とそういう関係になってもおかしくないんだぞ!」
大げさではなく、そんな風に聞こえたのだ。
講義の翌日も怒りを引きずっていた私は、質問の音声をそのまま録音・ループ再生して、「この気持ち悪さ、わかりますよね?」と教授本人に聞かせてやりたい衝動にかられた。だが、そうしてみたところで、彼は自分の言葉を疑わず、自身の幻想を肯定するだろう。
心の中でひっそりと幻想を温める分には、その人の自由。場によっては、それは「微笑ましい」こととして受けとめられる。けれど、それを公然と誰かに「ぶつけ」たら、相手は決して微笑まない。「どうかしている」と呆れ果てるだけだ。
あの日、私が教壇で見つめていたのは、教授の顔ではなく、20歳前後の学生たちだった。教室の後方で、所在なげに腰かけていた女子学生たち。そこに、かつて学生として座っていた過去の「私」の姿を見たのだ。
教授の言葉に違和感を抱きながらも、手を挙げることができず、うつむいてしまう20歳の「私」。彼女の手を引いて、教室の外へ連れ出したかった。息苦しい教室を脱し、広やかな街へと導きたい。
私は今、ここで改めて口を開こう。
〈現在の日本社会において詩人であること〉って?
言葉による暴力を許さないこと。この瞬間を切り取るためにペンを走らせ、声を上げること。醜い言葉を撃ちつづけること。
窒息しそうなこの世界に、言葉で風穴を開けること――。
そう、これが私の答えです。
――この「教授」なる人物ですが、これを許している大学はどうかしていると思う。:私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?|文月悠光 @luna_yumi |臆病な詩人、街へ出る。〔15:14 - 2016年8月25日 〕——
詩人とは、
正直であることを職業にしてしまった人だと思う。
これをもって
異端と言う人は、
「正直な部分」は普通の人にとって
人に見せるものではなく、
心の奥座敷に鎮座させておくものだという
感覚の持ち主なのだろう。
そんなものを見せたがる人は、
自分の裸を売る人、
すなわち、娼婦だと…
これに対し、
文月悠光さんが煩悶しつつ
次のように言葉を綴る。
いわく〈現在の日本社会において詩人であること〉って?
言葉による暴力を許さないこと。この瞬間を切り取るためにペンを走らせ、声を上げること。醜い言葉を撃ちつづけること。
窒息しそうなこの世界に、言葉で風穴を開けること――。 云々。
この件を読んで、
如何に正直であり続けることが大変か感じるとともに、
昨夜、
「愛国心」を巡って
ツイッターで言葉を交わした内容を思い出した。
僕は、
若い人たちに
自民党支持の老人たちと論争するとき、
正直になって
「僕に、私に愛国心はない」と語る
無意味さ、
愚かしさを伝えたかった。
以下、再掲しておく。
ろーるず@moral_Iawさんが
次のようなツイート。
――「普通の日本人」というのは、たとえどれだけ日本の惨状を目の当たりにして、正しく認識できても、「それでも日本が好きだ」と言える人たちのことだろうな。左派が「だから日本が嫌いだ。日本人が嫌いだ」なんて言ってるうちは、絶対に普通の日本人はこちらになびいてくれないと思うよ。〔22:29 - 2016年8月25日 〕——
――割と右側の人間とも絡んだりしているうちに、彼らが左翼を嫌う理由も理解できるようになった。
「愛国心を捨て去れ」なんて主張に首肯できるのは、極めて特殊な人に限るんだよ。
だから左翼も、本心はどうあれ戦略的には「愛国者」の顔をしていなければ話にならない。〔22:36 - 2016年8月25日 〕——
これに、
僕は絡みついた。
――@moral_Iaw 「愛国心を捨て去れ」なんて言っている左翼の人っていますか。〔22:39 - 2016年8月25日 〕——
ろーるず@moral_Iawさんは、
率直に
――@gyokkirinn います。私も、理屈としてはそう思っています。〔22:40 - 2016年8月25日 〕——
と答えてくれた。
――@moral_Iaw あなた以外で誰かいますか?〔22:41 - 2016年8月25日 〕——
と、僕は、重ねて問う。
この後、DJバーネルさんの名前が出て、
この方も議論に参加。
――(=゚ω゚)ノ@gyokkirinn @moral_Iaw〔0:06 - 2016年8月26日 〕——
また、荒木 ゆかり@yukari_chan1969 さんも参加。
――@moral_Iaw @feedback515 @gyokkirinn
別に愛国心を捨てなくていいので、樹液が夏に出て冬に出ないように、愛国心を出してもいいと思う政治の基準値を一人一人がきちんと持つ方がいいですね。
年中愛国心が出ているのではまるで発狂していうようで...〔0:12 - 2016年8月26日 〕——
スポーツ競技で
「位置について」ということだね。
――真面目な話、私には「愛国心」が理解できません。私は大阪出身ですが「大阪府」を愛せよ、など意味不明もいいところで、また大雑把な概念としての「大阪」に対しても、親しみはありますが「愛」などないですよ。@yukari_chan1969 @moral_Iaw @gyokkirinn〔0:18 - 2016年8月26日 〕——
「バン!」
号砲が鳴った――。
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw なければないでいいのですよ。問題は、愛国心を利用しようとする人間は、間違いなく愛国心など持っていないということ、はっきりさせる必要があります。〔0:22 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw 森喜朗だけでなく、安倍晋三にしたって、1ミリだって愛国心など持っていないです。しかし、他人にはそれを持てと要求して、国民の大多数が持ってないことを嘆くのです。〔0:30 - 2016年8月26日 〕——
僕のツイートを誰かがリツイートしてくださった。
しかし、こうなると逆上してしまう(笑)。
ちょっと時間をおいて、その後、言いたいことを書き並べた。
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw 僕がこいつら本当に許せんなと思うのは、そういう人間の良心に関わるようなところで嘘をついているなと思うことです。他人の「愛国」といったデリケートな問題で嘘をつく人間に国防を任せたら国が滅びます。〔0:36 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw ちょっと話が飛躍していると思われるかもしれませんが、「愛国心」の議論って宗教論争に似ていると思いませんか。宗教論争では、信仰心のない方が有利です。損得勘定に忠実だからです。〔1:04 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw 大岡裁判で有名な逸話に、子どもを取り合って勝った方が負けたという話があるでしょ。実の親は、子どもの腕がおかしくなると考えて手を放す。その結果、取り合いに負けるという話です。〔1:06 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw 愛国心を巡る論争でも同じことが起こるんじゃないですか。相手を圧倒するには、愛国心などない方が論争に有利と覚えておいて、相手の愛国心のなさを暴いてやればいいと思うのです。〔1:10 - 2016年8月26日 〕——
――@feedback515 @yukari_chan1969 @moral_Iaw そのためには迂闊に「愛国心など持ってません」と素直に認めない方がいいと思うのですな。愛国心を持っていないという点では、相手はあなた以上だよということが言いたかったのです。以上です。〔1:13 - 2016年8月26日 〕——
ツイッターにしろ、ブログにしろ
人との距離の取り方(感じ方)が難しい。
さっきは、
人が集まる気配を感じて逆上したのに、
最期のツイートを書く頃には、
すっかり太平洋独りぼっちの気分になっていた。
改めて、
荒木 ゆかり@yukari_chan1969さんの
――@feedback515 @moral_Iaw @gyokkirinn
ウソを吐いたり誤魔化すことしかしない政治家がいるような国は愛することなど出来ません。自身のできないことを他人にしかも安価ですることを要求するような世の中は、憎みこそすれ愛そうとはとても思えません。〔0:32 - 2016年8月26日 〕——
というツイートを拾い損ねていることに気づく。
自分に愛国心のないことを語れば、
「持て!」と
がなりたい相手にとっては
思う壺だ。
僕が言いたかったのは、
そういうことだ。
読み取ってくれるだろうと思い、
返信はしなかった。
〔資料〕
「私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか? 」
「Cakes」:臆病な詩人、街へ出る。 (2016年8月25日 )/文月悠光
☆ 記事URL:https://cakes.mu/posts/13716
その日、私は都内某大学の教壇に立っていた。〈現代の日本社会において詩人であること〉といった切り口で自由に語ってほしい、と知人の教授に頼まれたのだ。
詩人であること、か。なんだかむず痒い気持ちだ。
大学を卒業してから二年経つとはいえ、私は教壇よりも学生として席に座っている方がまだしっくりくる。でも、同世代の自分が教壇に立つことで、「詩人」を身近な存在として学生に受けとめてもらえるなら、と恐れ多くも講義のゲストを引き受けた。
当日は緊張で冷や汗をかきつつも、40人ほどの学生の前に立った。詩を書きはじめたきっかけや詩人の仕事について話し、紹介がてら作品を朗読した。
事が起こったのは、後半、教授による公開インタビューの時間に入ったときだった。教授は「ふづきさんにいくつか質問をします」を告げるなり、こう尋ねた。
「cakesの連載で『詩を書いていなかったら、キラキラした女子になれたのでは?』と編集者に言われた、とあるね。でも、果たしてそうなのか。逆のパターンもありえたんじゃないか。『女子大生風俗嬢』という本も話題になっていてね。詩人と娼婦は似た部分があると思うんだ。
もしかしたら、ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか。ふづきさんは娼婦についてどう思う?」
一体何を言い出すのだろう。「それを聞いてどうするんですか?」と口走りそうになるのを、ぐっとこらえる。この質問は、教授の仕掛けた一種の「プロレス」なのだろう。怒りに身を任せて、学生たちの前で取り乱すのは得策ではない。さて、どう答えるべきか……。
壇上で80あまりの瞳に見つめられ、ガラス張りの実験器具に入れられたような感覚に陥った。
壇上にいる間、私はひどく息苦しかった
私は「きわどい質問ですね……」と言葉を選びながら、次のように答えた。
「性風俗や水商売などのナイトワークに就く女性の多くは、経済的な事情を抱えていますが、その内情は多種多様です。『どう思うか?』と問われても、今ここで、その立場にいる女性の気持ちを想像するのは難しいですし、実情を知らないまま語るのは暴力的に思えます。向き合ってみないとわからない、というのが本音です」
私は学生時代、風俗嬢ライター・菜摘ひかるのエッセイを愛読し、一種の中毒のように何度も読み返していた。文章に描かれた、労働することの辛さや歓び、激しい渇望は、風俗嬢という職業の枠を超えて、私を強く惹きつけた。魅了される気持ちの中には、働くことへの憧れと、性の仕事に対する下世話な好奇心も入り混じっていたように思う。その「好奇心」の中に差別的な目線はなかっただろうか、とのちに深く恥じた経験がある。
だからこそ「どう思うか?」という質問に対する答えは、そうやすやすと見つからない。教壇の上では「向き合ってみないとわからない」と、距離を取るような言い方しかできなかった。
教授の表情は不満げだった。
「どうも、ふづきさんと娼婦の間に壁を感じるね。壁の向こうから語っているみたい」と納得できない様子。
私は内心ゲンナリしつつ、「壁、というか。当事者ではないのに、外側の印象だけで勝手に語ることはできません」と淡々と告げた。
あの無遠慮な質問に、どう振る舞うべきだったのだろう?
講義から数ヵ月が経った今も、私は嫌悪感に苛まれ、原稿を書き出しては手が止まっている。セクハラじみた質問に対して、私はあの日、動揺を隠すので精一杯だった。なぜもっと率直に反応できなかったのか。怒りと悔しさが渦巻いて、意識を離れない。
私は苦笑いなどするべきではなかった。あの場で、きちんと生の声で怒りを表明するべきだったのだ。
「娼婦ってなんですか? 自分の意志で性風俗の仕事を選んだ女性もいれば、やむにやまれず、その仕事に就いた女性もいるでしょう。それを『娼婦』とひとくくりにして、私がどう答えたら満足ですか?
『興味がある』と答えたら、私を『性に奔放な女』にカテゴライズするんですか? 『無理です。やりたくない』と答えたら、『性風俗業を蔑視する女』にくくるんですか? 誰もそんな風に一方的に決めつけられたくないんです」
今思えば、教授の用意した環境自体が、いささか勝手なものだった。
事前に講義の段取りを打ち合わせした際、私はある新聞記事を取り出し、こんな提案をした。
「学生の興味を引くような自己紹介が必要だと思うんです。先日、東京新聞でcakesの連載のことや、私の活動を取り上げてもらったので、この記事を学生に見てもらうのがわかりやすいんじゃないかと……」
「記事は見たよ。でも今日は、あえて事前情報なしに文月さんをぶつけてみようと思って。生の詩人を見せて、学生たちの目を覚醒させたいんですよ」と教授はしたり顔で、にやりと笑う。
ぶつける? 私は強いプレッシャーを感じ、思わず目を伏せた。
講義の開始時、教授からは次のように紹介された。
「この教室の中には、今就職活動に励んでいる方もいますが……。あなた方の先輩には、その道からあえて外れた『異端者』が存在するのです! 今日はその『異端者』を連れてきました!」
力強い教授の言葉とは裏腹に、私は顔からサーッと血の気が引くのを感じた。一方的に「社会を逸脱した異端者」のレッテルを貼られてしまった。
「私は詩人として、企業に就職せず、フリーランスで生活しています。……先ほど『異端者』と紹介していただきましたが、私自身はごく慎重に『どうしたら執筆を中心とした生活を維持できるだろう?』と考えて、この状態に落ち着きました」
私は教壇に立った瞬間、「異端者」のレッテルを剥がすところから話を始めた。仕方がない。とにかく「詩人=特殊な人」という印象を払拭しなければ。
壇上にいる間、私はひどく息苦しかった。「詩人」という偶像を介して話すことを強いられているようで、もどかしく、不自由な心地がした。今振り返ると、単なる緊張とも違う、一方的な負荷をかけられていたように思う。
講義の終了後、教授はとりなすように「あの質問は、場の空気をほぐそうと思って敢えてぶつけてみたんだ」と弁解した。
「ぶつけ」ないと気がすまないのか、「手渡す」気がないんだな、と思いながら、私は曖昧に苦笑いするしかなかった。
乱暴な質問で答え合わせをする人々
講義の一件にとどまらず、私は無遠慮な発言に反論することが苦手だ。目上の相手を怒らせたり、場の空気を壊したりすることが怖くて、半ば無意識にひるんでしまう。
その気質と、大人しそうな見た目のせいか、公私問わず、乱暴な質問をぶつけられることが少なくない。
朗読会に出演すれば、初対面の男性客に「朗読にエロスが感じられないね。最近セックスしてる?」と尋ねられ、父親ほど年の離れた人から「子宮のことを詩に書いているけど、産んで育てるという自分の女性性を意識しはじめたのは何歳から? 生理がきっかけなの?」と無邪気に質問される。
悪意なくそんな言動をとる人は、どこか無神経であるか、ひどくロマンチストなのだろう。彼らは相手の気持ちを汲むことなく、「こうであってほしい」という願望、支配欲を無自覚に“ぶつけ”てくる。
もちろん人は、男女問わず誰しも、他者に自分の願望を投影する。それ自体はごく自然なことで、なんら人を傷つけるものではない。ただし、自身の幻想を一切疑わず、「正しいもの」として誰かに押しつければ、その人の意思を踏みにじることになる。
私は乱暴な質問をぶつけられるたび、「私の意見を聞きたいのではなく、自分の求める幻想の〈答え合わせ〉をしに来たのだな」と虚しい気持ちにかられてきた。
私はどうしても納得がいなかった。なぜ大学の教室という公の場で、教授に「幻想」を“ぶつけ”られなくてはいけなかったのか。
「詩人と娼婦は似た部分があると思うんだ。ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか。ふづきさんは娼婦についてどう思う?」
そもそもこの発言は、あまりに短絡的ではないだろうか。女性詩人という「社会の枠から外れた少数者」であるだけで、「娼婦」になる可能性を公然と問いただす……。仮に私が男性の書き手ならば、売春の可能性など教授は思いもしないだろう。
けれど本音を言えば、こうして丁寧に解きほぐすまでもなく、あの発言は「気持ち悪い」ものだった。
「ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか」
その言葉は、私の耳にはこのように響いた。
「今は詩人の顔をして教壇に立ってるけど、お前は娼婦なんだぞ! 私とそういう関係になってもおかしくないんだぞ!」
大げさではなく、そんな風に聞こえたのだ。
講義の翌日も怒りを引きずっていた私は、質問の音声をそのまま録音・ループ再生して、「この気持ち悪さ、わかりますよね?」と教授本人に聞かせてやりたい衝動にかられた。だが、そうしてみたところで、彼は自分の言葉を疑わず、自身の幻想を肯定するだろう。
心の中でひっそりと幻想を温める分には、その人の自由。場によっては、それは「微笑ましい」こととして受けとめられる。けれど、それを公然と誰かに「ぶつけ」たら、相手は決して微笑まない。「どうかしている」と呆れ果てるだけだ。
あの日、私が教壇で見つめていたのは、教授の顔ではなく、20歳前後の学生たちだった。教室の後方で、所在なげに腰かけていた女子学生たち。そこに、かつて学生として座っていた過去の「私」の姿を見たのだ。
教授の言葉に違和感を抱きながらも、手を挙げることができず、うつむいてしまう20歳の「私」。彼女の手を引いて、教室の外へ連れ出したかった。息苦しい教室を脱し、広やかな街へと導きたい。
私は今、ここで改めて口を開こう。
〈現在の日本社会において詩人であること〉って?
言葉による暴力を許さないこと。この瞬間を切り取るためにペンを走らせ、声を上げること。醜い言葉を撃ちつづけること。
窒息しそうなこの世界に、言葉で風穴を開けること――。
そう、これが私の答えです。
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