どさ

詩を投稿しはじめました。
そのうち、紀行文も予定しています。
落ち着きに欠けたものが多くなりますがそれしかありません。

月見そば(その2)

2020-01-05 02:09:21 | エサ日記

月見そば(その2)

(令和二年1月5日)

 

 ある自動車大手の元会長が保釈中、海外へ出国したとのニュースがにぎやかです。

 メディアは、元会長が件の自動車会社を立て直した際、しきりにその手法を“大胆にして細心”であると褒め称え、多くの紙面は、それを精神論にまでもちあげ、日本の産官学もかくの如くあれ、各地域も世代も階層もやればできると報じ続けておりましたところ、元会長のかくの如く“粗暴にして狡猾”な手法に対しても、その精神論が破綻しないような首尾一貫した論説が展開されることを期待します。

 

 わたしが思いつくところ、破綻例として、必ず以下のような意見が出てくるのではないでしょうか。

 

1.開き直り

 本来“大胆”と“細心”は矛盾するものであるが、「大胆にして細心」という言葉の中には矛盾をエネルギーとし、否定を否定した上でそれを乗り越えていく“止揚”という概念が示されている。人類史とはこのように発展し続けた。だから、“大胆にして細心”という概念と“粗暴にして狡猾”という行為にも矛盾があったっていいんだ!結果良けりゃそれでいいんだ(俺には都合の良いとこしか見えねぇんだ)!

 

2.うじうじ

 日本は、戦後再出発し、国民の不断の努力により、一時期、内に総中流、外に世界の工場として理想的モデルを創り上げた。しかし現在、日本は凋落しつつあり、内には格差、外にライバルと、多くの矛盾が一挙に表面化している。20年前、異邦人である元会長に活躍の場を提供したのは、それら矛盾の解決方法でもあったはずだ。“大胆にして細心”な筋書を多様性により演出しようとした劇場は結局“粗暴にして狡猾”な幕引きをむかえつつある。だから、結局、多様性なんて日本人に合わないのだ80年ほど前に大ゴケしてるだろ、多様性社会なんてやったことなかったことができるわけないじゃん、合理的配慮とかよくわかんねぇ~

 

3.キ○ガイ

 “大胆にして細心”にしろ、“多様性や合理的配慮”にしろ、いま実現している社会すべては土台が腐敗している。ために何をやっても対症療法である。土台は根本から替えなくてはならない。つまり日本には、革命or維新が必要なのだ。しかし、この現象は、社会の矛盾が一定量を越えなくてはそのメカニズムが作動しない。それゆえ、我々は矛盾がより早く社会に飽和するよう、この世に破壊と混乱と殺戮と涙をまき散らすのだ。じわじわ福祉の枠を歪め、負担すべき税をすげ替え、近隣諸国を挑発し、教育が身の丈以上にひとを育てることを防ぎ、賭博や貧困や差別を許しと、国民一人一人が自分を何かからの被害者だと勘違いさせるのだ。自覚せぬ加害者として噛み合わせるのだ。

 

 3番目のキチ○イは、時代や地域を問わず、ネーション(国民国家)現象の両端(極左または極右)に一定数現れるものでしょうからお約束としましょう。しかし、お約束と言いましても、このような剥き出しの暴力が世論を牛耳り、本当の暴力が実現してしまう社会がデストピアですので、何としても破るべきお約束です。ときの宰相が、あたかも1でも2でもあるかのように振る舞い、気が付けば、そいつこそ3であったというのが近現代史の素顔でありますので、2020年は個人としてもどう考え、どう行動するか大事な年になる気がしております。

 

                ・

 

 さて、月見そばについて書いているのに、なぜ元会長なのかと申しますと、それは思い出したからです。某空港の蕎麦スタンドから出てきて、かつ悩んでいたわたしが、偶然、エレベーターで見かけたおっさんが、来日された当時の元会長と大変似ておられたからです。今思えば、わたしの人生のコペルニクス的転回ともいえる月見そば的転回には、あの方の小さな惨劇が大きな契機となっていたのでありましょう。

 

 あのとき、わたしは悩んでおり、昼時間でもありました。フライトまでさほど時間に余裕があるわけではなく、蕎麦スタンドにて蕎麦を注文しましたが、ふと気が付くと「月見そばください」と言っているではありませんか。大嫌いな月見そばですが、生卵は、わたしの潜在意識下に入り込んでいるのでしょう、母のそれは嬉しいときに形なすのですが、わたしのそれは悩んだ時に形なすようです。

 わたしの悩みとは一種のクレーム対処でありました。クレーム主とわたしども日本人とは外見こそ似ているものの、思考の根本的な部分でやはり互いに異邦人どうしでありました。そもそも的なところでしばし対立いたします。そのときのクレームは、たとえてみますとこのような次第でした。

 

中;「俺たちは月見そばを頼んだが卵は蕎麦が出された時点で蕎麦に入っていなかった。なのでこれはかけそばだ。かけそば分の金しか払わねぇ!」

日;「お客様、当店ではおそばと生卵は別にお出ししておりまして、生卵はほれこのように別小鉢にはいって、そこにございます」

中;「喰い始めた時点でかけそばで喰い終わってもかけそばのどこに金払う道理があるんだ」

日;「確かに、説明不足であった点はお詫びいたします、また生卵をお出しするにもタイミングが一呼吸ずれてしまい大変もうしわけありません。しかし、月見そばを注文された上はそのお代を頂戴しなくては・・」

中;「知らねぇ、生卵はお前らが喰え、そもそもおれたちは鳥の卵をそのまま呑むような野蛮な事はしねぇんだよ。それになんだ月見そばってのは、始めて注文してみりゃこんなお粗末なもの。一体何をもって月見るんだ?」

・・・この野郎・・・

日;「お客様、私どもにも手落ちがありました。しかし、一度お出しした生卵を他のお客様にお出しするわけにいかず、ここで生卵を廃棄いたしますと純損として店に計上されてしまいます。せめて、半分でも差額分を頂戴できませんでしょうか」

中;「だから、あんたらが自分で呑んで、店に計上すりゃ損金でも何でもねぇだろ」

 

 こういったやり取りの末、丁稚から手代になりたてのようなわたしが現場に再度向かうところとなったのです。そして、わたしはやはり月見そばは嫌いで、それは目の前でさも熱そうなおぼろ月となっており、あの食べるときのぐちゃぐちゃなさまが脳裏に浮かび、それはそれは嫌でした。逃げてどっかに消えてしまいたいぐらい嫌でした。かといって、生卵だけさっと食べてしまう、あのトンカツやウナ丼の上に落とされた生卵だけさっさと吸い込んでしまう技は使えません。なぜなら、そのままくちをつけるとくちびるが火傷します、悲しいのです・・・

 僅かな記憶の欠如のあと、わたしは「ふふふ」と自嘲的に卵を崩します。「こうした方が早く冷え、早く食べ終わり、結果的に時間に余裕ができるんだよ」と自らに語りかけ、その濁った味をすすります。しかし、あのときのわたしには、大きな絶望が約束された前に、少しの時間を得たとして、それを活かすすべなど持ち合わせましょうか。“ああ、どうしようどうしよう・・、気魄だ、気魄がたりねぇんだ。絶対に勝てる、堂々としていれば少なくともぼろ負けはしない、何か一言で言い返せれば大丈夫だ、一言だ、一言” 

 濁った昼食のあと、濁った気持ちのまま、ラウンジに向かいます。小さなガラガラをひき、エスカレーターが見えてまいりました。何かの台に向かうようにエスカレーターは無情かつ単調に上に向かっております。そのときわたしは、自分の斜め先を、大きなガラガラ、銀と黒のリモアを二つガラガラされている体格のいいおっさんが歩いているのに気が付きました。おっさんは太く吊り上がった両の眉毛と巨大で鷲のような鼻を持つ、セム族かハム族か、はたまたインド・ヨーロッパ語族か、ともかく形容しがたくも国籍不明の方でした。いまここでは話を分かり易くするため、そのおっさんをカルロスくん(仮名)と呼びましょう。

 

(まるで哲学的にならず、その3へ続く)


月見そば(その1)

2019-12-31 20:07:15 | エサ日記

 

 

月見そば(その1)(令和元年1231日)

 

   新しい年を迎えますその刹那には、“年越しそば”をいただきます。温かきにしろ、清涼にしろ、ほのかな蕎麦の香りは、ひとつの流れである時を、今年と来年に分かち、それがまた、ひとつの自我であるわたしを、過去と未来に分かつのです。さらには、そのような儀式や意味づけは、日々の中には無限、かつ重層的に存するがゆえ、過去と未来は各々矛盾しつつもおめでたくもわたしとして在り続けていくのです。

さりながら、過去の、しかも幼い頃の私には、この“年越しそば”というものはちっともおめでたくない、どちらかといえば苦痛を伴う儀式でありました。なぜなら、そのときのわたしとそばを結ぶ関係には、基本的に選択というものはなかったわけです。

 

父は、ずいぶんとそばの好きな人でした。とくに老いてから体の自由がきくあいだ、齢を重ねるごとにそれは昂じ、訪れるたびに棚を占める干蕎麦の割合は増し(箱買いだったようです)、流しには常にザルやら猪口やら何らかのそばの痕跡が残っており、それはあたかもそば好きを通り越し、さながら“蕎麦憑き”のような状態を呈していたのです。そして、猪口が転がっているからには、父は“もりそば”、きりっと冷され、固くごつごつするそばが好きな人でした。わたしは、あの有り様を見て、ああ父というものは、子のためにはずいぶんと忍耐強いものであったのだなと感じております。というのも、父はわたしや弟が幼い頃には、ハンバーグやハウス・バーモンドカレー(りんごとはちみつ入り)、はたまたケチャップライスなど母が作る同じような料理をえんえんと食べ続け、たまにそばを茹でるにもそれは温かく柔らかいそば、時には鍋焼き蕎麦なるものに化けて供され、それをさらに延々と食べ続けていたわけですから。

かといって、母とて、父の好みを知らないというわけではありませんし、ハレとケはその世代のひとらしくきちんと分けて家事を進めておりました。つまり、新しい年を迎えるにはきちんと家族で“年越しそば”、それもお父さんの好きな“もりそば”というように心得ていたのです。師走も後半に入ってから母はさまざまな乾物を戻し煮て、家中をクリスマスから正月に急改宗させ、方々から物を買い、親類縁者のための準備をし、万端整えた総括が“年越しそば”でした、紅白を見ながらのおそばです。高度成長期の絵にかいたような家族像でもありました。しかし、母には、父よりいくぶん性質の悪いものが憑いておりまして、それがこういう刹那、必ず鎌首をもたげてくるのです。それは“卵憑き”というものでありました。いまだに、いくら諌めても改宗しないどころかより酷くなる卵憑きとは、できあいの料理をより格上にするには卵こそ答え、良く造られたものを月見にするとそれはより至高であるという妄想兼信仰であります。つまり、心をこめて作った料理の上には、無分別に生卵を落とすというそれはそれは嫌な性癖でした。

 その年も蕎麦はきちっと茹でられ、かちっと冷やされ、家族各々の簀の子の上に盛り付けられます。中央にはさらにおせちが据えられ、豪華とはいわないものの、充足に満ちた年越しです。揃えた母も充足に満ちた顔であります。幸せなわけですね。

“あっ、これがあぶねぇんだ”この予感は毎年必ずあたりました。

「あら良くできた・・そうだ卵いれなきゃ」

そう言うが母は、落ち着きに欠けたウサギすわ脱兎の如く席を離れ、次には落ち着きに欠けながらも器用に卵を5~6個もってきて食卓に置き、まず自分の蕎麦に卵を落としました。冷えて固い麺の上に。

次にその手は、「じゃ、マコトちゃんね」と母の隣にいる弟に向かいます。

母は両手で卵を持ったまま、小指を立てて弟の蕎麦の中央にぐいぐい穴を穿ち、そこに卵を放ちます。悲しい弟の表情。

「ミノルくんもね」忌々しい両手が近づきます。

「いいって、ぼくじぶんでやる!」わたしはその年越も諦めの心で手榴弾型の卵を受け取り、蕎麦の上で卵を割ります。しかしながら、母の丹精込めた蕎麦ですので、盛り付けもあいにく形よく中央が山状です。生卵は、蕎麦の頂上から簀の子の脇へずるずると流れていきました。

「あら、何やってるのミノルくん」そう言って母は素早く箸を蕎麦につっこみ、生卵と固く冷えた麺をぐちゃぐちゃに、まんべんなく引っ掻き回します。

そして、「お父さんも入れる?」と卵を持って両手を父の蕎麦の上に。

「ああ、おれはいいよ」といなす父。

「あ、そう」

(わたしは女性ではないので分かりませんが、もしエレクトラコンプレックス(娘が母へ抱く潜在的殺意だそうです)というものがあるのでしたら、きっとそのときに結んだことでしょう)

 そうして、私の少年時代の“年越しそば”とは、冷えて固くて黄色くてかつ幾つかの泡が立っているものでした。

その当時でも、わたしたちの親の世代、いくらかの戦前と戦後を知っている人たちに卵がどれだけ貴重だったという事は頭では分かっておりました。そして、それは時代の在り方、父母の過去の経験として理解しなくてはならないのだと思います。しかし、母のそれは、時代以上に偏執的なものを感じています。最近、それはどうも彼女の生まれ育った土地柄が関係していたのだという事が分かってきました。その土地は昔の物資集積地で、特に当時は石炭の集積地として重要な地方都市であったのです。しかも、それら石炭を産する炭鉱は、九州のように一カ所に巨大な埋蔵量を有するのものではなく、山の中の小さな炭鉱がネットワーク状に拡がり、その要として発展した都市とのこと。さらに、そのような土地ではちょっとした贅沢は卵である傾向があることなどが分かってきました。つまり、海辺でもなく、穀倉地帯でもない、自前の農業や漁業や商業といった歴史では、海の幸、山の幸などの御馳走という文化に届きえなかった、中東のある地域の住民が偏執的に卵を消費するのと似た構造があるのかと思い、同時にそういう人たちは永遠に卵以外の選択をする人々を理解できないのではないかと少し恐ろしくなりましました。

 

                 

 

さて、わたしは別に年越しそばから思い出された不条理を書きたくてこの文書を書いているわけではありません。本当は、年が移り変わるこの今に、時間と自己という、多少哲学的な思考ゲームを現してみたかったのです。それは、“あなたがレストランに入り、「月見そば、卵抜いてね」と注文してた際、何の違和感なくただのかけそばが提供されたなら、あなたかなり高い確率で、月見そば専門店にいるという”というもので、時の流れのなかにあって、時と同じ速さで存在する自己は、時の流れをいかにして知りえるかということを現してみたかったのです。が、年の瀬に何の手伝いもせず、このような文を書いていますわたしに対し、ほら今このときも、キッチンや茶の間から殺気だった空気が伝わってきます。あともう少しでそれは臨界に達するでしょうから、私は遅まきながらも年越しそばを茹でる作業に入りたいと思います。では、みなさま良いお年を。
 
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